冬、逃避行、鮮やかな音



 午後は眠気との戦いだ。
 陽当たりの良い窓際の席で、うつらうつらと先生の声を聞いていた。文字通り、聞いているだけ、だ。内容のほとんどは右耳から左耳へ流れていくだけで、ちっとも頭に入ってこない。わたし以外の生徒も、多くがそんな状態だった。
 ふと窓からコツンと音がして、そちらに顔を向ける。橙色の頭がひょっこりと覗いていた。ぎょっとする。

「何してるの、れおくん」

 口パクでそう咎めるけれど、なんて堂々としたサボりだろう。いっそ清々しくて感心する。
 翡翠によく似た瞳がいたずらに細まって、次いで指がすーっと動かされた。「窓開けて」声は聞こえなかったけれど、彼はそう言ったに違いなかった。先生に見つからないようにそうっと窓を開けるわたしとは対照的に、彼は遠慮なく教室へと身を乗り出して。

「こら!そこ、何をしてるんですか!」

 案の定、こちらに気がついた先生がぴしゃりと声をあげた。注目を一斉に集め、ちょっと、泣きたい。れおくんは、そんなわたしの腕をぐいと引き、

「ほら、飛んで!」
「ええっ」

 戸惑いながらも彼の勢いに負け、言われるがままに教室を抜け出した。「走れ走れっ」と楽しそうな声がすぐ隣でしている。

「どこ行くんですか、戻ってきなさい!こらー!」

 先生の叱責の声は、どんどん遠くなっていく。

「あははは!いいな、いいな!インスピレーションが湧くぞ!」

 わたしの手をしっかりと握ったまま、れおくんは高らかに笑った。

「よし、このまま学校抜け出して海まで行こう!」
「いま冬だけど!?ていうかさすがにマズいし、すんごい巻き添えくらったきがする!」
「何言ってるんだ、おまえも楽しんでるだろ!」

 振り返った彼が、自信満々に笑った。
 全く、どうしてこうもわたしのことが分かってしまうんだろう。
 「そうだけど!」とヤケクソに肯定したわたしに、彼はいっとう笑みを深くすると、握る手の力を強くした。
 寒い冬空の下、隣を走るれおくんが、いつも以上に煌めいて見える。きらきら、きらきら。降る雪が太陽に照らされているみたい。

「……セナに怒られても知らないからね」
「大丈夫だ、生み出した名曲を聞いたら納得してくれるだろ!」

 さあ行くぞ、と明るい声で告げた彼の背中に、ふと一年前を思い出した。あの頃の彼は、その小さな背中にいろいろなものを背負っていた。いつしか小さな背中は傷だらけになって、とても苦しそうで、悲しそうで、でも、わたしは、どうすることもできなくて。自分の弱さを憎んで、ひどく後悔した日もあった。
 それでも。それでも、長い時間と様々な出来事を経て、またこうして彼と笑い合えている。
 冬世界を元気に駆ける彼を見つめながら、どうか、と願う。
 どうか、この馬鹿みたいな思い出が色褪せることがありませんように。数年後、数十年後まで、美しい青春だったと、みんなで笑い合えていますように。
 凍えそうな海の前、れおくんはいくつもの音符を紡ぐ。風が吹く。踊るように舞い上がった五線譜は、どれも、楽しく鮮やかな音色を宿している。


2017
2023.12 加筆修正



backtop