似合いの指輪



 引き止められることを期待して家を飛び出したから、肩透かしをくらって靴の踵を踏み潰す。あまりの苦々しさに舌打ちをして、言いようのない気持ち悪さに駆られた。彼と同じところまで堕ちたという、訳の分からない確信が内臓を抉るので、堪らずその場で蹲った。鈍い街灯だけが辺りを照らす小さな通りで、さみしく、ひとりぼっち。

「また喧嘩かい?」

 ふと、頭上から声がした。桜を認めたみたいなやわらかな声は、ひとのそれとかけ離れた美しい容貌にぴたりと一致する。
 問いかけに答えなかったこちらに気を悪くする様子もなく、神様はゆるりと微笑んで手を差し伸べた。「帰ろう、主」うっすらと黄みがかった柔らかな髪をなびかせて。
 優しいその神様に甘えて、わたしは静かに手を伸ばす。その、瞬間。
 遠慮のない手つきで、腰から思い切り引き寄せられる。あっという間に鼻が触れるほどの近さに端正な顔があって、戸惑いと気恥しさから、掠れた声が零れた。

「……こんなものを、いつまでつけておくの?」

 白くて細いながらに骨ばった男の指が、いつのまにか、最早わたしの体の一部である金属に触れていた。左手の薬指に宿した、永遠の愛の象徴。
 ――仕方ないじゃない。
 吐き出した言葉は震えていた。怒り、悲しみ。いろんな感情がごちゃ混ぜになっている。

「わたしには、これ以外に縋るものがないんだから」
「そんなこないよ」
「あるの」
「ううん、ない」

 両の手で頬が包まれて、半ば強制的に前を向く。至近距離にある彼の瞳から逃れようと視線を伏せれば、ぴしゃりと声が飛んだ。

「主。僕を見て」

 渋々といった具合で目を向けたのに、それだけで彼はひどく嬉しそうに微笑んだ。視線は空中で糸のように絡まり合って、不思議なことに解けない。時間が止まり、周りが透明になったみたいだった。

「あるじ」

 再び聞こえた神様の声は、すべてを呑み込む海のように優しく穏やかで、一音一音がくっきりと脳裏で反響した。「僕がいるよ」彼はたしかに、そう言った。嘘偽りのない、星のような瞳を真っ直ぐに向けて。
 僕が代わりに永遠を誓うから。
 ずっと傍にいるから。
 それはあまりに切実な声で、どうしようもなくこちらの胸まで痛くなって彼を抱き締めた。胸板に額を押し付けて回した腕の力を強くすると、頭上からほんの少し困ったような声が降ってきた。

「……泣いているの?」
「……泣いてないよ」
「そう」

 見え透いた嘘に頷いて、彼もわたしを抱き締める力を強くした。心地よい体温と香りに包まれて、安心して。ありがとうと、温かな言葉が自然と口をついた。そうして、どういたしまして、と、彼が笑った。――そのあとのことは、よく覚えていない。



 目を覚ますと、見慣れた天井板がこちらを見下ろしていた。いつのまに本丸に戻ってきたのだろうと、寝起きの働かない頭で思い返す。ともかく迎えに来てくれた彼にお礼を言わなければと体を起こした時、何気なく目に入った左手……正確には、左手の薬指に、言葉を失った。
 結婚指輪が、ぽっかりと消えていた。
 焦燥感が襲い、毛布を剥ぎ取る。枕をひっくり返して、布団の裏側まで確認しても、指輪はどこにも見当たらない。なんで?どうして?ぐるぐると頭の中を疑問が駆け巡る中、ふっとひとりの神様の姿が浮かんだ。

(そんな、まさか……。そんなはず、ない)

 口元を手で覆い、考えを巡らせていると、

「主?起きたのかい?入るよ」

 するりと襖が開けられて、白の軍服を纏った神様が姿を現す。いつも通りの穏やかな笑みで「おはよう」と告げた彼は、間もなくこちらの異変に気付いたようで不思議そうな顔をした。

「どうかしたの?随分慌てているようだけど」

 どくん、どくん、と、心臓が嫌な音を立てていた。きゅっと浴衣の裾を掴みながら、ゆっくりと口を開く。頭の中の最悪なシナリオは、どうか間違いであってくれと願いながら。

「指輪が……、見つからないの」
「ああ、指輪」

 そうして、わたしの願望は、いとも簡単に打ち崩された。

「あれなら捨ててしまったよ。だって君にはもう、必要ないでしょう?」

 捨てた?必要ない?
 何を勝手なことをと声を荒げるより先に、頭に血が上って振り翳した手が、簡単に捕らえられた。そのまま傾れこむように布団の上に組み敷かれるので、悲鳴をあげようとするも口元を押さえつけられて制される。

「何をそんなに怒っているの?昨夜君だって合意してくれたのに」

 昨夜、合意した。
 彼の言い分には覚えがなく、何のことだと首を振れば、「まさか、忘れてしまったの」と彼は息を吐いた。

「僕が代わりに永遠を誓うと言ったら、君は泣きながらありがとうと縋りついてくれたじゃない」

 そこでようやく、彼が何の話をしているかを理解した。けれど、あのやりとりがどうして指輪を勝手に処分することに繋がるのか。わたしはそんなつもりで会話していたわけじゃない。慰めてくれてありがとうと、伝えたかったのはそういうことで。

「……返して」
「え?」
「指輪、返して。どこにやったの」
「ええ、返してって言われてもねえ。もうないから、できないんだよ」
「ない?」
「うん。だって、斬ってしまったもの」

 清々しいほどの笑みで、彼は驚愕の言葉を告げる。唖然として程なくして、悲しみと怒りと後悔とが混ぜこぜになり、じわじわと視界が滲んだ。こんな神様に弱い姿をこれ以上見せて堪るかと、俯いて唇を噛むのに、彼は当然のようにわたしの様子に気づいてしまう。

「ありゃ?どうして泣くんだい。……そんなに大事なものなの?」

 真剣な声で尋ねられ、微かな期待に小さく頷く。
 ごめんね、嘘だよ。そんなに言うのなら返すよ。
 そんな言葉が告げられることを願って、けれどやっぱり叶うわけはなくて。

「そっか。それじゃあ、早めに選んでくるよ。君に似合うとびきりの指輪を……っ」
「ぁ、痛……っ」

 言い終えるか否かのうちに、彼は薬指に思い切り噛みついた。そうして、くっきりと浮かんだ痛々しい痕を恍惚の表情で眺めながら、笑うのだ。

「それまでは、これを指輪代わりにしていてくれるかい?」



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