初春エトランゼ



 JCC時代、とある女の子の、彼氏の浮気現場を目撃したことがある。僕と彼女が掃除を任された空き教室はいわゆるヤリスポットで、彼女――名前ちゃん――の彼氏(臨時教師として勤めていた)はその教室で別の女子生徒とよろしくしていた最中だった。名前ちゃんは今にも泣きそうな顔をしたくせに罵声のひとつも浴びせず来た道を戻って、「変なの見ちゃったね」と強がった。多分、僕が何も知らないと思ったのだろう。ただ残念なことに僕はその数日前に校舎裏で二人がいちゃついているのを目撃していたから、「あれ、君の彼氏じゃなかった?」とど直球に投げかけた。
 顔を引き攣らせて、彼女が振り返る。

「……なんで?」
「こないだ見たよ〜」

 意地悪く笑って、僕は唇に人差し指を当てる。それが何を意味するのかを察して、名前ちゃんはまた泣きそうになった。それから俯いて、「わたしもああいうことすればよかったのかも」とか細く零した。僕は呆れる。セックスなんて同意なしにするものじゃないし、同意が得られなかったからといって浮気していい理由になるはずがない。ましてや大の大人が学生相手に、殺しを日常にする僕らが言うのもおかしな話だけれど、普通に犯罪だ。
 でもそんな風に慰めるのは面倒臭くて、僕は色んな話をすっ飛ばして「殺しちゃえば?」とだけ言った。びっくりして顔を上げた彼女に、心の中で(まあ無理だろうけど)と思う。腐ってもJCCの教師に、こんな小さな女の子が優勢になるわけないと思っていたのだ。
 けれど翌日の実践演習で、彼女は報復と言わんばかりにその臨時教師を簀巻きにして吊し上げた。それはもう鮮やかな手並みで、あの目に涙を溜めていた少女とは似ても似つかなくて、ただ純粋に綺麗だと思った。氷のように冷たい眼差しも、風に靡いた艶やかな髪も、ぜんぶ、どこかの芸術家が創り上げた美術品みたいで。
 自然と彼女の姿を追うようになった数ヶ月後、名前ちゃんは編入試験で合格した先輩と付き合いだした。合同授業や放課後なんかはずっと一緒にいて、彼女は時折相手の男に見たことのない少女の顔をする。桜の花弁がのったようなうっすらと赤い頬をして、白馬の王子様を見つめるお伽噺のお姫さまのような瞳を向ける。
 それが妙に腹が立って、心の中で(別れればいいのに)と念じた一ヶ月後、二人は本当に破局した。まさかまた捨てられたんじゃないよね、と妙な心配をして僕は彼女を探したけれど、今度の彼女は全然平気そうで、屋上のフェンスに腰をかけたまま「思ってたのと違ったからわたしから別れちゃった」と煙草の箱をひっくり返した。白色が、ばらばらと宙を舞って落ちていく。煙草好きが見たら「勿体ない」と発狂するだろうなと思いつつ、僕は疑問を投げかけた。

「煙草吸ってたっけ?」
「んーん。先輩が吸ってたから合わせたんだけど、美味しくないからもう吸わない」
「分かる〜。美味しくないよね。仲間内だと吸わないの僕だけだからさ、普通はハマるものなのかと思ってた〜」

 身を翻して、僕も彼女の隣に座る。カシャン、と音を立てて、フェンスが少し揺れた。
 名前ちゃんは最後に空になった煙草の箱を投げ捨てると、「南雲くんとよくいる銀髪の人、かっこいいよね」と零した。「えっ」思わず声が上がる。

「落ち着いてて年上かと思った」
「えーー……落ち着いてるというか、無愛想って言うんじゃない?」

 確かに女の子に人気はあるけどー、と唇を尖らせる。それから、

「坂本くんと付き合いたいの?」
「んー……、気にはなってたけど」
「坂本くんにするなら、僕でもいいんじゃない?」

 そんな言葉がするりと零れた。
 一際強い風が吹いて、彼女の髪の毛が乱れる。ゆっくりとこちらを見た名前ちゃんに何を言われるだろうと一瞬身構えたら、彼女は肩を震わせて「南雲くんっておもしろい冗談言うんだね」とおかしそうに笑った。あっさりと笑い飛ばされたことに何だかもやりとする。そんな僕の気持ちを露知らず、名前ちゃんは続けた。

「でもわたし、年上としか付き合うつもりないから。だから、坂本くんも気になってたっていうだけなの」
「何それ〜、なんで?」
「秘密」

 悪戯っ子のように笑う彼女の顔が妙に眩しい。夕陽に照らされてきらきらしていて、

(好きだなあ)

 ふと浮かんだ言葉に、(……ん?)なんて、自分自身で驚いた。

(え〜〜、そっか、僕この子のこと好きなんだ。あ〜〜、だから)

 やたらと目で追ってしまって、付き合っていた男に向ける可愛らしい顔に苛ついて。あれは、無意識の嫉妬だったらしい。
 納得するのと同時に、我ながら面倒くさい恋をしたものだと呆れた。既に「年上としか付き合わない」と宣言されたうえ、彼女のこれまでの付き合い方を考えれば年上から告白されたりしたら二つ返事で了承するに違いない。僕のことが眼中にはいるのはまだまだ先になりそうだ。

(う〜ん、長期戦って苦手なんだけどな〜……)

 かしゃん、とフェンスが音を立てる。どうやら名前ちゃんはもう帰るらしい。ひらりと華麗に飛び降り、こちらを見上げる。

「南雲くんも戻る?」
「うん、戻る〜〜」

 にこりと笑って、その隣に並び立つ。

「南雲くんさ、かっこいい先輩と知り合いだったりしないの」

 こちらの気も知らずそんなことを言うこの子に、どうアプローチをかけたものか。ひとまず何でも相談してもらえる友人ポジションを確立して、フッたりフラれたりした彼女が逃げ込める場所になって……うん、そんな感じで、ゆっくりやっていこう――。



「……なんて思ってたこともあったな〜〜。懐かしい〜〜」

 JCC時代のアルバムを捲りながら思い出に浸る僕に、背後から「手止めないで」と声がした。出会った頃よりも少しだけ大人になったソプラノは、今日も心地よく鼓膜を震わせる。
 引越し準備の真っ最中だった。すぐに物を捨てる僕と反対に、物を溜め込みがちな名前ちゃんの準備が終わらないということで手伝いに来たわけだけど、懐かしいものが多くてついつい手を止めてしまう。

「南雲くんはアルバム買わなかったんだっけ」
「うん。赤尾も坂本くんもね」
「あは、想像つくけど」

 手止めないで、と言った割に、名前ちゃんは肩に寄りかかるようにしてアルバムを覗き込む。写真の一部に、少しだけ影ができた。
 頁を進めると、食堂で海鮮丼を頬張る名前ちゃんの姿が映る。そのすぐ隣には元カレの内の一人(確かJCC在学中の最後の彼氏、卒業してすぐ別れた)がいて、名前ちゃんはス……と身を引いた。

「……僕まだ何も言ってないよ〜〜?」
「う……」

 口籠る名前ちゃんが面白くて、余計に揶揄いたくなった。

「でもそうだよね、ずーっと僕の告白本気にしなかったもんね〜?変な年上とばっかり付き合うし、挙句その理由が、昔助けてくれた殺し屋が年上でそれと似てる人を探してるって」
「わー!!!」
「痛い」

 彼女のそれはすっかり黒歴史なのだろう、悲鳴と一緒に拳が飛んできて、脇腹あたりにどすりと当てられた。

「もういいじゃん、昔のことは……っ」

 言いながら、名前ちゃんはアルバムを取り上げると、近くの段ボール箱へ突っ込んだ。「昔のことはもういい」と言いながらも、ゴミにしてしまわないところが彼女らしいと思った。

「うんそうだね、もういいかな〜。だって結局、僕と付き合ってくれたもんね」
「わっ」

 僕よりもずっと小柄な体を、後ろからぎゅっと抱き締める。困ったようにこちらを見上げた彼女が「遊んでる暇はない」と怒るのを制して、「ね〜〜、今は?」「今?」「うん。今の好みのタイプ、教えてよ」悪戯に問いかけたら、彼女は「……分かってるくせに」と拗ねたように零した。

「分かってても、君の口から聞きたい」

 強請るように身を寄せる。
 名前ちゃんは視線を逸らしたけれど、その桜色の唇はそっと開いて、

「……南雲くん」

 鈴のような言葉が転がされる。ちょっとだけ下がった困り眉も、薄く色づいた頬も、何もかもがかわいくて。「嬉しい〜〜」とぎゅうぎゅう抱きしめたら、「いい加減離してよ」と言うくせに、満更でもなさそうに笑うから、僕はまだまだ離す気にはなってあげられない。
 ――JCC時代、とある女の子の、彼氏の浮気現場を目撃した。子どもの頃の理想を忘れられず、年上の男ばかり彼氏にしていたその子とは、後に長い付き合いになって、もうすぐ、同棲が始まる。


2024



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