怪物の創設者
母校のバレー部がその大会に出場していると聞いたとき、心臓がキュッと細い糸で締め上げられたような感覚に襲われた。
宮城県立烏野高等学校。過去に全国出場を果たしたのは、彼――宇内天満が、二年生の頃だった。身長170cmという決して大きくはない身体に背負った10の数字。真っ黒のユニフォームを身に纏った彼は、まるで烏が翼を広げるかのように高く高く舞い上がり、何度もスパイクを決めていた。
小さな巨人。
身長が低い代わりに技術を磨き上げた、小さな小さな大エース。
けれど、世界は、平等じゃなくて平等だった。上へ行けばいくほど、大きい相手もまた技術を持っていた。より速く、より賢かった。小さかろうが大きかろうが、技術を磨いた奴が技術を持っている。
その事実に打ちのめされたのか、己の限界を知ったか、あるいはバレーが楽しくなくなったのか。それはわたしには分からなかったけれど、大学進学と同時に、彼はぱたりとバレーを辞めた。あまりにあっけない終わりはどこまでも地味で、現実の残酷さだけが、わたしの心に苦く残り続けた。
あれから数年。勢い途絶えた烏野高等学校は全国への切符を手に入れることができず、「堕ちた強豪、飛べない烏」の異名に呑まれていたはずなのに。まさかまた、再び天を翔ける力を得たなんて。
そうして母校のバレー部の躍進について調べれば調べるほど、その活躍を彼の耳には入れたくないと思った。彼と同じ10番を背に戦う、小さな小さな少年を、見せたくないと思った。
この子が全国でまともに戦えたら、わたしはきっと醜く嫉妬する。どうしてこの子が戦えて、彼は駄目だったのだと神様すら恨んでしまう。
この子がまとめに戦えなかったら、わたしはきっと絶望する。やっぱり小さいものは戦えないと、嘲笑うように突きつけられた現実に狂ってしまいそうになる。
そしてきっと、彼も同じ気持ちになるのではないかと疑った。そもそも、わたしは知らないのだ。彼がまだ、バレーを好きでいるのかも。彼が今、バレーと向き合うことができるのかも。
だから、一緒に大会を観に行かないかと誘われた時、思わず聞き返して、それから、拍子抜けした。
「大丈夫なの?」
「なにが?」
不思議そうにした彼が、どこまでも普通だったからだ。自分が考え過ぎていたらしいことに初めて気づいて、心の中で毒づいた。烏野10番、小さな巨人。それに固執していたのは、どうやらわたしの方だったらしい。
けれど、大会で新しい小さな巨人の活躍を見た時、わたしはやっぱり不安になった。2mの壁の上を、160cmが鮮やかに抜き去った瞬間。彼の眼が開いて、羨望の眼差しに変わったのを、わたしは確かに見た。
もう一度、バレーがしたいと思うだろうか。それとも、小さくても戦う彼らに妬みを抱いて、嫌いになってしまうだろうか。
余計な思考を取り除けと言わんばかりに勝負は激化し、春の波乱を迎える。
そうして、目を逸らせない戦いの結末は、静かで、確かで。
ボールが、落ちる。
終わりを告げる笛が、鳴る。
誰一人として涙を零さず、真っ直ぐに礼をした彼らの中に、新・小さな巨人――否、最強の囮の、姿はない。
選手たちのいなくなったコートを、どこか不安げな面持ちで見つめる田中さんに、宇内くんが声をかけた。
「大丈夫だよ」
田中さんが、振り返ってこちらを見た。
「あ、いや、体調は分かんないけど」
口籠もりながらも、彼は続ける。
「少なくとも今日向くんは、何かを諦めたわけじゃない」
それは、ほんの少しの自虐を含んでいるようだった。全国の舞台で戦い切ることのできなかった宇内くんは、バレーを諦め、自らその人生に終止符を打った。けれど、己の弱さをとうに知り、それ故に強さを持ったあの少年は、自分とは違うと、まるで、そう言っているようで。
なんと声をかけるべきか迷うわたしを他所に、田中さんが想いを馳せるような面持ちで静かに口を開いた。
「……翔陽はあんたを見てなきゃ、一山越えて烏野には来てないし、飛雄にも会ってない」
未だ騒めきの大きい会場内で、その言葉だけが、くっきりと耳に届いた。
一瞬、目を見開いた彼が、再びコートに視線を送る。そうして。
「……俺が、モンスターを創ったかもしれない」
呟いて、それから、ゆっくりと。ゆっくりと、悔いのない、どこまでも幸せそうな顔で。
「悪くないね」
全てを受け入れるかのように、笑った。
瞬間、泣きたくなった。やっと、「終わった」ことに気づいた。
彼はもう二度と、バレーボールの道へ進もうとはしない。かつて世間を賑わせた、小さな巨人・烏野10番はどこまでも過去の栄光で、未来で再びそれが蘇ることはない。
たぶんわたしは、わたしが思っているよりずっと、その存在に固執していた。叶うならばもう一度、彼に飛んでほしかった。コートの上に立ち続けてほしかった。そうでないと、あの英雄譚が忘れ去られて、いつしかなかったことになるのではないかと、恐れていた。
――そんなことにはならない。彼の物語は、なくなったりしない。
今ならはっきりと、そう思える。彼のバレーボール人生は終わったけれど、なにもかもが泡のように消えるわけではなかった。彼の意思は、物語は、確かに誰かに受け継がれていた。その終わりは、誰かの始まりに繋がっていた。
烏野の新しい10番は、小さな巨人の憧れから脱却して、最強の囮という道を選んだ。己の強さを手に入れた。けれど、その始まりは彼なのだ。小さな巨人、宇内天満だ。誰がなんと言おうと、あるいは誰にも知られないのだとしても、あの怪物の創設者は、彼だ。
これから先、最強の囮に心動かされた誰かがまた、バレーボールを始めるのかもしれない。そうしてその誰かもまた、別の誰かの道標になっていく。そうやって、この世界が続いていく限り。どこかで誰かが、バレーボールに触れる限り。ぜんぶぜんぶ、無駄なんかではなかったと、そう思えるから。
結局わたしは、大学以降、彼がバレーに対してどういう感情を持っていたのか知り得ないままだった。あんな終わりでも好きだったか、あんな終わりだったから嫌いになってしまったか、あの時間を後悔していたか。でも、もう知らないままでもいいと思った。少なくとも今、彼はあの頃の自分を、あの頃の思い出を愛している。「悪くない」告げられた言葉は、間違いなく本心だった。あんなふうな笑顔を見せてくれるのなら、それでいい。
彼の隣に立ち、同じように、誰もいないコートを眺めた。シューズの音が、スパイクの音が、張り上げた声が、歓声が、辺りを包む。高校生の頃のわたしたちは、そのコート上で、たしかに笑っていた。
◇
本誌vs鴎の決戦後、グワァァ!となって書いたお話でした。宇内天満、しあわせになれ。