春の日和に鶴と猫
桜の花びらがひらひらと舞う縁側は、陽気な日差しに包まれている。
「いい日和だなあ……」
ごろごろ、にゃあー……。
「おっ。君もそう思うかい?」
同意するように聞こえた膝元からの鳴き声に、俺はくつりと笑った。
飼い猫ではないだろう、決して毛並みが綺麗とは言い難いが、つぶらな瞳がなんとも愛らしい黒猫がこちらを見上げている。どうやらメスらしい。
ごろごろと喉を鳴らしていた黒猫は、何を思い立ったかすっくと立ちあがると、俺の装束を掴んで肩までよじ登りはじめた。ちくちくと毛先が首筋に当たり、くすぐったさに身をよじる。
「ん、なんだなんだ、ははっ、元気だな、君。おいこら、衣を噛むんじゃない……、っと、舐めるな舐めるな!はははは!……お?」
堪えきれず笑い声をあげた時、すっと影が覆った。視界の端で、深い夜の色をした艶やかな髪が揺れる。
見上げれば想像通り、俺の主である人物がこちらを覗き込んでいた。
「どうしたんだ、きみ。何か用事かい?」
「ううん。楽しそうに笑ってたから。……猫?」
「ああ。万事屋に行った伽羅坊についてきたみたいなんだ。かわいいだろう?」
「うん」
頷いて口元を緩めた彼女が、猫の喉元へとそっと手を伸ばす。が、
「にゃっ」
猫の方はぷいっと視線を逸らし、俺の胸元へ顔を押し付けてきた。
俺は驚き、目を瞬かせる。元来、彼女は動物に好かれやすいのだ。大抵の動物には懐かれるし、警戒されることはあれど嫌悪されることはなかったはず。
顔を曇らせてがっかりする彼女に「まあ、そういうこともあるさ」と、自分の隣に座るように勧める。
うん、とか細い声で頷いて腰をおろした彼女は、そのまま肩を寄せてきた。……珍しい。
「どうしたんだ、今日は甘えただな」
黙って、と言うように彼女はその身をぐりぐりと押しつけてくる。ちょうど、俺の腕の中にいる猫のようだ。
まったく、本当に今日はどうしたのだろう。猫に懐かれなかったことが、そんなに落胆することだろうか。
不思議に思いながら、腕の中の猫を相手にしてしばらく、「きみ、今日の仕事は――」と、隣を見て、そっと口を噤んだ。
伏せられた瞼、それに影を落とす細やかな睫毛。しっとりとした薄紅色の唇からは微かな吐息が零れ、それにあわせて細い肩が規則正しく上下する。
……たまには息抜きもいいだろう。せっかく、昼寝にはもってこいの一日なのだ。
やわらかい風が彼女のなめらかな頬を撫でた。よい夢をみているのか、その表情は随分としあわせそうだ。
「無防備だなあ……」
呟いて、絹糸のように艶やかな黒髪をすくい、そのまま丸い後頭部へ手を回す。柔らかな体を支えながら覆いかぶさり、その瞼に優しく口付けた。
……さすがに眠る彼女の唇を奪うのは、
「んにゃ……」
膝のうえで大人しくしていた猫がなにか言いたげにこちらを見上げる。月のように光るその双眸を見つめ返しながら、自身の唇に人差し指を当ててそっと微笑んだ。
「いい子だから、静かにしておいてくれよ。俺と君、ふたりだけの秘密だ」
・
そうして、陽が西に傾き始めたころ。吹く風も肌寒くなってきたので、とうとう彼女に声をかけることにした。
「きみ。そろそろ起きろ、風邪をひいてしまうかもしれない」
最初こそ寝ぼけ眼で「ううん……」とふわふわした言葉を零していた彼女は、その目に夕暮れに染まった世界を映すとハッとして「書類!」と声を弾かせた。
俺の隣に礼儀正しく座っていた猫が、驚きに尻尾を立ち上げる。落ち着かせるようにその背を撫でながら、
「今日が締め切りのものかい?」
「ううん、明後日だけど」
「なんだ、それなら明日でもいいじゃないか。きみのことだ、ある程度は終わっているんだろう」
「まあ、そうだけど……」
「今日中にやってしまいたいのなら、俺も手伝うさ。夕餉まではまだ時間もある」
ありがとう、と彼女が微笑んだ。夕陽に照らされたその笑みはいっそう美しく見える。
「……そうだ。この猫、どうしよっか」
と、彼女は膝立ちで猫を覗き込んだ。相変わらず猫の方は彼女を無視し、器用に毛並みを梳いている。
「そうだなぁ……」
呟いた時、廊下を走るぱたぱたという音が聞こえた。視線を向ければ、こちらに向かって駆けてくるいくつかの小さな影と、それに引きずられる影がある。
「ほんとうにねこがいる!」
はずんだ明るい声で言ったのは今剣。その後ろで骨喰が「猫だ」と目を輝かせ、五虎退が「綺麗な黒ですね」と目を細めた。加州が同意する。最後尾、鯰尾に引っ張られていた大きめの影は伽羅坊だった。呆れたように息を吐きながらも、その目に嫌悪感はなく、どこかそわそわと猫を見つめている。
「主、この猫どうするんですか?」
猫と目線を合わすようにしゃがみ、その頬をつつきながら問うた鯰尾に、彼女は「うーん」と頭を捻った。
「いまちょど話してたところだけど。鶴丸に懐いてるし、ここで一緒に暮らすのもありかな」
「へえ、いいじゃん。うちの本丸、いいところだよ。主のおかげでね」
真っ先に同意したのは加州だった。初期刀の誇りがあるのだろう、自慢げに猫に語りかけている。……その主はなぜかこの猫に懐かれてはいないということは、ひとまず黙っておこう。
「ね、きみ。帰る場所は」
大事な話をされていると理解したのか。猫は、今度こそ彼女の問いかけに顔を逸らさなかった。爛々とした月のような瞳で見つめ返し、やがて「にゃあ」とひと鳴きすると、その横を通り過ぎる。そうして、少し離れたところに立つ伽羅坊の足元に体を擦り付けた。
息を吐き、そっと腰をかがめた伽羅坊が右手を差し出す。その指先を軽く舐め、「にゃっ」と短く告げた猫は、まるで一礼をするように頭をさげると、縁側から飛び降りた。たたたっ、と軽やかな足音が遠くへ駆けていく。
「……行っちゃいましたね」
少しだけ寂し気に鯰尾が零した。
「ああ。あの子にも、帰るべき場所があったんだろう」
皆並んで、夕陽に吸い込まれるように小さくなる姿を見つめる。そう、小さくなる姿を……、ん?
「……おい、だが戻って来ていないか」
伽羅坊の言う通り。途中で立ち止まり方向を変えた猫は、何を思ったか、今度はこちらへぐんぐんと近づいてきた。そうして。
「え」
「あ――」
誰かが、いや、皆だったかもしれない。とにかく、息を呑む音で辺りがざわめいた。
唇に、何かが当たる感触。目前には、宝石みたいに輝く金色。
「あー!!」
呆然と。ただただ驚いて悲鳴をあげることしかできない俺たちを前に、「にゃ!」と無邪気に笑った猫は、ちらりと主の様子を伺うような視線を向けてから、今度こそ、その姿を夕陽の向こうへと消した。
「こいつは驚きだな……」
そっと唇に手を当てて放心する俺を横目に、「馬鹿め……」と伽羅坊が呟いた。ちょっと待て、馬鹿とはなんだ。が、それを聞くより先に、
「あ、俺そろそろ夕飯の手伝いにいかなきゃ……」
「お、俺も!」
「待て兄弟、俺も行く」
「ええと、ぼくはせんたくものをとりこみに……、ごこたいもいきましょう」
「は、はい……」
と、各々気まずそうな言葉を残して去っていく。
「? それじゃあ俺たちも……っと、うわっ」
突然、腕の中に彼女が飛び込んできた。そうしてぐりぐりと頭を押し付ける彼女に、「本当に、今日はどうしたんだ」問いかけても、やはり返事はない。
仕方なくその背中をさすると、彼女も俺の背へと腕を回し、その力がにわかに強くなった。
「……なんだ、きみ。まるで猫に妬いているみたいだぞ」
揶揄いのつもりで告げた言葉は、否定されることなく二人の間に吸い込まれた。
彼女は黙ったままで肯定もしない。けれど、沈黙は肯定、とはよく言ったもので。
……まさか、本当に? 心臓が期待で早鐘をうち、それが彼女に聞こえていないか不安で、更にどっ、どっ、と大きな音になってしまう。
「……て」
「ん?」
「――して」
くぐもった声。かろうじて聞き取れた言葉に、ぐるぐると思考を巡らせる。
して? なにを? まさか、猫が俺にしたように、口づけを? 待て待て待て、俺たちはまだ
「いや、きみ、その、なんだ。まだ早いというかだなぁ……!」
「膝枕、して」
「……は?」
三度目にようやく聞こえた言葉に、調子はずれな声が出る。
「膝枕……?」
思わず抱擁を緩めてしまい、その隙に彼女は俺の膝の上に頭を置いて横になった。そしてようやくその表情を確認できたわけだが、おそらく拗ねているのだろう、なんともいじらしい顔である。
……全く。普段こちらが散々構えば「場所を弁えろ」だの「近すぎる」だの避けるくせに。意図しているわけではないだろうが、こうして気まぐれに俺を振り回すから、本当に。
「ずるいなあ、きみは」
唐突な言葉に、不思議そうに瞬きをした彼女は、程なくして「駄目だった?」と少しだけ陰りのある表情で聞いてきた。
ああ、やっぱり分かっていない。このぼやきは、今この瞬間、膝枕をねだったことに対してだけのことじゃないんだぞ。
けれどみなまで言う勇気はまだない。俺はその頬を優しく撫でて「まさか。君に甘えてもらえるのは、光栄なことさ」と微笑むだけだった。