ほたる



 裏山の川辺に蛍がたくさん飛んでいたから、気晴らしに見ておいでよ。
 執務室で唸るわたしに声を掛けてくれたのは光忠だった。書類の提出期限が三日後に迫っているとはいえ、このまま部屋に篭っていても進む気配はない。彼の言う通り気分転換は大事かもしれないと、運んでくれたお手製のクッキーとアイスティーを口にしたあと、薄い羽織ものを片手に玄関口へと向かった。

「おっ。きみ、こんな時間に出かけるのかい?」

 木造りの長い廊下を歩く途中、並んだ部屋のひとつから白色が現れた。鶴丸だ。彼の背中越しに覆いかぶさるような賑やかな声がしていた。確かこの部屋にはテレビがある。面白い番組でもしているのか、何かの映画の再放送か。そんなことを考えながら、

「蛍を見に行こうと思って」

 要点だけを短く伝えると、鶴丸はぱっと満面の笑みになった。

「なるほど、そういうことなら俺も行こう!」

 即答され、思わず瞬きをする。えらく楽しそうだけれど、抜け出していいのだろうか。
 そんなわたしの考えを読んだかのように、鶴丸は明るく笑うと「きみといるのも楽しいからな」などとさらりと言ってのけた。
 赤くなる頬を隠すようにそっぽを向いたわたしの後ろを、浮かれた様子で彼がついてくる。



 裏山の小道に人工的な光はひとつもない。ぼんやりと浮かぶ月の明かりだけを頼りに、青い草が生えた砂利道を歩いていく。時折体にまとわりつくように小さな虫が飛び回ってきて、その度に手でぱたぱたと払わなければならなかった。
 懐中電灯を持ってこなかったことと、虫除けスプレーをつけ忘れたことを後悔したが、沈みかけた気分は鶴丸の「きみ、見てみろ」という弾んだ声によって打ち消された。
 川沿いに、無数の淡い光が舞っている。

「見事だなぁ、想像以上だ」

 感心したように零した彼の隣で、わたしも息を呑む。
 地元の田舎でも蛍を目にする機会はあったが、その倍は飛び回っているだろうか。川辺ぎりぎりの低いところから、手が触れられないほどの上空まで。ちいさくまるい光は、いたるところを舞い上がる。
 ひと休みでもしているのだろうか、川沿いに生えている背の低い草に止まっている蛍へ、そろりそろりと近づいてみる。
 が、わたしがしゃがみ込むと同時にその光はすうと飛び去った。ならば道の上を飛んでいるものはどうだと、子どものように蛍を追いかけはじめたわたしの背に、「転ぶなよ!」という鶴丸の声がした。まるで、妹を嗜める兄のよう。

「転ばないよ!」

 馬鹿にしないでと言いたげな表情を彼に向けたとき、

「あ」
「あ!?」

 かつん、と転がっていた石に足を取られ、体が傾く。ぎゅ、と目を閉じ痛みを覚悟するのと、
「まったく、言ったそばから。昔っから変わらずお転婆だなぁ」

 呆れたような、けれど優しくて温かい声が降りかかるのが同じだった。

「……ごめん」

 素直に謝るわたしへ、鶴丸は「はは、もう慣れたさ」と柔らかく微笑んだ。
 歩けるかい、と問いかけられて、しっかりと頷く。捻ったり挫いたりはしていない。わたしを支えていた彼の腕は、ゆっくりと離れた。
 二人並んで、光が浮かぶ川沿いを再び歩く。その最中、隣のそのひとをちらりと盗み見て、わたしは小さく首を傾げた。

「鶴丸の周り、なんか蛍おおくない?」
「ん?そうかい?」

 不思議そうに足を止めた彼をじっと見つめる。やはり、彼の周りにはひときわ多く光が浮かんでいた。
 自身とこちらの周囲の様子を見比べた彼は、「本当だな」と愉快そうに笑うと、舞い上がる光のひとつを指で弄びながらぽつりと零した。

「人とそうでないモノの違いでも、分かってるのかもしれないな」

 瞬間、ぶわりと風が吹き、蛍たちが逃げるように一斉に飛び去った。川を挟んだ反対側の岸へと向かう光の粒はまるで、三途の川を渡る人魂のようにも見える。幻想的で別世界のような美しさに、綺麗だね、と声をかけようとしたのに、それらをすっと追いかけた鶴丸の月のような瞳があまりに人間離れしていたから。もしかしたら、このままあの人魂のような光に導かれて、遠くへいってしまうんじゃないかと、どうしようもない不安が襲って。

「うおっ、どうしたんだ、きみ」

 わたしは無言で、鶴丸の背中に抱きついた。ほんのりとお香のような懐かしい匂いを体中に感じながら、わたしは絞り出すようにして彼の名を呼ぶ。

「……つるまる」

 幼い子どものような、ずいぶんと拙い響きだった。けれど彼は揶揄うこともせず、その腰にぎゅっと回した手を優しくなぞってくれる。

「つるまる、勝手にいなくなったりしないでね」

 夏の虫たちが、美しく重奏を奏でて夜を彩っている。その何よりも綺麗な音を、鶴丸はわたしに届けてくれる。当たり前だろう、と。どこまでも慈愛に満ちた優しい瞳で。柔らかな掌でわたしに触れながら。

「俺はきみの、きみだけの鶴丸国永だ。きみが望む限り、ずっと、どこにも行かないさ」



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