海をあげる



 大海原が、くるしいほどに碧く光っている。
 ざざあ、ざざあ。寄せては返す波がぎりぎり届かない位置を見定めて、粉砂糖みたいにさらさらした砂浜へ腰を下ろした。それから、お尻のポケットに捩じ込んだ煙草を取り出して、口に咥える。軽快な音で火をつけて煙をふかせば、特有の苦味が潮の香りに包まれて溶けていく。
 日本殺し屋養成所――通称JCCの戦闘訓練の真っ最中だ。久方ぶりの校外学習にテンションが上がって、同級生にペイント弾をぶち当てながらこんなところまで来てしまったけれど。

(やばいなあ、道分かんなくなっちゃった)

 周囲にそれらしい人間はいないから聞くこともできないし。というか、それらしい人間は元より一般人ひとり居やしない。真冬の時期に海に来る馬鹿はわたしくらいということか。
 けれどまあ、これはこれで悪くないと思った。だって今この瞬間は、ここら一帯、ぜんぶわたしのもの。
 なんだか愉快になって鼻歌を口ずさんだ時、首筋に静電気のようなものが走った。

(――殺気)

 反射的に身を翻す。すぐそばに聳え立つ、頂上に展望台のある岬からソレ・・は降りてきて、小さなナイフを片手に無駄のない動きで詰め寄ってくる。
 速すぎる。辛うじて動きが捉えられる時を除けば、勘で避けるくらいしかできない。
 バン、と発砲音が二回した。大丈夫、銃弾の動きは捉えられている。動画の0.5倍速みたいにスローモーション。これは、避けれる。確信して、親指の付け根に力を集中させる。刹那。
 ――ちがう、駄目。こっちは、殺られる。
 本能的に感じ取って、わたしは避けようとしていた方角とは反対側に身を捩った。
 ばしゃり、と海水が跳ね上がる。肌に、髪に、べたべたとした水が纏わりつく。靴の中にもぐっしょりと水が染み込み、不快感に眉を寄せた。そんな余計なことに気を散らしている暇は、戦闘中にはないというのに。

「はい、捕まえた〜」
「は!?ちょ、うげっ」

 まるで鬼ごっこでもしているみたいな軽い調子で。そいつはわたしの腕をぐいと引くと、遠慮なく引き金を引いた。

「げほっ」

 どろり。
 当てられたところから緑色の液体が垂れた。
 訓練に使用するペイント弾だ。実弾ではないので、死ぬことはない。死ぬことはないけれど――。

「こ、の……!至近距離からだとそれなりに痛いんだよ多少は遠慮しろっ」
「え、やだ〜」
「言ったそばから……!」

 続け様に数発撃ち込まれて、オーバーキルにも程がある。男は細身のくせに信じられない程の馬鹿力で、掴まれた腕を解くことはかなり難しい。だからといって、ここで大人しく死のうとは思えなかった。
 掴まれている腕を軸にして、体を捻り、脚を回す。ちょうど男の股間を蹴るような体勢になると、さすがにちょっと驚いたような目をされた。

「遠慮ないなあ」
「は、どっちが……ヴェッ!?」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ただひとつ、世界が暗転した。そう思った次の瞬間にはわたしは背中から海水に浸かっていて、視界にはこちらを見下ろす顔立ちの良い男と夕暮れに染まる空だけが映っていた。

「はい、おわり〜」

 にっこりと笑った男に、そう宣言される。
 悔しさに唇を噛み締めながら、べとべとになった体を何とか起こした。ペイント弾を撃ち込まれた体のそこかしこがじわりと熱いし、捻りあげられていた腕も痛い。おまけに口の中には砂混じりの海水が流れ込んでいて、とてもじゃないが立ち上がる気力はなかった。
 数回咳き込んでから唾を吐くも、喉の不快感はちっともマシにならない。塩水を呑み込んだせいで渇きすら覚える。恨みがましく男を見上げると、相変わらず人当たりの良さそうな笑みが返ってきた。

「南雲……。毎回毎回、なんなの」
「えっ、なにが?」

 戦闘時からは想像できないほど幼げな瞳をまたたかせて、彼は首を傾げる。全く、腹立たしい。眉を寄せ、吐き捨てるように「なんでわたしばっかりしつこく狙うの」そう言った。
 正直言って、わたしの戦闘能力はJCCでもそこそこ上だと思う。今日だって多くの同級生にペイント弾を当てたし、逆にわたしに撃ち込めたひとは目の前のこの男を除いていない。他の訓練だって、頭ひとつ抜けた成績を残している。ただ――。
 ただ、わたしが周囲より頭ひとつ抜けているとするならば、南雲は、周囲より頭ふたつかみっつ抜けている。そんな彼と同じ実力を持つ人物がふたり(坂本と赤尾という)いて、そのふたりと鎬を削るというのなら分かるけれど。何を考えているのか、彼は来る日も来る日もわたし如きをしつこく追いかけ回す。そろそろ飽きるだろうと思い続けてもう一年が経とうとしていた。
 わたしの言葉を受けた彼は、一層不思議そうに「あれ、言ってなかったっけ?」などと零した。

「何を」

 わたしは相変わらず、海水に浸ったままで聞き返す。誰かと話すような態度ではないかもしれないが、こいつ相手に気を使うつもりはなかった。

「ずっと思ってるんだよね」
「……」
「君は僕が殺したいなぁって」
「……は?」

 脈絡のない告白に、わたしはその意味を咀嚼しようと試みる。彼の言葉を、何度か脳内で反芻して。

「いや……わたし、あんたに殺される覚えはないんだけど」

 入学してから今まで、彼の恨みを買った記憶はひとつもない。そう付け加えると、「僕だってべつに恨んでるわけじゃないけどさ〜」と曖昧な返事をされる。「こういうの、なんていうのかなあ」独り言のように問われても、本人が分からない感情を他人のわたしが分かってたまるか。
 ただこの調子だと、まだ暫くわたしはこの南雲という男に追いかけ回されることになるのだろう。少なくとも、彼が彼自身の「殺したい」という感情の本質を理解するまでは。
 嫌だなあ、でも彼と闘っていると強くなるのは確かなんだよなあ。
 そんなことを思いながら、ズボンのポケットをまさぐる。煙草はケースからすっかり水を吸い込んでいた。まだ半分以上残っていたのに、勿体ない。帰りに買って帰らなきゃ。長い溜息を吐いて、今度こそ立ち上がろうと足に力を込めると、不意に手が差し伸べられた。
 ぎょっとして、目の前に立つ人物を見る。逆光でその顔はよく見えなかった。何を企んでいるのかと訝しげに眺めると、「ほら」と意外にもあたたかな声色で誘われた。すっかり毒気を抜かれ、差し出された手を掴もうと腕を伸ばす。指先が、触れる――刹那。

「はっ?」

 あろうことか南雲は目にもとまらぬ速さで腕を引っ込め、彼の支えを頼りに立ち上がろうとしていたわたしは無残にも体勢を崩した。ばしゃり!勢いよく海水に腕を突っ込み、塩水が再び肌にまとわりつく。

「……な、南雲ォ……!」
「あはははは、ほんとちょろいよね〜」
「……っ殺す!絶対殺す!」

 こめかみに青筋をたてる勢いで立ち上がり、でたらめにペイント弾を発砲する。足で海水を蹴り上げて、四方八方に飛び散るそれを南雲はひらひらと避けている。
 彼を追いかけて浜に上がると、濡れた服や肌にじゃりじゃりとした砂がくっついてくる。気持ち悪い。気持ち悪いけど、それよりも目の前の男に一撃でいいから攻撃を当てたかった。
 夕陽が差し込む海岸沿いを、暴言を吐きながら走り回る。
 それはたぶん、わたしがいちばん青春をしていた瞬間だった。



 暗い浜に波音が押し寄せてくる。夜の海は空との境界がずいぶん曖昧で、拡がった深い藍色の雄大さは恐ろしさを覚えるほど。
 靴を脱ぎ捨て、波打ち際へそっと近づく。ざざあ、ぱしゃり。ひんやりとした感触が足に触れ、夜を呑み込むような音を立てて引いていく。また一歩、素足を前へ。波が寄せずとも海水が足に触れる位置まで進み、コートのポケットから煙草を取り出した。口に咥えて、安っぽいライターで火をつける。小さな炎が鬼火のように浮かび、煙がまっすぐに立ち上った。風のない夜だ。煙を追いかけて視線を上に向け、雲の隙間に月明かりをみる。

「……何?」

 煙草を肺いっぱいに吸い込んで。煙を吐くのと同時に問いかける。暗がりの中に人の輪郭が浮かんだ。体を半分傾けてそれを見つめ、現れた人物に薄く笑った。

「ORDERがわたしに何の用?」
「他人行儀がすごいな〜」

 肩を竦め、男が――南雲が、相変わらずの様子で笑う。その顔立ちはJCC時代からほとんど変わっていない。童顔、優男、美男子。そんな形容がよく似合う。最も、その麗しい見た目から想像のつかない殺しの圧倒的な実力と冷酷さを持ち合わせているからこそ、殺連直属の特務部隊であるORDERに所属しているわけだけど。

「任務は言われた通りにやったよ。目をつけられる義理はない」
「そうだね。綺麗に壊滅してたって聞いたよ。実の両親相手に、はっきり言って想像以上だったって話題になってる」

 短くなった煙草を親指で弾くようにして捨てる。「それはどうも」一瞬宙を舞った赫は、すぐに海の黒に吸い込まれて見えなくなった。続けざまにもう一本を咥え、「そんなことを言いにわざわざ?暇じゃないんでしょ、さっさと帰れば」と棘のある言葉を放っても南雲は一切動じない。

「僕が帰ったら、どうする気?」
「……」

 膝下まで海につかった状態のわたしをじっと見つめて、彼は問いかける。馬鹿馬鹿しい。どうせ聞かなくても分かっているくせに。

「きみって意外と繊細なんだね」

 そんなことを不思議そうに言われて、怒りが沸いた。ばしゃばしゃと波を掻き分けて足を進め、男に肉薄し睨みあげる。変わらず飄々とした態度でこちらを見下ろして、男は告げる。

「君が殺さなくてもどうせ別の誰かに殺されてたよ。それこそ僕とか」
「そんなことは分かってる」
「裏切り者には死を。そういう世界だ」
「うるさいなあ!」

 胸倉を掴んで、叫んだ。誰もいない海辺に、怒りと悲しみの混じったその声が反響する。
 金と欲に目が眩んで、殺連が追っていた海外マフィアにこちら側の内情を流したのが両親だった。とんだ裏切り、とんだ愚行。おかげでわたしまでスパイを疑われて、否定するなら全員殺してこいなんて要求をされて。
 対面したわたしに泣きながら許しを請うた二人の顔を、今でも覚えている。その事実が、生きていくうえでとてつもなく厄介だった。今までだって多くの人間を殺してきた。仕事だった、それだけの理由で刃を向け、銃を撃った。わたしの手は、もうずっと前から汚れている。実の両親を殺したところで割り切ることができると、本気で思っていたのに。

「……家族だったんだよ。血の繋がった、家族だった」

 震えた言葉を絞り出す。南雲は何も言わなかった。慰めることも、諭すこともしない。ただただ、『世の中にはそういう感情があるのか』と言いたげな瞳で、わたしを見つめている。

「もう、放っといて」
「……そう」

 南雲が、瞼を伏せて頷く。瞬間。
 鋭い切っ先が空を切り裂いて、わたしは咄嗟に後ろへと飛び退いた。
 頬から赤い血が垂れ、ぽたりと海底へ吸い込まれる。目を見開くわたしに向かって、彼は悠々と武器を構え直した。巨大なツールナイフが、かちゃりと音を立てる。

「……何なの、もう」

 頬を伝う血を拭う。鉄の匂いがした。

「昔も言ったじゃん。――君は、僕が殺すって」

 南雲が告げると同時に、その姿が視界から消えた。
 一撃、二撃、三撃。わたしが辛うじて反応できたのはそこまでで、すぐに背中から海へと沈められる。

「がっ、げほっ」

 口の中に、砂交じりの海水が流れ込む。昔もこんなことがあった。けれど、あの時とは決定的な違いがある。目の前の男は、言葉通りにわたしを殺すつもりだ。手にしているものはペイント弾でもおもちゃのナイフでもない。正真正銘、命を刈り取るための道具。
 雲の隙間から零れた月明かりが男を照らす。巨大なナイフを背負ったその姿が、まるで死神だった。
 拘束から逃れようと、頭のてっぺんから指の先まで神経を尖らせる。南雲が薄く目を開いて、一瞬力が弱まった。その体を捻り、波しぶきをあげて立ち上がる。立ち上がって、はっとする。
 わたし、どうして抵抗してるの。
 南雲が再びわたしに詰め寄った。体が宙に浮いて、また捕らえられそうになる。それを躱して、反撃しようとしたところでまた海に沈められて。
 ……馬鹿みたいだ。南雲ならきっと、上手く殺してくれる。わたしが抵抗しなければ、この首は一瞬で刎ねられて全部が終わる。それなのに、どうしてわたしは、わたしは――。ああ、そうか。

(――わたしは、まだ。死に抗っていたいのか)

 荒々しく息を吐き、喉が焼けそうなくらいに咳き込む。そんなわたしを見下ろして、「思ったより抵抗するね〜。なんで?」どこか平べったい声音で南雲は問いかけた。
 押し黙ったままのわたしに彼は「まあいいや」と小さく息を吐くと、背中に背負ったツールナイフを広げるようにしてこちらに向ける。

「僕優しいからさ〜。死に方は選ばせてあげるんだ。……どれで逝きたい?」

 漆黒の瞳がわたしを射貫く。戦闘能力の明白な違いを見せつけられて、本能が死を悟っている。次、男が動いた時が終わりだと。もう絶対に、逃げられない。
 ゆっくりと呼吸をする。潮の香りが鼻をぬける。波の音は穏やかで、妙に心が落ち着いた。

「……どれでも」
「わ。優柔不断〜」

 茶化すように言った南雲が掌にサイコロをみせる。それを振りかざす、直前に。

「どれでも、逝きたくない」

 そう口にして、わたしはわたし自身の感情を改めて理解する。
 まだ死にたくない。生きることに苦しみを感じているくせに、それでも死ぬのは惜しい。
 南雲が武器を引いて、じっとこちらを見つめた。

「それって、僕に殺されるのが嫌とかじゃなくて、ただ死にたくないってこと?」
「……そう」
「ふうん」

 すると彼は、意外にもあっさりと武器をしまいこんだ。これにはわたしが面食らって、「殺さないの」と尋ねてしまう。

「だって別に君を殺したいわけじゃないし〜」
「いやさっき殺したいって言ってたじゃん」
「そうなんだけどさ〜。ただ殺したいわけじゃなくて」

 完全に殺気も消して。久方ぶりにあった友人に近況報告をするような雰囲気で、彼は会話を進めている。

「他の人に殺されるくらいなら僕が殺す。勝手に死なれるくらいなら僕が殺す。そういう感じだから」
「ふうん……?」

 いまいちピンとこず、曖昧な返事で返すと、唇を尖らせた彼に「適当に返事してるでしょ〜」と言われてしまった。そんな拗ねた子どものような顔をされても。

「だってさ、もし君が他の男に殺されたとして……。きみ、自分を殺した相手を恨むでしょ」
「まあ……幽霊になるほど恨むかは分かんないけど、畜生くらいは思うかも」
「そんなのムカつくじゃん」
「えっ急になに?」
「今だって、自分ひとりで死のうとしてたけど余計なことばっか考えてたみたいだし」
「余計なことというか自分が殺した家族のことだけど」

 苦しいことには変わりないんだから言わせるなよ。そんなことを思いながらも辛うじて返す。そんなこちらの気も知らずに、南雲は相変わらず子どもが将来の夢を語るみたいな感じで、

「それも腹立つ。どうせ死ぬんだったら最後まで、僕のことだけ考えながら死ねばいい」
「……えぇ……?」

 何それ、怖い。
 真っ先にそれだけが感想として浮かぶ。
 言わんとすることは、何となく分かった。最期まで(或いは最期くらい)自分だけに全ての感情を向けていろと、彼はきっとそんなことが言いたい。何ていう独占欲、何ていう執着。JCC時代から数年経ってようやく見つけた「僕が殺したい」の答えがこれなのだから、本当に恐ろしい。

「ちなみに好奇心で聞くけど、普通に寿命とかで死ぬ場合は?」
「普通に寿命で死ねるかな〜。こんな仕事なのに」
「いいじゃん、未来の『もしも』くらい話しても」
「ま、それもそっか」

 小さく笑った南雲の瞳が、どこか遠くを見る。「そうだね〜」と。薄い唇が開いて、のんびりとした言葉が潮風に乗って波間を漂う。

「その時は、ただきみの隣にいようかな」

 ……なるほど。わたしが天寿を全うすることがあるとすれば、その時は彼がすぐそばで看取ってくれるらしい。それはまるで、長年連れ添った夫婦が迎える結末みたいだ。なんだか可笑しくて、

「プロポーズに聞こえなくもないね、ソレ」

 揶揄うように言ってみると、彼は相変わらずへらへらと「そうかも〜」なんて返した。そうなのかよ、と心の中で突っ込む。でもまあ、そんな未来を想像したら、まだまだこの人生を生きていける気がした。
 くつくつと肩を震わせて、いい加減立ち上がろうと足に力を込める。それに気づいた南雲が、いつかの時と同じように手を差し伸べた。「ほら」あたたかな声が降りかかる。わたしはそれを、疑いの目で見つめる。昔もこの声音に騙されて、再び海水に体を沈める羽目になったのだ。

「今度はちゃんと掴むよ。大丈夫、僕ウソ嫌いだからさ〜」

 と、南雲はまた嘘くさいことを言う。
 おそるおそる、腕を伸ばす。万が一腕を引込められても大丈夫なように、慎重に。やがて指先が触れて、ゆっくりと、掌が重なって。安心して息を吐いたわたしに微笑んだ南雲は、今度こそ、わたしの手をしっかりと握りしめてくれた。


2022



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