微睡む記憶に君だけがいる



 捨てられないマグカップがある。
 ちょっとだけ使い勝手の悪い猫型のマグカップで、元カレが初めてプレゼントしてくれたものでもあった。わたしは白色、彼は黒色。別れると同時に黒い方は彼が引き取ったので、今はわたしの白猫だけが食器棚の一番奥に寂しく取り残されていた。
 捨てられないのは、愛着があるからだけじゃない。元カレとの愛しかった日々を、この人とずっと一緒にいるんだろうなと思っていた幸せな日々を、手に取るたびに思い出してしまうから。月二回の不燃ごみの日に、棚の奥から取り出してはやっぱり戻す、というのを繰り返していた――のだけれど。

「ワー!なんで!」

 お風呂を出てすぐ、キッチンの前で煙草を吸う赤尾を見て悲鳴をあげる。彼女の手元にはその白猫のマグカップが置かれていて、あろうことか灰皿として使われていた。

「おー、早かったなァ。普段もっと長風呂じゃね?」
「灰を落とすな、手ぇ止めて!」

 とん、とん、とん。
 白猫に容赦なく灰を落とされ、わたしは再び悲鳴をあげる。ずかずかと近寄って中を覗き込んだら、水が張られたマグカップの中には既にいくつもの煙草が浮かんでいた。

「灰皿なかったからさ」

 悪びれもせずに赤尾が言う。嘘だ、と思った。そんな理由のはずがない。今までの赤尾は近くの自販機でわざわざ買った缶を空にして灰皿代わりにしていたし、そもそもこのマグカップは一番奥にしまっていたし。どう考えても意図的だった。
 カップの丸みに手を回す。薄汚れた中身をじっと見ていると、「捨てたかったんだろ」と声が降ってきた。赤尾はまだ、煙草を咥えたままだ。

「こないだ酔ってる時に言ってたぜ。ちょうどいいじゃん」

 ……言っていた、だろうか。未成年だからという真面目な理由で避けてきたお酒を初めて飲んだその日のことはよく覚えていなくて、ただ、元カレの愚痴を溢したことは確かだった。
 捨てろよ、と赤尾が言った。視界の淵で煙がゆらりと揺れて、苦い香りが漂う。

「あんなクズに貰ったもんなんか、いらねぇだろ」

 クズ。そう、クズだった。予定より早く任務が終わって戻ってきたら、いつも使っていたベッドで他の女と寝ているようなヤツだった。彼が泊まる時に便利だからと、一人だと少し大きいそのベッドを買ったのはたったの半年前だったけど、どうしても気持ちが悪くてすぐに捨てた。今部屋の隅に置かれているベッドは三代目で、こじんまりとした白色。
 押し黙るわたしに追い討ちをかけるように、赤尾は「片割れも捨てられてるだろ」と続けた。

「……うん。そう、だよね」

 赤尾の煙草が随分と短くなっている。白猫が再び煙草を呑み込む。今度は咎めなかった。ぷかぷかと浮かぶ煙草に、かつての思い出が塗り潰される。

「……泣くなって」

 赤尾が少し困ったように告げた。わたしは「泣いてないよ」と強がることなくその言葉を受け止めて、「うん」と頷く。滲んだ視界の中で、汚れた水面が波打った。

「新しいの買ってやるから」

 と、赤尾がわたしの瞼に舌を伸ばした。赤い舌は器用に涙を掬って、そういえば感情によって涙の味は変わるらしいと、どうでもいいことを思った。

 翌日の不燃ごみの日に、白猫のマグカップは大きなトラックに回収された。折れた傘とか、割れた食器とか、壊れた家電製品とか、そんなものとごちゃ混ぜにされて。
 赤尾はその日のうちに新しいマグカップを二つ買ってきた。取手の上部にリボンの飾りがついた桜色のマグカップはひどく可愛らしい。赤尾にもわたしにも似合わない気がして、「何でこれにしたの」と思わず吹き出したら、「かわいくていーだろ、よく分かんねぇけど」と適当な返事が返ってきたからまた笑った。インスタントのココアを淹れながら「かわいすぎて使いにくい」なんて言い合ったけれど、結局わたしたちはこの薄ピンクのマグカップを愛用することになる。



 二人で寝るには窮屈なベッドで、赤尾と身を寄せ合って眠る。赤尾はいつも薄着で、その肌は少しだけ冷たい。彼女がわたしを「湯たんぽみてぇ」と抱きすくめるたび、ひんやりとした肌がぶつかって心地よかった。
 豆電球の薄明かりが、静まり返った部屋をぼんやりと映している。部屋の真ん中に置かれたダイニングテーブルには赤尾がくれたマグカップが二つ寄り添っていた。彼女がそれを贈ってくれた日のことを思い出しかけて、わたしはふと首を傾げた。

「赤尾、起きてる?」
「んー?」

 どこかぼんやりとした声が返ってくる。「何だよ」と呟く彼女の息が耳元に当たって擽ったかった。

「赤尾がさ、あのマグカップくれたとき。元カレのマグカップを代わりに捨てたじゃん」
「……そーだっけ」
「そうだよ、赤尾が灰皿にしちゃったから」

 あぁ、と彼女は煮え切らない返事をする。「それが何だよ」と続けられた声音は、少しだけ不機嫌そうにも思えた。わたしの体に回した腕の力がにわかに強くなって、赤尾の肌がより深く吸い付く。

「べつに大したことじゃないんだけど。あのマグカップ、犬だったっけと思って」

 やや間があって、赤尾は「ふは」と気の抜けた笑い声を零した。「何だよ、忘れたのか?」先程までとは打って変わって愉快げな音で、なんだかこちらを小馬鹿にしているようでもあった。

「赤尾は覚えてるの」

 少しだけムッとするわたしを宥めるように、赤尾の細くてプラチナみたいな指がゆっくりとわたしの鎖骨辺りをなぞり、続けて髪をゆるゆると梳いた。心地よさに目を閉じる。首筋に唇を押しつけるようにした彼女は、やっぱり少しだけ楽しそうに、あるいは嬉しそうに喉を鳴らした。

「さあ、私も忘れた」


2024



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