さらば平穏、ようこそ物騒
ラーメンが食べたい。馬鹿みたいにカロリーの高いラーメンが。分厚い叉焼に噛り付いて、半熟卵を口の中で溶かして、油が浮くこってりしたスープを全部飲み干して。
時代遅れのセクハラをしてくる上司や話を聞かず一方的に要望を押し付けてくる取引先、突如バックレた同期が残した仕事の後処理……、それらの雑務に追われた残業後、すっかり夜の帳が降りた街を歩きながら思うことはそれだけだった。ヒールをつっかけながら駅を降り、行きつけのラーメン屋に向かう。かつかつと地面を鳴らす音が、四角い建物に囲まれた路地によく響いた。
店舗前にある「営業中」と書かれた看板が安っぽいライトに照らされていた。一口の隙間から既に空腹を促す良い香りがしていて、「こんばんは」と暖簾を潜った、その直後。
「待っっって」
思わず、声が出た。
「?」
券売機の前に、なぜか拳銃を構えた少年がいた。大きな目が不思議そうにわたしを見る。「店長ぉ」と、カウンターの奥で作業をしていたいかつめの男性に声をかけたら、既にいる客と話していた彼がこちらを向いた。奢って貰ったお酒でも飲んだのか、その頬はほんのりと赤い。
「おぉ、久しぶり。なんだ?」
「なんだも何も、この子が変な銃……」
「銃ぅ?」
小馬鹿にするように繰り返した彼が、やや間を置いて豪快に笑った。
「銃って、急にどうしたよ。なんもないぞ」
「え」
振り返り、もう一度少年を見て。わたしは口をへの字にする。少年の手元には銃なんてものはなく、彼もまた「何でもないです」みたいな顔をして券売機を見つめていた。彼が身につけているものは、矢筒のようなケースだけ。
「いやいや、さっきまで銃持ってたでしょ」
「持ってない」
「嘘つけって」
「知らない」
問い詰めるみたいに距離を縮めるわたしの背中に、店長の「もう酔ってるのか」という揶揄いと客の笑い声が降りかかる。「よっぽど疲れてんだな」「仮に持ってても子供のオモチャだろ」混ざりあった言葉のいくつかを拾い上げながら、(レプリカ……まあそうか)とわたしは妙に納得した。普通に考えて、こんな少年が拳銃を持っているはずがない。
確かに余程疲れて頭が回っていないのかもしれないと、わたしは溜息をついた。それから、「ごめん、先どうぞ」と少年に伝える。少年はぺこりと小さく頭を下げたものの、そこからじっと券売機を見つめて動かなくなった。
「……?」
「……」
沈黙。
メニューを悩んでいるとかそういう雰囲気ではなくて、わたしは首を傾げて。それから、「もしかして」と少年に声をかけた。
「使い方、分からない?」
やや間があって、少年が頷いた。今時珍しいなと思いつつ、わたしは「何が食べたいの」と続けて尋ねる。
「一緒に買ってあげる」
「いいのか?」
「いいよ、いいよ。変な誤解しちゃったお詫び。ちなみにここはね、餃子も美味しい」
「誤解じゃ……」と、少年は歯切れが悪そうに告げたけれど、よく聞こえなかったわたしは「他にもねぇ」といくつかのメニューを勧め、彼も結局それ以上は押し黙る。
ちょうど成長期らしい少年は、ちょっと驚くくらいの量をぺろりと平らげた。途中、「美味い」と頬を膨らませる彼の食べっぷりにいい気になった店長が「飲め」と頼んでもないのにビールを出したのを、「どう見ても未成年でしょ、やめて」と、代わりにわたしが飲み干したり。そういう空気感だったから、誰も未成年が夜遅くに一人で出歩いていることを咎めようとはしなかった。
食事の途中で、少年は「周」と名乗った。最近この辺りに引っ越してきたらしい。親の都合?とは聞いて良いのか駄目なのか分からず、結局それ以上は問いかけないことにした。周くんは、わたしの愚痴やおじさんたちの愉快な話に黙って耳を傾けている。
二人ともお皿を空にして店を出るころ、周くんは「お金……」と財布を取り出そうとした。それを「いい、いい。話聞いてくれたお礼」と仕舞わせ、わたしは喉を鳴らす。いつも以上に飲んだお酒が体中を巡っていて、なんだか愉快だった。
「……ちゃんと帰れるのか」
と、周くんが心配した。未成年にそんなことを聞かれては終わりだなと、笑いが込み上げる。「だいじょうぶ」ふわふわした口調で返すと同時に僅かに足がもつれて、周くんが一層不安げに眉を寄せた。
「周くんこそ、ちゃんと帰れる?もう夜遅いよ」
「心配ない。それより、家まで送る」
「ええ、悪いよ」
へらへらと断るわたしの腕を、周くんはしっかりと掴んだ。思っていた以上に強い力だったので驚く。真っ直ぐで純粋な目がわたしを射抜いて、「でも、お願いしようかな」そう言おうとした時。
「苗字名前」
突如名前を呼ばれ、わたしは不思議がりながらもそちらを見る。薄暗い路地の中に男の姿がぼんやりと浮かんでいて、「誰?」と問いかけたら、男の両手で何かが光った。瞬きをひとつ。頼りない街灯の明かりに照らされたそれは、重そうな鈍色をしていて、まさか。
「恨むなら、お前の父親を恨め」
男の手元にある斧がアニメのように回転する。理解が追いつかない。視界からその姿が消える、瞬間。
「え」
いつのまにか、わたしと男の間に周くんが入り込んでいた。彼の手には連結した棒の先に刃がついた武器――例えば、カンフー映画で見かけるような――が握られていて、待って何これ、映画の撮影?
刃と刃がぶつかり合う、乾いた金属音が路地に響く。
酔いすぎて幻覚でも見ているのか、実は最初から夢の世界だったとか。訳が分からず動くことすらできずにいたら、気づいた時には体が浮いていた。背中と足に人の体温を感じて、どうやら周くんが抱え上げてくれたらしい。
待て、と叫んだ男の額に、周くんは持っていた武器の棒部分を殴りつける。ゴン、という鈍い音がして、男が白目を剥きながら後ろに倒れた。かと思ったら路地の隙間から別の男が現れて。振り翳された鉈のような武器を周くんは身軽に躱して、男の足元に連結部分の鎖を引っ掛ける。男が背中から倒れる――。
「しっかり捕まっていてくれ」
言うや否や、周くんが勢いよく走り出した。頬に当たる風が冷たいのか熱いのかも分からない。ただ、心臓がばくばくと音を立てていて、「何、もう。全然分かんない」自分よりずっと年下の男の子に、縋るみたいにそう零す。
周くんは走り続けながら、「彼らは殺し屋だ」と当たり前のように言った。そんな「友達の誰々です」と同じトーンで告げられても、余計に混乱するだけだ。正直怒りたいし、なんなら泣いてしまいたい。そんなわたしの気持ちも知らずに、周くんは淡々と続ける。
「話ぶりから察するに、あなたの父親もそうか……、殺し屋と繋がりがあるひとなんだろう」
お姫様抱っこをしてもらった状態で、悪いヤツから逃げながら夜の街を駆ける。まるでドラマのワンシーン。でも心臓の高鳴りは、ときめきとか、そんな甘い理由のはずがない。
何殺し屋って。父親もそうって。というか、周くんって、一体何者なの。
空を切り裂く発砲音がした。思わず目を閉じたら、真っ暗な視界の中でいくつかの打撃音が響く。それから程なくして、周くんは、
「ひとまず大丈夫だと思う」
と、わたしをそっと下ろした。地面に足がつく。ふらり、と倒れかけたのは、お酒に酔ったせいじゃない。
周くんが素早く支えてくれる。彼は「けど、今後も何が起こるか分からない。ひとりでいるのは危険だ」と告げると、
「ラーメンのお礼に、俺が守る」
大真面目な顔をして、そう続けた。
彼の手には、やっぱりあの武器が握られている。自分の頬を摘み上げても痛いだけだった。だからもう、これが現実だと認識するほかなくて。
周くんが右手を差し出した。まるで何かの取引みたいだ、と思いながら、わたしは彼の手を握る以外の選択肢がない。
その日、平和な日常は崩れた。明日からのわたしは、存外大きくて無骨な周くんの手に守られながら、セクハラやパワハラがかわいく思えてしまうほどの物騒な毎日を歩むことになる。
2024