花にも蝶にもなれない
たぶん、普通のひとじゃないと思っていた。
彼と初めて出会ったのは、わたしがタチの悪い酔っ払いに絡まれて襲われそうになっていた時だった。あっという間に男の腕を捻り上げて地面に叩きつけた彼は、わたしが「もう大丈夫です!」と止めに入らなければ、その男の息の根を止めていたような気さえする。こちらを見つめる真っ赤な瞳が、心底不思議がっていたのをよく覚えている。
楽くんというその男の子は、それから度々わたしの元へ訪れるようになった。彼の第一声はいつも、「腹減ったー」。初めて会った日、お礼に作った料理を気に入ってくれたらしい。手に提げていた買い物袋を見て、「飯作んの?俺にもちょうだい」と言った彼に、わたしは二つ返事で了承したわけだけれど、断っていたらどうなっていたのだろうかと時々考える。
生きる世界が違うひとだ、と思っていた。楽くんは、時折ここではないどこかを見つめて、時折ひどく冷たい顔をする。体にはたくさんの傷があって、けれどその傷について踏み入ることは許されていなかった。
「飯食いてえ」
久々に会った楽くんの、お馴染みの台詞に気が抜ける。「いいよ」とすぐさま了承したわたしの横を彼が通り過ぎた時、違和感に気づく。普段は大きなピアスをつけている右耳がイヤーマフで覆われていて、「イメチェン?」と問いかけた。振り返った楽くんが「何が?」と心底不思議そうにして、「右耳」と示したわたしへ、今度は「あー」と言葉を濁す。
「ちょっと」
短く言われて、わたしはそれ以上の追求をやめた。
「何が食べたいの?」と尋ねたら、楽くんは「オムライス」と即答した。珍しいこともあるものだと驚く。普段は、「何でもいい」とか「んー、肉?」とか、適当な答えばかりなのに。
「久々に食べたくなった」と、聞いてもないのに彼は続けた。そういえば、初めて会った日に作った料理はオムライスだったことを思い出す。
冷蔵庫を開けて材料を確認していると、楽くんもキッチンに立った。「手伝う」短く告げられて、わたしはまた目を丸くする。
「いいよ。ソファで寝てて」
「いーから。作り方教えて」
袖を捲ってやる気満々な様が、おかしいくらいに似合っていない。「槍でも降るのかな」とぼそりと零した言葉を楽くんはきっちり拾って、「何それ」と不服そうだ。
「楽くん、包丁使えるの」
「当たり前じゃん」
言いながら玉葱を切る彼は、少しして「やっぱ変わって」とこちらを見た。目が痛いのを堪えているのか、普段は整っている眉がひどく歪んでいる。
「手伝ってくれるんじゃなかったの」
「そっち。肉切る」
「はいはい」
楽くんは甘え上手で、時々弟みたいに思う。
二人で作ったオムライスは、いつもよりもちょっとだけ歪だった。「楽くんは器用だから、すぐ上手になるんだろうね」くすくす笑いながら、ご飯を包んだ黄身がところどころ破れたオムライスを平らげる。
お風呂を沸かしながら食器を洗って、暫くしてお湯が張ったことを機械音が知らせる。そこでも、楽くんは不思議なことを言った。「先入る?」というわたしの問いかけに、「一緒に入りたい」なんて答えたのだ。いつもなら、「お先ー」と家主よりも先に風呂場へ消えていくというのに。
「今日どうしたの?」
「んー、別に。駄目?」
逆に聞き返され、わたしは眉を下げる。
駄目、ではない。
それをそのまま伝えると、楽くんは何も言わずにわたしの腕を引いた。
恥ずかしいからと先に入ったのはわたしだった。「今更じゃん」と呆れる楽くんを強引にその場に残し、先にお風呂に浸かっていると、「もー入るぜ」言うや否や、彼は躊躇いなく扉を開けた。
いつも巻いている包帯はなくて、傷だらけの腕が露わになる。それは見慣れたものだった。けれど、もうひとつ。イヤーマフが当てられていた右耳に、わたしは言葉を失う。
「……右耳、どうしたの」
楽くんは答えなかった。ただこちらをじっと見つめて、「怖い?」と尋ねる。わたしはゆっくりと首を振った。
「ううん。びっくりしただけ」
楽くんは薄く笑うと、狭い浴槽の中に体を沈めた。右耳についてはやっぱり教えてくれなかったけど、わたしもしつこく尋ねるつもりはなかった。
二人がぎりぎり入れるくらいの湯船の中で、楽くんはわたしを後ろから抱き締める。ぴったりと密着した肌が気持ちいい。ふ、と耳に息を吹きかけられて、思わず身じろぎをした。ちゃぷりと音が立ち、水面が揺れる。
楽くんの手が、脇腹をなぞって、柔らかな膨らみを揉んだ。「んっ」短い声があがる。それから、生温かい舌が首筋を這う感覚。一緒に入ったらそうなるだろうということは、わたしも想像していた。
「ぁ……♡」
「気持ちい?耳まで真っ赤」
揶揄うように呟いて、楽くんの指が胸の先端を引っ張った。
「ひぁっ♡」
一際甘い声は浴室の中でよく響いて、「すっげー」と楽くんは感心している。
「声響く。かわいー」
「ん、ぁ♡」
密着した状態だから、楽くんのものがだんだんと硬くなっているのもよく分かった。ただ、彼はそれを無理矢理挿れようとはしなくて、ひたすら体の愛撫を続ける。もどかしさに身を捩ると、不意に体が持ち上げられて向きを変えられた。「気持ちよさそ」よほど蕩けた表情をしていたのか、楽くんはそう呟いて唇を塞ぐ。舌と舌が絡まる深いキスで、下腹部がまた疼く。
「楽く、ん♡ぁ♡」
キスの合間に、して、と掠れた声で強請ると、ようやく楽くんの手が蜜つぼをなぞった。骨張った指が、ゆっくりとナカに挿ってくる。
快感に体を震わせるたび、水面がばちゃんと音を立てて揺れた。「なんかやらしーな」と、呟く楽くんの目が熱を孕んでいる。
楽くんは一度だってゴムなしでしようとはしなくて、今だって自身を挿れるつもりはないんだろう。自分だけが気持ちよくさせてもらうのは申し訳なくて、手探りで楽くんの熱を探す。「んっ」と楽くんが短い声をあげて、それから、薄く笑った。
「何、触ってくれんの?」
頷いて、両手で包み込もうとする。けど、「じゃー、お返し」とナカをかき混ぜられて、「ひぁ♡」意識がどうしてもそちらに向かってしまう。
「ぁっ♡そこ、こすれ……っ♡ぁ、んっ、んぅ♡」
あっという間に快楽を追うことしかできなくなったわたしを軽蔑することなく、楽くんはまた深いキスをした。
(も、だめ、だめ♡わたし、だけ、イッちゃ……っ♡)
キスの合間に、楽くんが「イッて」と囁いた。それを合図にするみたいに、快感の波が駆け上がる。びくん、と体が震えて、お湯が溢れた。
「イッた?かわい」
薄く笑いながら、楽くんが指を抜く。わたしの体はまだ痙攣している。荒い息を整えながら、「楽くんも」と再び伸ばした手は止められた。「なんで」と非難するより早く、楽くんが呟く。「口でして」
わたしの返事を待つことなく、楽くんは湯船からあがった。
すっかり聳り立った彼のものを両手で包み、震えながら唇を落とす。「ん」短く楽くんが反応した。舌を突き出して、ゆっくりと舐め上げる。
「……ッ、上手になったじゃん。ぁ、そこ、気持ち……」
男性経験が多くなかったわたしにフェラのやり方を教えたのは楽くんだった。はじめての頃は呆れるくらい下手くそだったに違いないけど、楽くんはずっと楽しそうに「舐めて」「吸って」と指示をしていた。それを思い出しながら、一生懸命奉仕する。舐めて、吸って、じっくりと咥えたら、楽くんが熱い吐息を零して腰を浮かせた。
「す、げ……っ」
快感に耐えるような声がして、嗜虐心が煽られた。一層深く咥えたら、その動きに合わせて楽くんが腰を突き上げた。「んぐっ」涎に濡れた頬に硬いものが当たる。歯を立てないように耐える口の中を、楽くんが行き来する。
「や、ば……、も、イきそ……ッ。ん、ぁ、出る……ッ」
「んっ、んん……っ」
容赦なく放たれた白濁の欲望を、懸命に飲み込む。余韻に浸っていた楽くんがやがて腰を引き、こちらを覗き込んで「全部飲んだ?」と聞いてくる。頷くより先に口を開けて、もう何もないのを見せつけた。「やらしー」と言われて、羞恥心が湧いてくる。そもそも、元はと言えば、
「……楽くんのせいじゃん」
咥え方を教えたのも、頑張って飲んで、なんて射精後の行為に少しずつ慣れさせたのも。
楽くんは一旦口を閉ざして、気を悪くしたのかと不安になる。それも束の間、彼はわたしの体を持ち上げると、「やっぱり今すぐ挿れてえかも」なんて告白した。
「急に何で……っ」
「今の恥ずかしがってる顔、めちゃくちゃキタ」
風呂場を抜け、バスタオルで雑に体を拭かれる。一応風邪を引かないようにか最低限の配慮はしてくれたみたいだったけれど、わたしも楽くんも髪は濡れたままだった。
どさり、とベッドに下ろされてすぐ、楽くんが唇を深く奪った。それだけでわたしの身体は反応して、蜜つぼからはとろりと愛液が溢れる。
太腿の内側を焦らすみたいに擦っていた楽くんは、今度こそゴムをしてその熱杭を押し進めた。
「ひ、ぁっ♡ぁぁん♡」
指よりもずっと太くて熱いものがナカを圧迫する。掌が重なって、ひとつひとつ指が絡め取られた。恋人繋ぎのまま愛されて、目の奥がちかちかして、こんなの、動かれたらぁ……っ♡
そうドキドキしている内に、楽くんが腰を揺すった。
「ぁ゛〜〜ッ♡」
ぞくぞくと快感が駆け上がり、堪らず大きな声をあげて悦んでしまう。
「ナカ、あっつ……んっ」
「ぁっ♡ひっ♡やぁ……っ♡ぁ、それぇ♡きもちぃ♡そこ、好き……っ♡」
「……っ、ん、知ってる……っ」
「ひぁっ♡ぁ、んぅ……っ♡」
とめどなく溢れる嬌声を押さえ込むように、楽くんが深いキスをした。そのことに、わたしのナカがまたきゅんきゅんと疼く。
突かれながら、舌絡められるの、気持ちぃ……♡
「かわい、ナカ、ぎゅってなんね」
キスの合間に楽くんが嬉しそうに言って、また腰の動きを早めた。繋がったところから溢れる水音がいやらしくて、なおのこと興奮する。
「んっ♡ぁ、わたし、もぉ……っ♡〜〜ッ♡」
「……っ」
我慢できずに、わたしだけが先に果てた。腰が痙攣して、胸元に汗が浮かぶ。その雫を楽くんが舐め取って、「風呂入った意味ないな。汗すげー」そう言う彼の肌も湿っていた。
「はっ……俺も、イキそ……っ」
楽くんが再度腰を動かす。ぐりぐりと奥まで押し当てられて、「ひぁぁ♡」また、快感が襲ってくる。
「まっ、イッた、イッた、ばっかだか、らぁ……っ♡」
「知ってっけど。気持ちーだろ?……んっ」
「ぁ゛♡や、また、またぁ♡すぐ、イッちゃ♡」
「ッ、もーちょい、頑張って。一緒にイキたい」
「ひんっ♡ぁ、ぁあ♡」
無茶なおねだりだと思う。それでも、精一杯快感に耐えていたら、「はっ♡ぁ、も、イク……ッ」楽くんが呟いて、ちょっと苦しそうに眉を寄せた。いつも無表情な彼の感情が露わになる瞬間で、その顔が堪らなく好きだ。
どくん、とその欲が波打つのが分かる。それと同時に、わたしも二回目の絶頂。互いに甘くて切ない感覚に悶え、どちらからともなくキスをする。
程なくして楽くんの熱が引き抜かれて、いつもならそれで終わることがほとんどだった。ぐったりしたわたしを見つめて、「明日起こしてー」なんて言ってくるのだけど。
楽くんはまたわたしの体を持ち上げて、「なぁ、後ろからも」と体勢を変えた。シーツに両手を突かされ、ぇ、と思う束の間に、彼の熱が再び押し込められる。
「ぁあっ♡」
悲鳴みたいな声があがった。背後から楽くんが覆いかぶさって、その体重を感じる。汗ばんだ肌がくっつくのが気持ちよくて、楽くんが動くたびに、体が、胸が、淫らに揺れる。
「乳首すげー立ってる」
「ひ、ぁぁっ♡」
わざとらしく言って、楽くんの骨張った指が胸の先端を摘んだ。ぎゅぅと引っ張られ、体をのけぞらせたいのに、楽くんに押さえつけられてそれすら許されない。
「ナカすげー締まる。気持ちい?」
「ぁ゛〜〜ッ♡きもちぃ、きもちぃ、からぁっ♡」
素直に言ったらやめてくれると思ってそう言ったのに、楽くんは「じゃあもっとしてあげる」と、指で弄るのも腰で突くのもやめはしなかった。
「ぁ、あっ♡いじ、わる…っ♡」
甘い声で泣きながら非難すると、楽くんは些か不服そうに「意地悪はないだろ」と零した。それから、「意地悪って言うのはさー」と、腰の動きを弱めて、乳首から指を離す。
「こーいうのを言うんじゃね?」
「〜〜ッ、ぁ、そ、れぇ……っ♡」
さっきまで勢いよくナカを乱していた楽くんが、途端にゆっくりと動いていく。熱杭が当たる場所も僅かにずれて、気持ちいいのだけれど、それ以上に。
「ぁ、ぁ゛♡や、も、これぇ……っ♡これ、じゃ」
イケない、と嘆きそうになって、唇を噛んだ。
楽くんの指も、胸の先端を僅かに掠めるだけで、さっきまでとは与えられる刺激がまるで違う。
いいように動こうとしても、自分よりも遥かに体格の良い男にがっしりと体を覆われているんだから、どうしようもなかった。
「ひ、ぁっ♡ぁ、それ……っ♡ん、ぁ♡ぁ゛♡」
「は、もどかしそー。何?してほしいことがあんの?」
「んぁぁ♡ぁ、ひっ♡いじ、わる、いじわるぅ……っ♡」
「そーかもな、これは意地悪だわ。ほら、ちゃんと言えって」
「ぁっ♡ぁ♡ぁ、やぁ♡♡」
わたしが言うことを聞かない限り、楽くんは「意地悪」を止める気はないらしい。それでも暫くは耐えていたけれど、とうとう我慢できなくなって、わたしは情けなく強請ってしまう。
「も、して、ちゃんと、んぁ♡」
「ちゃんとって?」
「ぁ、ちくび、ぎゅって、してぇ……っ♡ぁ、ぁ゛〜〜ッ♡」
楽くんは言われた通りに乳首を摘んでくれて、快感に体を震わせる。
「乳首だけでいいのかよ」
「ぁ、やぁ♡もっと、激しく、突いて、ほし……っ♡ぁっ!?ぁ、んぁぁ゛♡」
繋がった部分からする淫らな音が激しくなっていく。楽くんの動きに合わせながら快楽を追いかける。
「ひぁぁ♡も、らめ、イッちゃ、イッちゃぅ♡」
「んっ、俺、も……っ♡」
ちかちかとしていた視界が真っ白になるのと同時に、楽くんもぶるりと身を震わせて果てた。
お互い荒い息を零し、引き寄せらるようにキスをする。
楽くんは熱を引き抜いたかと思うと、続け様にこちらの体を持ち上げて、座った彼と向かい合うようにして座らせた。
「ひっ」
互いの体液でどろどろになった蜜つぼに、またもや聳り立った熱が押し当てられる。
「楽くん、まって……っ」
「無理」
「むりじゃ、ひ、ぁぁ♡」
何度も抱かれて碌に力は入らない。それでも楽くんが与えてくれる快楽は頭がおかしくなるくらいに気持ちがよくて、ひたすら彼の動きに身を委ねた。
「やっぱキスできるほうがいーな」
言って、楽くんは唇を舐め上げた。自然と口を半開きにして、彼の舌を誘い込む。舌と唾液が絡まって、いやらしい音が響く。合間に、かわい、と囁かれた。滲んだ視界に映る楽くんの目があまりに優しくて、そのことに少し驚く。何度も繰り返すセックスといい、今日の楽くんは何かおかしい。そういえば、会った瞬間から、料理を手伝うと言ったり少し違和感があった。
なんだか急に不安になって、大きな背中をぎゅっと抱きしめた。楽くんはそのことに気をよくしたみたいで、「かわいーことすんね」と嬉しそうに突き上げた。
「ぁ゛ッ♡それ、いい♡」
熱に貫かれ、わたしは歓喜する。甘い声を乱れさせて、わたしと楽くんはもう一度一緒に果てた。わたしは溺れる子どものように彼を抱き締めて、彼もまたこちらを離すまいとぎゅっと抱き締めた。
「すげー気持ちい……。てか、まだヤリたい。ゴム足りっかな」
呟いて、楽くんはベッド脇のゴムの箱を手に取った。まだ半分程残ってはいるものの、楽くんは微妙な顔だ。
「……楽くん」
「何?もう無理?」
聞いてやれないけど、と淡々と告げながら、彼はゴムを付け替えようとしている。それを見て、「つけなくてもいいよ」と零した訳を、わたし自身よく分かっていない。
「……は?」
間を置いて、信じられないというように返す楽くんへ、もう一度。
「中、出していいよ」
「……」
楽くんは暫く黙り込んだ。駄目だろ、と怒るわけではなかったけれど、嬉しい、と喜ぶような馬鹿でもなかった。彼は暫くなにかを思案するように瞼を伏せて、それから、
「……今度な」
と優しく呟いた。
たぶん断られる気はしていたのだけれど、ちょっとだけ泣きたくなった。
楽くんは「代わりにもっと気持ちよくしてやるから」と言って、ベッドの上に寝転がる。
「ほら、上乗って。胸揺らしながらされてんの見たい」
直球なお誘いに、今度はわたしが口籠ったけれど。「早く。ちょっと意地悪なことされんのも好きだろ」という彼の言葉が図星だったから、おずおずとその腰に跨って身を沈めた。
「ぁっ♡ぁ、ぁん……っ♡」
「えっろ……」
楽くんが恍惚とした眼差しで見上げてくれる。それが一層快感を煽って、彼も気持ちよくなれるように懸命に腰を振った。
それからも、楽くんは体位を変えて何度もわたしを抱いた。それこそ、ゴムの箱が空っぽになるまで。「最後だからもうちょい頑張って」なんて無茶なお願いをされたことは、快楽で溺れた頭の中でも記憶に残っている。
・
明け方まで続いた行為がようやく終わり、疲れからすぐに意識を手放してしまったわたしが目覚めるのは、もう陽も高く登った頃だった。
「楽くん……?」
掠れて上手く出ない声で呼びかける。眠る直前は確かに隣にいた楽くんの温度がない。見渡す範囲にも、その姿は見つけられなかった。
どくん、と心臓が鳴る。
わたしより先に家を出ることなんて、一度もなかったのに。
「楽くん」
鈍い痛みを残す体に力を入れて立ち上がり、部屋中を歩く。どこにもいないし、彼のものは何一つ残されていなかった。イヤーマフも、包帯も、服も、靴も。急ぎの用事が入ったとか、何か書き置きでもあるのかもしれないと思ったけれど、そんなものはわたしの願望に過ぎなかった。
昨夜のことを思い出す。彼が部屋に上がった時から感じていた僅かな違和感。繰り返された性行為。
――楽くんはきっと、もうここには来てくれない。
唐突に浮かんだ考えは、ただの直感ではなかったと思う。滲んだ視界でふらふらと歩き、ふと、棚の上のに置いていた鍵が目に入った。自転車の鍵、車の鍵、家の鍵。折り重なったそれが少し物足りなかったのは、家の鍵につけていた、いつか楽くんに貰った熊のキーホルダーが外されていたからだった。楽くんが持ってっいったのだと、すぐに分かった。
「何かひとつくらい残してくれてもいいじゃん、ばか……っ」
膝を折る。蹲って、迷子のようにぼろぼろと泣いた。「ぜんぶ夢だと思えばいーよ」と楽くんがどこかで言った気がした。
たぶん、普通のひとじゃないと思っていた。
生きる世界が違うひとだと思っていた。
それでも確かに交わった時間はこんなにも愛おしくて、ねぇ楽くん、わたしも、連れていってほしかったよ。
2024.02.05