午後9時10分、天体観測。
「じゃあ、今晩9時に学校前に集合だよっ」
半ば強引に交わされた約束の通り、すっかり暗くなった時間に学院の校門前に向かった。
夜を深める木枯らしが頬に冷たい。きゅっとマフラーを耳元まで押し上げて、ぽつぽつと街灯のある道を小走りする。
夜闇にぼんやり浮かぶ校舎の前に、お日様のような明るさを見つけた。寒いからかなんなのか、その場でしきりに足踏みしている彼に、少しだけ速度を上げて近づく。
「あっ、名前〜!こんばんは!ちゃんと厚着してきた?風邪引いちゃったらマズイからね!」
足音に気づいたらしい、くるりとこちらを見た彼が大きく手を振った。わたしに厚着どうのと尋ねるだけのことはあって、普段はそれほど着込まず走り回ってるイメージのある彼も、厚めの生地のコートにマフラー、イヤーマフに手袋と、完璧な防寒対策だ。
頷くわたしに満足げに笑った彼は、次の瞬間ぽいぽいと手袋を取る。ぎょっとしていると、彼はこちらに手を差し出し、
「ほらっ、せっかくだから手ぇ繋ごう……☆」
わたしも同じように手袋を外して、おそるおそると手を伸ばす。待ちきれなかったらしい彼の手が、わたしのそれをしっかり握った。想像通りの子供体温だった。冷たくないかな、なんて微かな不安を吹き飛ばすようなきらきらの笑顔で、彼は元気よく告げる。
「それじゃ、しゅっぱ〜つ!」
校舎周りをぐるりとして、アイドル科の子たちがよく使っているという抜け道へ案内される。日中も監視の目が薄いらしいそこを通って、わたしたちはついに夜の校舎へと忍び込んだ。
「うわ〜〜!ドキドキするね……!」
ひそひそと、けれども確かに浮かれた声で。スバルくんは、はしゃいでいる。一方のわたしは緊張やら高揚感やらで押しつぶされそうで、もう心臓が口から飛び出るのではというくらいだ。それでも彼がしっかりと繋いでくれている手のお陰か、引き返そうとは思わない。
しん、と静まり返った、暗い校舎の中に足を踏み入れる。警備員の人はまだいるだろうか。見つかって怒られてしまっても、それはそれでいいような気がした。高校生活最後の冬くらい、思い切りの『悪戯』を叱られてもいいだろうと。
けれども存外すんなりと、わたしたちは目的の場所に辿り着く。屋上に繋がる階段を登りきった先、隙間風が抜けてくる少し古びた扉へとスバルくんが手を伸ばす。――そして。
「――あ」
扉はがたりと音を立てるだけで、開かれない。わたしたちは揃って声を上げた。
「……鍵、開いてないや」
暫くの間の後、「そりゃそうだ」と納得して二人同時に吹き出した。こんな当然のことに今の今まで気づかないなんて、どうかしてる。ああもう、なんて馬鹿なことに時間を費やしたのだろう。あんなにもドキドキしながら足を進めた時間が全部、意味のないものだったなんて!
「うわ〜〜!ほんっとうにごめん!完全に俺のミス!」
顔の前で手を合わせ、平謝りするスバルくんに、肩を震わせながらも首を左右に振って否定する。だって、わたし自身、今の今までそのことに頭が回っていなかったのだから。
「う〜ん、やることなくなっちゃったね〜?屋上からだったら、星がいっぱい見えると思ったんだけどなあ」
「……でも、楽しかったよ」
「!」
ビー玉のような目をぱちくりとさせて、彼はこちらをじっと見た。そうして程なくして、「それなら良かった!」と、宝石のような、お星様のような――太陽のような。ううん、どんな喩えも陳腐に思えてしまうくらいにとびっきりの、キラキラとした笑みを、わたしに向ける。
「……ん?」
「え」
「げぇっ!?」
パッと、階段下に小さな明かりが現れた。懐中電灯を持った男の人(たぶん)が、こちらを見上げて――。
「うわぁっ、やばいやばい!逃げようっ」
「こらっ!こんな時間に何をしてる!」
「ごめんなさい〜〜!」
ものすごい勢いで、スバルくんが階段を駆け下りた。引きずられるようにして、わたしもそれに続く。
「待ちなさい!」
切羽詰まった警備員さんの声が廊下に反響する。
くるくると階段を駆け下りた先、廊下に並んだ窓のひとつを開けたかと思いきや、スバルくんはパッとわたしの手を離して躊躇なく飛び降りた。そうして、華麗に着地するとこちらを見上げて両手を広げる。
「ほら、早くおいで!」
「なっ、無理っ、ここ2階だよ……!?」
「大丈夫!俺が絶対受け止めるからっ!」
「う、うう〜〜」
待ちな、さい、と。息切れした声が追いかけてくる。それを振り払うように、わたしは意を決す。
窓枠に足をかけて、飛び降りた。怖くて、目を閉じる前に見えた景色は、いつもよりずっと輝いていた。
・
帰り道はずっと夢見心地だった。
屋上から見るはずだった星たちを指差しながら、他愛もない話を繰り返す。近いうちにこっぴどく叱られるだろうとか、あの人が幽霊だったらおもしろかったとか。
それから、不意に、スバルくんが空を見上げて呟いた。
「あの星、名前、あるのかなあ」
わたしも同じように空を見上げたけれど、無数にある星の中で、彼が示した星はどれか分からなかった。そもそも、どれを指したわけでもないのかもしれない。
「分かんない」
「だよねえ」
はあ、と白い息を泳がせた彼は、どこかしょぼんとしているように見えて。だからわたしは、馬鹿げた提案をしてしまう。
「……ねえ、いま名前をつけよっか」
きょとんとした表情で、彼がこちらを見た、気がした。はっきりと分からなかったのは、改めて自分でも何を言ってるのだと恥ずかしくて、彼から顔を逸らしてしまったからだ。
ただ――。
「何それ、すっごくおもしろそう!」
弾けたような声音にそちらを向けば、彼はいつもの眩しい笑顔だった。だからわたしも笑って、そんなふざけた遊びに時間を費やすのだ。
――あの星に、名前をつけよう。もう先駆者に命名されているかもしれないし、そうでないかもしれない。そんなことはどっちだっていい。気まぐれにつけた名前は、いずれ忘れてしまうに違いない。それでも。こんな馬鹿げた時間がきっと、一生の思い出になるのだろう。
2017