やさしい嘘つきたち
その人の訃報を聞いた時、真っ先に馬鹿だなあと思った。
死んだのはJCC時代の先輩だった。学年も歳も僕より一つ上の男。実力はそこそこまあまあ。強い方ではあったけど、赤尾や坂本くん、それから僕と比べると劣っていて、それは本人も自覚していた。それでも歳下だからという理由だけで僕らを可愛がってくれた先輩は、よく昼食や飲み物を奢ってくれたものだった。
遺体は酷い状態だった。腕はくっついてないし、切り傷と穴だらけだし。そのくせ、何の後悔もないみたいな綺麗な顔で眠っているから無性に腹が立った。
じっと見下ろしながら、馬鹿だなあ、ともう一度思う。先輩との最後の会話を思い出す。あれは確か、一ヶ月ほど前。じめじめした梅雨の日のこと。暫く海外に行くことになったからその前に食事行こうぜ、と誘ってきたのは先輩だった。どうせ彼の奢りになるのも分かっていたから二つ返事で了承した僕に、彼は食事中小さな紙切れを渡して、
「その日までにおれが帰って来なかったらさ、代わりにこれ持って行ってくんねえ?」
と、綺麗にラッピングされたジュエリーボックスを差し出した。僕は眉を寄せて、「え〜、何で?」と尋ねる。
「というかこの日、先輩の誕生日でしょ。彼女?」
「何だ、おれの誕生日覚えてたのかよ」
「そりゃあね」
紙切れをぴらぴらしながら答える。
学生時代以来祝ってくれねーから、忘れられたと思ってたわ。
けらけらと零した先輩に、僕は口をへの字にして、
「祝うもなにも、その日いないことばっかだったじゃん。朝職場にいたと思ったら、定時でそっこー帰ってるし」
「はは!確かにその通りだわ」
「で、毎年ここに行ってたんだ?もう一回聞くけど、彼女?」
先輩がポケットから煙草を取り出す。吸って良いかの確認もなく火をつけた彼は、どこか思いを馳せるように目を閉じて、
「……妹だ」
そう、呟いた。とても穏やかで愛情に満ちていて、彼にとってその存在がどれだけ大切かなど、一瞬で分かった。
「え……。妹、いたんだ?聞いたことない」
「誰にも言ってねえからな」
「……なんで?」
「こっちの世界に巻き込みたくねえから」
煙草の煙が宙を漂う。
僕は眉を寄せて、「先輩の家系、殺し屋じゃなかった?」そう尋ねた。巻き込むも何も、最初からこっちの世界の住人じゃん。そんな思考が顔に出ていたのか、先輩は僕の額を軽く小突くと、
「ばーか、親と子どもはまた別だろ。あいつは普通が似合ってんの」
「先輩は殺し屋になったのに?」
「おれはいいんだよ、おれは」
煙草を灰皿に押し付けた彼が、続けてもう一本取り出した。相変わらずのヘビースモーカー。
「……完璧なスパイをつくりあげるために、親が妹の存在そのものを隠し続けたのは好都合だった。両親が死んだ今、おれとあいつの関係を知るやつはいない」
先輩がぽつりと零す。思ったより複雑な家庭だったらしい。「僕は知っちゃったけどなぁ」とわざとらしく息を吐いたら、先輩は「おまえは特別だ」と告げた。いつかの頃、女子たちが悲鳴をあげていた爽やかな笑みで。
……この先輩、僕のこと信用しすぎじゃないかな。別に、裏切るつもりもないけれど。
先輩はその後、会うのは年に一回自分の誕生日だけであること、妹はその日料理もケーキも手作りをして楽しみに待っていることなんかを告げて。
それから改めて、僕に「な、頼むぜ」とお願いをした。
「……え〜、やだなぁ」
「おま……っ、こんだけ喋らせといてそれはねーだろ」
がっくりと肩を落とした彼の前で、僕は紙切れをくしゃくしゃとポケットに突っ込み、
「心残りは、あったほうがいいと思う」
その言葉に、先輩は目を丸くして。それから、「ぶはっ」と勢いよく噴き出した。
「ばっか、おまえ、そんなんじゃねえって!マジで長い任務になりそうだから、そんだけだっつーの。妹の結婚式見るまでは死ねねえよ」
お腹を抱えてひとしきり笑った彼は、「やっぱおまえ、優しいなー」そう言って僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
その笑顔を、触れた手の温もりを、昨日のことのように思い出す。
長い任務になるだけって言ってたじゃん。妹の結婚式もこれじゃあ見れないよ、嘘つき。あんな風に僕に何かを託そうとするから、死んじゃうんだ。
虚な瞳のまま、僕はその場を立ち去る。
先輩と妹の約束の日まであと二日だった。でも僕は、正直行く気になれない。そもそも僕は彼の頼み事を了承してないし、先輩だって嘘をついたんだし、ていうか仕事入ってるし。
でもそんな言い訳を考える時に限って、任務が無くなって一日暇になっちゃうんだから、神さまは意地悪だと思う。……神さまなんて、信じてないけど。
結局僕は、先輩の妹が住むアパートへ向かうことにした。家でぼうっとしてたら、先輩の「頼むよ」って声が蘇って仕方ないから。
(遺骨でも持っていけばいいのかな。それで、死にましたって伝えたらいい?)
誰にでもなく問いかけながら出かける準備をする。先輩の話によれば、妹は自分の家系のことも彼が殺し屋であることも知っていた。きっとそれなりに覚悟はできてるだろう。……ああでも、年に一回の誕生日に知らない男が現れて、「はじめまして、君のお兄さん死んじゃった。葬式も全部終わったよ」なんて、ちょっと酷い?どうせ二度と会うことなんてないだろうから、別に恨まれても憎まれても一向に構わないけど。
そんなことを思って、僕はふと先輩との会話を思い出す。
「代わりに行ってほしいんだよ」
頭の中に響いた言葉に、僕は手を止めて。
「……仕方ないなぁ。どうせなら、ちゃんと
そこまで頼んでねえよって、口をへの字にして顔を顰めるんだろう。でも、そっちが勝手に死んだんだから。そんな文句、言われる筋合いはない。
・
アパートの階段を昇り、目的の部屋のインターフォンを押す。「はーい」という声は明るくて、おそらく扉の前にいるのが誰なのか分かっているんだろう。
おれだぞ、開けてくれ。そんな風に名乗ったら、部屋の中を駆ける足音がして、「お兄ちゃん!」と扉が開いた。涼しげなワンピースを揺らして飛び出したのは、小柄な女の子。どこまでも普通そうなその子は、けれど目元が先輩によく似ている。「おかえり」と抱き着いてきた彼女は、暫くそうやって人の温もりみたいなのを堪能して。それから、
「わたし、今年も頑張ったよ!あがって」
と、腕を引いた。彼女が引く僕の腕にはいつものタトゥーはない。だって、先輩はタトゥーをしてなかったから。陽キャの塊みたいな人間だったくせに、彼はピアスもタトゥーもしていなかった。それを今日の僕はそのまま真似ていて、つまり、そういうこと。僕は、先輩になり変わって彼女に会いに来ている。
変装は得意だし、先輩の真似には自信がある。着ていたシャツもスラックスも、アクセサリーにいたるまで全部揃えて、傷んで動かなくなっていた先輩お気に入りの腕時計は無理を言って元通りに直して貰った。自分では絶対吸わない煙草もポケットに捩じ込んで、少なくとも、こんな平和ボケした女の子にバレることなんて絶対にない。
狭いけれど、よく整頓された部屋ではあった。ただ、引き出しの上に置かれた腕時計が、壊れてるのか時間がずれたまま動いてなくて、もしかしたら案外ズボラなのかもしれない。先輩が来るから、頑張って綺麗にしたのかな。
座って座って、とはしゃぐ彼女の前には決して大きくない机があって、所狭しと料理が並べられていた。すごい。全部、先輩が好きって言ってた食べ物ばっか。
「仕事、忙しい?大丈夫?」
「まーまー。こないだまで海外だったけど」
声音を、口調を真似る。先輩は食事の時は好きなものから食べる派だから、それすら合わせる。まあここには先輩の好きなものしか並んでないけど、彼は特にグラタンに目がなかったはず。
「うま」
「でしょー!」
喜ぶ彼女はトマトのカプレーゼに箸を持っていく。
「ケーキも作ってるからね、ほどほどにしてね」
「全部食うしケーキも食えるよ」
先輩、大食いだったからなぁ。時折よぎる彼との思い出が溢れてしまわないように、僕は先輩の妹と話をする。彼女のことを愛してやまない兄の皮を被って。
先輩の妹は本当に殺し屋の世界とは無縁なようで、喋ることは「旅行に行った」「映画を見た」「犬を飼おうか悩んでる」なんて呑気なことばかりだった。それを、さも楽しそうに聞きながら食事を終えたら、妹が不意に「はい」と煙草を差し出した。
「プレゼントそのいち。吸うでしょ?一本だけならいいよ」
内心、げ、と思う。煙草はそんなに得意じゃない。周りが吸ってるのはいいんだけど、自分が吸うとなると微妙。ていうか先輩、妹の前でも吸うんだ。我慢しなよ、今日くらい。
そうは思っても先輩になりきっている僕に吸わないという選択肢はなかったから、
「さんきゅ」
口角をあげて受け取って、ベランダへと向かう。一本吸ったらすぐ戻ろうと、冷たい夜風に当たりながら、部屋の中の妹を見る。
雰囲気が全然似てないのは、生きてきた世界が違うからかな。それなのに、笑いのツボや笑い方だけはやたらとそっくりで、ちょっとだけ困る。
ベランダに出る前に渡された灰皿に煙草を押し付けて戻ると、彼女はせっせと食器を片してケーキを並べていた。直径10センチ程度の丸いフルーツタルトだった。宝石みたいに果物がきらきらしてんのが最高だよなって笑っていた先輩を思い出す。
「毎年これだけど」
「最高、天才」
「はは!大袈裟」
あ、ほら。今の笑い方も、先輩そっくり。
二人で大胆に分けたホールケーキを平らげて、ゆっかり紅茶を飲んでいたら、彼女は「プレゼントそのに〜」と、紺色の包み紙と赤いリボンでラッピングされた箱を渡してくれた。先輩は、プレゼントはその場で開けるタイプ。それも、やや乱暴に。だから、遠慮なく紙を引き裂いた。びりびりと響いた音に、「相変わらず雑だなぁ」って妹が笑う。
プレゼントの中身はワインレッドのネクタイだった。先輩によく似合いそう。
「さんきゅ、早速仕事で使うわ」
と、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。先輩が、いつも僕らにしてくれていたのと同じように。彼女は幸せそうに目を細めて、「大事にしてね」と笑った。
「じゃあ、おれからも」
気取らない素振りで、先輩に渡されていたジュエリーボックスを差し出す。彼女は目を輝かせて、「いま開けていい?」と尋ねた。頷けば、細くて柔らかそうな指が丁寧に包装紙を外す。先輩とは対照的だった。
ボックスの中には、シルバーの華奢なネックレスが収まっていた。控えめなダイヤモンドがきらりと光る。先輩、センスいいな。素直にそう思った。
「ありがとう、一生大事にする」
宝物とでも言わんばかりに、彼女はプレゼントを抱きしめた。その小さな頭を、もう一度くしゃくしゃと撫でる。
それから少しお喋りをして、日付が変わる頃に部屋を出ることにした。「悪りぃな、明日も仕事だから」と申し訳なさそうに言ったら、彼女は「仕方ないよ」と物分かり良く言ったので楽だった。
「ね、来年も会える?」
玄関前。ふと問いかけられた言葉に逡巡する。先輩はもういないし、僕だって来年も生きている保証はない。けれど、きっと。先輩なら、笑って頷くだろうから。
「おー、会える会える。おまえが結婚するまでは毎年来るよ」
「何それ、そんなこと言われたらわたし一生結婚しないかもよ?」
そんな冗談を言った彼女は、「じゃあ今年もなんか置いてって」と腕を組んだ。
何それ、と笑顔の裏で固まる。先輩、プレゼント以外にもなんか渡してたんだ?約束の証、みたいなものなのかな。
僅かな違和感を追求する余裕はなかった。
彼女の視線が僕の腕元に落ちていることに気づき、すぐに思い出す。そういえば、引き出しの上に置いてあった腕時計は動いてなかった。ならちょうどいいや。
「これやるよ」
腕時計を外して、彼女の手に握らせる。「え」と目を見開いた彼女は、「これ高いやつでしょ」と言うから、
「いーんだよ。止まってるやつの変わりに使ってやって」
「やった。というか、気づいてたんだ」
得した、とでも言わんばかりに笑った彼女に、なんとも言えない気分になる。
――それ、先輩の形見だよ。
喉元まで迫り上がった言葉を押し込める。ここでそんなことを零してしまったら、今までの努力が水の泡だ。
「じゃあね。お仕事がんばって」
「おー」
あたたかな声を受け止めて、背を向ける。扉が閉まる。階段を降りて、アパートの外に出る。それでも、僕はまだ、変装をとかなかった。
夏の夜は暑くてじめじめしている。何気なく見上げた先にはカーブミラーがあって、浮かび上がった姿が自分でも引くくらい先輩そのものだったから、ちょっとだけ泣きたくなった。
「……約束、守ってあげたよ」
零した言葉は、がらんとした暗がりに吸い込まれるだけで、当然ながら返事はない。ふ、と自嘲気味た笑いが込み上げた。
やりすぎだよ、でも、さんきゅ。
先輩が生きてたら、そう言うに違いなかった。その顰めっ面が見たかった。でも結局笑ってしまう彼を揶揄いたかった。そうして最後に、頭をくしゃくしゃに撫でてほしかった。
・
扉を開けてお兄ちゃんに抱きついた時に違和感を抱いたのは、直感でしかなかったと思う。
何が違うんだ、と聞かれても明確な答えは出せない。でも、何かが違う気がした。
「わたし、今年も頑張ったよ。あがって!」
そう言って引いた腕の太さ、消えない目元の傷、口元の黒子、わたしを呼ぶ声、口調、それから、好物のグラタンから頬張るところまで。疑いようもなくお兄ちゃんそのもののはずなのに、微かな違和感だけはあり続けて。
本当にお兄ちゃんじゃないんだ、と確信したのは、煙草を差し出した時だった。お兄ちゃんがいつも持っているのと同じ銘柄の煙草を「プレゼント」として差し出して、「吸うでしょ?」と聞いたわたしへの反応。
「さんきゅ」
ってベランダの外へ向かったから、ああ、違う人なんだなって、すとんと胸に落ちた。
お兄ちゃんは、わたしの前では一度も煙草は吸わなかった。いつもコートのポケットに突っ込まれていたのは知っているし、「吸っていいよ」とも言ったけれど、頑なに「吸わねえよ」って笑っていた。
……あのね、お兄ちゃん。わたしも、煙草吸い始めたんだ。おんなじ銘柄のやつ。別に大してハマらなかったけど、一週間に一回くらい、気晴らしで吸うようになっちゃった。だから本当は、渡した時に怒ってほしかったよ。「なんで煙草なんかあんだよ、おまえ吸ってんじゃねえだろーな」って、「馬鹿やろう」って、頭をくしゃくしゃにしてもらいたかった。
食器を片付けて、ケーキを出しながらそんなことを思う。
お兄ちゃん、なんで来なかったのかなあと考えて、答えなんてひとつだけか、と睫毛を伏せた。
急用で来られないなら、言伝を頼むだけでいい。なんなら連絡を寄越すだけでも。こんな風に回りくどく、代わりを頼む必要なんてない。だから、きっと。
(……お兄ちゃん、死んじゃったんだ)
代わりに来てくれたのは、お兄ちゃんの同僚か、後輩か、あるいは先輩か。そっくりさん、どころの話じゃないから、たぶん変装かな。
思いのほか冷静でいられたことに、自分でも驚いた。腐っても殺し屋の家庭にいたから、覚悟はしていたつもりだったけれど。その覚悟は、わたし自身が思っていた以上に強固なものどったらしい。良いことだ。
ベランダから戻ってきたその人を見つめる。
本当に、お兄ちゃんそのものだった。フルーツタルトを出したら、「最高!天才!」って喜んでくれるのも。プレゼントの包装をやや乱暴に剥がしちゃうのも。
……すごいなあ。お兄ちゃんのこと、こんなに分かってくれてる人がいたんだ。よかった。
そんなことを思っていたら、その人もわたしにプレゼントを渡してくれた。ジュエリーボックスの中には、シルバーの華奢なネックレスが収まっていた。控えめなダイヤモンドがきらきらと光っている。何となく、これはお兄ちゃん自身が選んだんだろうなあと思った。妹の勘ってやつ。
それから、あ、この人はこれを渡しに来たのか、とすとんと胸に落ちた。「死んだ」って一言伝えて、その流れで渡してくれてもよかったのに。わたしが殺しに縁がない一般人っていうのを知っていて、こういう対応をしてくれたのかな。それか、お兄ちゃんに面倒くさいくらいに頼み込まれたか。どっちしろ、やさしい人なんだね。
「……ありがとう、一生大事にする」
ちょっとだけ泣きそうになったのを堪えて、プレゼントをぎゅっと抱き締めた。わたしの頭を、大きな手がくしゃくしゃと撫でる。撫で方まであんまりそっくりだから、きっとこの人も、お兄ちゃんにたくさん撫で回されていたんだろうなと分かって、なんだかおかしかった。
その人は、日付が変わる頃に部屋を出た。
「悪りぃな、明日も仕事だから」と申し訳なさそうに言うので、「仕方ないよ」と物分かり良く笑ってみせる。帰り支度をして玄関に立つ彼に、
「ね、来年も会える?」
と、問いかけた。いつもお兄ちゃんと別れる間際、繰り返ししてきた質問だった。
一瞬、彼は逡巡したかもしれない。でも、そんな素振りをみせる間もなく、
「おー、会える会える。おまえが結婚するまでは毎年来るよ」
なんて笑って頷いた。
……うん。そうだね、お兄ちゃんも、そう言う。
わたしは「何それ」と笑いながら、「そんなこと言われたら、一生結婚しないかも」なんて冗談を言った。
それから、何気なく腕を組んで、
「じゃあ、今年もなんか置いていって」
今年も。そんな風に言ったけれど、嘘だった。なんでこんな言葉が出たのかは分からないけれど、心のどこかで、形見のひとつでもほしいと思ってしまっていたのかも。
彼はほんの少しの間のあと、
「これやるよ」
と腕時計を外して渡してくれた。たしか、めちゃくちゃ高いやつだ。女のわたしがつけるには、少しゴツい気がしなくもないけれど。
「止まってるやつの変わりに使ってやって」
さらりと続けられて、わたしは驚く。引き出しの上の腕時計は確かに壊れていた。修理に持っていかなきゃ、と思いつつ二週間くらいは経っている。ただ、そんな話はひとつもしなかったし、彼がそこを注視していた様子もなかったのに、いつから気づいていたんだろう。なんだか恥ずかしい。
わたしは、「得しちゃった」と言わんばかりに喜んだ。「やった」と笑って、満足げに懐にしまう。それから、
「じゃあね。お仕事がんばって」
そう、送り出した。
「おー」
と、お兄ちゃんの振りをしたひとは、手をひらひらとさせて部屋を出る。
ぱたん。
扉が閉まり、辺りを静寂が包んだ。
改めて、受け取った腕時計を確認する。限定版の刻印が入った、特別なもの。紛れもなくお兄ちゃんのものに見えるけど、ああ、でも、死ぬような激しい戦いをしていたら、腕時計なんかはきっと壊れている。全く同じものを買ったのだろうか。けれど、限定販売だと言っていたから、もう世には出回ってないはず。だったら修理を依頼した?
ぐるぐると思考を巡らせて、やっぱりやめた。
これは、お兄ちゃんの形見の腕時計。そう信じよう。お兄ちゃんの友だちが渡してくれた、大切な大切な形見だと、わたしがそう信じるなら、それが真実だ。
ベランダに出て、煙草を咥える。ぬるい風が頬を撫でた。眼下の町は、すっかり闇に包まれている。
明日には大家さんに連絡して、部屋を引き払おう。仕事も辞めて、遠く離れた町へ行ってしまおう。「来年も会える?」なんてくだらない質問に優しい答えをくれたあの人が、律儀に会いに来ることがないように。
――ありがとう、名前も知らないやさしいひと。そして、おやすみ、お兄ちゃん。
ポケットから取り出した腕時計は、正確に時を刻み続けている。
2024