夏の雨酔ひ
ぽつんぽつん。ぽたぽた。
しんみりと耳の奥にしみ込むような雨音に、審神者はそっと身体を起こした。
――眠れない。
小さく息をついて、掛け布団を隅に押しやる。
湿気の多い梅雨の季節、いくら夜着が薄いとはいえ身体はじんわりと汗をかいている。異空間であるはずの本丸が、景趣に合わせて気温だの湿度だのも変わってくることに驚いたのはもう随分前の話だ。風流を楽しみたいとう初期刀である歌仙兼定の言葉と、彼女自身も移りゆく四季が好きだったために毎年現世の四季に合わせて景趣を変えるようにしているが、この季節はやはり少し堪える。
気分転換に外に出ようと、音を立てないように細心の注意を立てながら障子戸を開ける。時刻は丑三つ時を廻っていた。こんな時刻にひとりでうろちょろと、など誰に小言を言われるか分かったものではない。
ぽつん、ぽつん。ぽたぽた。
雨の音は一層強くなった。
じぃ、と闇の中で目を凝らす。暫くすれば目が慣れて、木々の梢を鳴らす雨だとか、雫が落ち入って揺らめく水面だとかが見て取れるようになった。
その状態で、審神者はゆっくりと歩みを進める。なるべく灯はつけたくない。刀の神様である彼らは光、音、匂い、いかなる刺激に対しても敏感なのだ。こうして彼女が夜な夜な抜け出していることに既に気付いている者がいてもおかしくはないほどに。
ひたひた、ひたひた。
滑るように廊下を歩き、近侍室の前、次いで広間の前を通ったその先で。
あ、と彼女の口は小さな小さな音を紡ぐ。それは本当に声と言えぬほどの、それこそ吐く息に隠れるほどの小さな音で、しかしそこにいる神様の耳はそれを捉えたらしく彼はゆるりと振り返る。
「……主さんどうしたんですか、こんな夜中に」
誰かに見つかっては小言を言われますよ、と冗談めいた声音だが、彼の表情をはっきり見ることは彼女にはできない。
「……そういう堀川こそ、何をしているの?」
質問に質問で返した審神者に、堀川国広は小さく笑い声を漏らす。
――特に何も。
紡がれた言葉は真実か、彼女を近づけまいとする拒絶の意か。
よくよく見れば、堀川の傍には徳利とお猪口が置かれていた。ひとりで飲んでいたというのだろうか。月も星も見えない、こんな雨の寂しい夜の中で。
いつまで経っても動こうとしない審神者に痺れを切らしたのだろう、彼はゆっくりと口を開く。
戻らないんですか。
戻りません。
間髪いれずの返答に、堀川は僅かにたじろいだ。はあ、と長めの息をつき、それならばと緩く手招きをする。
「どうぞ」
「……どうも」
指し示された堀川の隣に腰をおろして、審神者はゆっくりとその前方を見た。きっとそこには鮮やかな紫陽花が雨に打たれてしなやかに揺れているのだろう。残念ながら人である彼女の瞳にはそこに紫陽花が在る、ということまでしか認識できないけれど。そういえばここからは池も見えるはずだった。遠くに位置するそれはやはり審神者には見えないが、水面で跳ねるような雨音が絶えず響いている。隣の神様には見えているのだろうかと視線を動かすのと、彼が審神者の方を見るのはほぼ同時だった。暗闇の中であるにも関わらず光るような
「主さんもどうですか」
見れば彼は徳利を掲げてお猪口を差し出している。困惑。視線をお猪口を持つ彼の手から彼の瞳へ、そうしてまた彼の手へ。数度それを繰り返してから、彼女はようやくそれを受け取った。堀川は満足げに微笑む。
とくとくと酒が注がれて、特有の香りが広がった。くい、と一思いに口に含めばすっきりとした端麗な淡い味が舌に乗る。
「はい」
飲み終わった審神者に彼は徳利を手渡す。咄嗟に受け取ったものの意味が分からず目を数度瞬きさせた彼女に、堀川は自分のお猪口を見せた。
「いいでしょう、お酌ぐらいしてくれても」
「あ……、はい」
彼女は気づいていなかったが、堀川は自分の傍にふたつのお猪口を置いていたのだ。自分が使うものともうひとつ、誰かのための酒器。いや、そこに誰かいると思うための酒器。
とくとくと酒を注いで、彼女はどうぞと小さく声にする。人生でお酌をするのは初めてだった。成人前から審神者になり本丸暮らしを続けていた彼女にとって、誰かのために酒を注ぐという行為は特に必要のないものだったのだ。会社の飲み会で上司に労うということは当然なく、ここの本丸の刀剣男士達は勝手に自分たちで酒を飲み勝手に宴会を始める。誰も審神者にお酌の要求をすることはない。それ故にそのお酌は何ともまあたどたどしいものであったのだが、堀川は小さく笑うと「どうも」と酒を口にする。
ひどく不思議な空間だった。恋仲でもない男性と――いや、正確には刀の付喪神様ではあるが、見た目だけならば彼女よりも年下に見える男性と――、雨音に耳を傾けて言葉を交わさず、こんな夜中に酒を交わすというのは。
するりと動いた堀川の手が彼女の指に触れる。あ、と思う間もなくまるで逃がさまいというように絡まる指。伝わる熱に呼応して心臓が鳴る、ああ五月蠅い、どうか雨音が掻き消してくれているようにと願って。
「……酔ってるの?」
馬鹿げた質問だった。大して強くもないお酒、加えてたかが徳利ひとつで彼が酔うはずがない、が――。
「……酔ってます」
たっぷりの間のあとそう応えた堀川は、恋人がするそれのように審神者の方にしなだれた。
「……だからこれは酒の席の戯れ事で。貴方も僕も酔っていて、夜が明けて雨が止む頃にはふたりとも忘れてしまってます」
どこか憂いを含んだ声と寂し気な雨の旋律が重なる。雨粒を乗せて霞んだ風景の輪郭と、包み込むような暗闇の優しさはふたりに世界から切り離されているような錯覚を起こす。
きっとこんな哀しい雨音がするから。夜が泣いているから。だから少し弱気になっただけだと、全てをこの夏の雨のせいにして、堀川はぽつりぽつりと言葉を零す。
「……僕はいつになったら、あの人に追いつけるんだろう」
それは確かに問いかけだったが、彼が答えを望んでいるわけではないということを審神者は分かっていた。ただただ、彼の
雨は未だ降り続ける。
風通しの良い縁側は部屋に比べて随分と寒く、それを理由に審神者の方からも堀川に身を委ねた。唇の端を持ち上げて、彼が小さく笑う。さらりと梳き易そうな髪が首筋に当たって、それがくすぐったくも心地よい。
「相棒だなんだといっても、僕は、まだ」
本丸の雑用を幾つこなしたところで、それが本当に求めているものとかけ離れていることは知っていた。ただ純粋に、強くなりたい。早く彼に追いつきたい。彼の隣に立っても恥じない自分でありたい。僕は、僕も、あんな風に。
堀川の瞳に、今は見えるはずのない浅葱の羽織が、大きく舞うのが映る。
「……僕も早く、修行に行きたいよ」
零れた言葉は、本音。政府から脇差の修行はまだ認められておらず、それを告げたところでどうなるわけではないと知っていたけれど。強く逞しくなって帰ってきた短刀達を思えば、そう口にせずにはいられなかった。
ただ、その言葉の裏に隠れたもうひとつの本音を感じ取って、審神者はまだ何も言わない。そっと頬を寄せれば、堀川は僅かに身じろぎし、そして薄く笑う。
「でも、本当は怖いんだ。修行に行ったところで強くなれないかもしれない、折れるかもしれない。結局僕は、ひとりで戦うのは怖い。強くなりたい、でも怖いなんて、ただの弱虫だ」
淡い夕闇の中、絹糸のような雨はまだ降り続く。
「……堀川だけじゃないよ。私も、怖い」
ようやく告げた審神者の言葉の意味が分からずに、堀川は小さく息を呑んで頭を起こした。微かな、穏やかな温もりが離れる。
「怖い?」
「うん。貴方たちをひとりで修行に送り出すことも、強くなって帰ってきた貴方たちに私が必要じゃなくなるかもしれないということも」
そんなの、喉元まで込み上げた否定の言葉を、堀川は何とか押しとどめた。主が必要なくなるなんてありはしないと思うのに、けれど未来のことは誰にも分からないのだから彼女に無責任な言葉を投げかけるわけにはいかない。
「……それでも、送り出すんだ」
「だって、私の刀だから」
見開いた鮮やかな水色の瞳には、穏やかな表情の審神者が映る。
――貴方たちはみんな、優しくて強い私の刀だから。例えいつか私が必要となくなっても、きっとどこかでは繋がっていると思えるから。共に過ごした日々が、心と記憶にある限り。
「だから、堀川」
するりとその頬を彼女の白い手が包み込んだ。
「ひとりじゃないよ。貴方の後ろには、この本丸のみんながついているんだから」
……温かい。
口の中だけで呟いた堀川の眉が、今にも泣きそうなのを耐えるように歪んだ。唇を一文字に結んで、小さく俯きながら彼は審神者の手に自身の手を触れさせる。その手は僅かに震えていた。
「……大丈夫って、言って」
「……大丈夫だよ」
「……もう一度」
子供をあやすみたいに繰り返される大丈夫という言葉に安堵して彼は小さく息を吐いて。もう一度、とその言葉と同時に紡がれる彼女の言葉を呑み込むように、その柔い桜色の唇に口づけた。響くのはふたりを包み込むような優しい雨音だけ。
何が起こったのか分からずにただただ目を見開いた審神者に、堀川は気の抜けた表情で微笑んだ。
「……言霊、貰っちゃいました。主さんの言葉なら、本当に効力がありそうですね」
徐々に闇の中でもそうと分かる程に顔を朱に染め上げる彼女を楽しそうに眺めて、堀川はもう一度顔を近づける。ハッとした審神者は慌てて抵抗の意を示して彼の肩を両手で押しのけようと力を込めた。
「これも、酒の席の戯れ事?」
きょとんとした顔で動きを止める堀川だったが、やがてその唇はゆっくりと弧を描く。
「主さんが、そう思うなら」
「……狡い」
「はは」
小さく笑って、彼は徳利とお猪口を手にすると腰をあげた。
「そろそろ戻ろう。思いのほか長く飲んだからいい加減眠いし、主さんも明日のんびりできるってわけじゃないですよね?」
はぐらかされてしまったと思いつつも、堀川の発言は最もで彼女は頷いて立ち上がる。酒のせいで少し気分が良いのか、堀川はにこやかに審神者を部屋の前まで送り届けた。
「じゃあ主さん、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
一言だけ交わし、すぐに彼は背を向ける。
(あ――)
その背を見届けて、彼女はそっと目を見開く。
何故だろう、彼の背で、浅葱の羽織が舞うのが確かに視えた気がした。
ぽつん。
気づけば雨は止んでいて、東の空はゆっくりと白み明るさを増している――。
2016
堀川くんの極実装前に書いた話でした。堀川くんも、彼に負けないくらい強くてかっこいい、そんな思いを込めて。