冬を手折る



 冬が居る。
 はじめて彼の背中を見つけた時、そう思った。
 華やかな存在感があった訳ではない。それでもその姿は視界の中でくっきりと浮かんで見えて、わたしは引き寄せられるように男の元へ近づいた。
 男の向かい側には、負傷者が三人、壁にもたれかかっていた。微かにその喉元が動いている。殺せてないじゃん、と呆れながら眺めていると、彼の両手が布を押し当てていることに気がつく。……は?こいつ、手当てしてんの?暗殺訓練中に?
 珍獣でも見るような視線を送っていると、「……何?」とうとう、男が振り向いた。その声音は刺々しい。
 負けじと口をへの字・・・にして、「何、はこっちの台詞なんだけど」虫の息の男どもに人差し指を向ける。

「誰、それ。JCCの同期?見たことない奴らだけど」
「同期じゃない」
「うん、そうだよね。殺し屋だよね〜。で、何手当てなんかしてんの?馬鹿?」
「ターゲットの奴でもない。無駄な殺しはやめるべきだ」
「無駄な殺しって……。じゃあ逆に意味のある殺しって何?殺しに善悪があると思う?」
「どんな殺しも悪に決まってる。減らすに越したことはない」

 あまりの衝撃に、開いた口が塞がらない。反論すらできなかった。『殺しは全て悪』そんなもの、殺しとは無縁の生活を送っている人間たちだけの思考だ。この世界では異質。異端。
 妙に惹かれたと思ったが勘違いだったらしい。こんな腑抜けに用などあるか。これっぽっちもタイプじゃない。そう結論づけ、煙草を取り出して視線を落とす。刹那、彼の頭上に影が見えた。別の殺し屋だ。わたしは何も言わず、一切動かず、安っぽいライターで煙草に炎をつける。ぼんやりと眺めた視界の中で、白銀の男は一瞬動いて。
 胸元から血を流して倒れたのは、彼を狙った殺し屋の方だった。肺いっぱいに吸い込んだ煙をゆっくりと吐きながら、わたしは感心したように声をかける。

「なんだ、ちゃんと殺せるんじゃん」
「こいつはターゲットだった」
「今の殺しも悪?」
「そうだ」

 煙草の灰を落としながら、転がった死体を眺める。綺麗な切り口だった。あの動きといい、殺しの才能があるのは明白だ。

「……非情だね」

 呟いた声は、吹き抜けた突風に攫われる。
 ――非情。何が?世の中が。或いは、神様とやらが存在するのならその神様が。よりにもよってこんな殺しに向いていない青年にその才能を贈るなんて。同情と、微かな好奇心。じわじわと浮かび上がった感情に逆らえず、「あんた、名前なんて言うの?」気づけばそう尋ねていた。

「有月憬」

 雪によく似た髪がふわりと靡いた。前髪の隙間から、真冬の湖畔のように澄んだ碧色が覗く。よく見ると鼻筋も通っていた。異性から人気がある男といえば同期の南雲くんや坂本くんが真っ先に浮かぶけれど、持って生まれた素質だけならば十分勝負はできる整い具合だ。ただ、醸し出す雰囲気は仄暗い。それから、

「……有月くん。なんか、わたしの実家の犬に似てる気がする」
「は?」

 あからさまに眉を寄せた彼にくつくつと笑って。「機会があったらまたね」などと手を振って、その場をあとにする。
 あの可哀そうな異端児は、この世界でどこまで生き残れるのだろう。才能はともかくあんな考えのまま生きていけるのか――、まず無理に違いない。
 そんな風に思っていたら、後日の訓練でペアになるのだから偶然というものは恐ろしい。その日も暗殺の実践訓練で、彼は相変わらずターゲット以外を殺そうとすると止めてきた。正直言って面倒だ。面倒だけど、わたしが言われた通りに止めると、彼の纏う雰囲気は少しだけ柔らかくなる。鈍色の雲に覆われた冬の日に、あたたかなお日様が顔を出したようなよろこびを向けてくる。それに、少しずつ絆されている自分が確かにいる。

「有月、見っけ」
「……」

 均一に刈り込まれた芝生にごろりと寝転がっている男に声をかける。日除けのように顔に被せていた暗殺科の教科書を取り払うと、青い瞳が眩しそうに細められた。

「もう昼休みだよ。ご飯食べに行こ」
「面倒くさい」
「食事を面倒くさがるなってば。ほら起きて」
「いい」
「JCC丼しか当てらんないならわたしが代わりに撃ったげるから」
「……」

 その評価は不服だったのだろう。不機嫌な表情を隠そうともせず、有月は体を起こす。無言ですたすたと歩く彼の後ろを鼻歌まじりについていって。お互いカツカレーとオムライスを頬張りながら、お昼を過ごす。
 その内、放課後も行動を共にすることが増えた。彼は大抵、敷地内の人目につかないところにいて、野良猫や鳩なんかと戯れている。今日だって、彼の足元には猫が甘えるように擦り寄っていた。

「よく懐かれてるね」
「そうかな」
「そうでしょ。だって見てよ、わたしが手出したらコレだよ」

 威嚇のように口を開け、猫はわたしの手を払い除ける。地味に痛い。地味に傷つく。
 溜息をつくわたしに、有月は少し困ったような表情をして身を寄せた。彼なりに慰めようとしているらしい。大型犬みたいだ。首筋にふわふわの髪が触れて、気持ちがいいような擽ったいような。

「有月は優しいから、動物が寄ってくるのかな」

 返事はなかった。ちらりと視線を向けると、美しい碧色が瞼の裏側に隠れていた。どうやら眠ってしまったらしい。
 遊んでとでも言いたげに鳴いたり軽く引っ掻いたりしている猫に、「しぃ」とお願いをする。唇に人差し指を重ねたわたしを見上げた猫は、拗ねたような顔でその場で体を丸くした。
 風が木の葉を揺らす音と、彼の寝息だけが聞こえる。有月の隣はあたたかい。真綿の中で息をするみたいなぬくもりがあって、深い眠りにつくまえの微睡によく似ている。

 暫くして、有月は夜中に部屋を訪れるようになった。寝付けないのだと、縋るように零していた。JCCは世間から隔離された孤島にあって娯楽施設もろくにない。長い夜の時間をひとりで消費する方法を見つけられなかったのだと思う。
 意外に筋肉のついた背中に腕を回すと、不意に彼の力が強くなり、二人してベッドにもつれ込んだ。少しかさついた唇がわたしの口を塞ぐ。骨ばった手が肌をなぞる。嫌ではなかった。だから、ひとつも抵抗せずにその熱を受け止めた。
 滲んだ視界の中で、雪のような銀色が淡く光って見える。冬が居る。そう思うのは二度目だった。柔らかくて、冷たくて、やさしくて、もの哀しい冬に、彼はよく似ている。

 恋人というにはあまりに惰性的な関係に浸っていたある日、一段と胸騒ぎがして寝付けないことがあった。雨と風の強い日だった。簡素な机の上で銃を組み立て直していたら、扉を叩く音がする。
 おそるおそるドアを開けると、海で泳いできたかのようにびしょ濡れになった有月がいた。「どうしたの」慌てて腕を引き、部屋の中に入れて。扉が自然に閉まりきるのとほぼ同時に、有月はわたしの体を強い力で抱きすくめた。
 耳元で、有月の唇が震える。彼はたった一言、殺した、と告げた。
 鈍器で頭を殴られたような衝撃が走ったのは、直感的に、誰を殺したのか、何をしたのかが分かったからだと思う。その一瞬だけは、まるで有月と同じ脳を共有しているかのように、彼の伝えようとしていることが理解できた。

「大丈夫。大丈夫だから」

 子どもをあやすみたいな口調で、根拠もなく繰り返す。
 そうしたら不意に、腕の中の有月が背中を伸ばした。違和感に襲われる。距離を取ってその顔を見上げると、彼はあの青い瞳を細めてにっこりと笑っていた。

「そうだね、大丈夫だ」

 ゾッとした。
 これは、誰?
 化け物でも見たかのような目をしていたのか、有月の方が「どうしたの、大丈夫?」そう問いかけてくる。気遣うような声音がどこまでも優しい。それが、尚のこと背中を冷たくさせる。

「……あんた、誰?」

 震えた問いかけに、男はきょとんとして。

「有月だよ。よく知ってるだろ」

 違う、違う、違う。
 有月はこんな風に表情を豊かに変えたりしない。人を殺してあんな笑顔を浮かべたりしない。こんな風にはっきりと喋らないし、こんな風に背筋を伸ばして歩かない。
 声も、顔も、筋肉のつきかたひとつとっても、何もかも同じなのに。纏う雰囲気が全くの別人で、だったらあの有月はどこに――。
 相変わらずこちらに穏やかな笑みを向ける男の目元に色濃い隈があるのを見る。それで、唐突に理解した。理解せざるを得なかった。
 ――だってわたし、違和感はずっともっていた。
 少し痩せた体、隈の濃くなった目元。何か思いつめているんじゃないかと勘繰りながらも、何もしなかった。真綿で首を絞められるような優しい時間に浸かるだけで、何も。
 どんな殺しも悪だと言い切った有月のことを思い出す。異質だ、こんな世界では生き残れない、そう思ったのは他でもないわたし自身だった。連れ出せば良かったのだ。透明な殺意に徹することを教訓として掲げる、こんな監獄から。無理矢理にでも、引き摺り出せば良かった。有月が、この世界に呑み込まれてしまう前に。かわいそうなくらいに優しかったあの人格を、暗い海底に沈めてしまう前に。
 不意に、男の指が目尻をなぞった。「泣かないで」どうやら涙を拭ってくれたらしい。指の形も、感触も、温もりも。やっぱり有月のもので、それが哀しいのか嬉しいのか分からない。
 彼は、JCCを辞めると告げた。ここを出て仲間を募り、殺し屋界を変えるのだと。それから、わたしに一緒に来てほしいと。
 またたきをひとつして、目を開く。何もかも変わった有月が、それでもわたしを求めてくれている。その事実が泣きたくなるほど嬉しかった。わたしは、馬鹿で、愚かで、迂拙だ。だから。

「……うん。一緒に行くよ。ずっとそばにいる」

 その体躯を力一杯に抱き締めて。そう約束するくらいしか、できなかった。



 カーテンの隙間から覗き込む朝陽が軽やかに輝いている。窓辺に飾った花瓶に水をあげていると、不意に背後から抱きすくめられた。

「おはよう。今日は早いね」
「……おはよう。いつも君の方が先に起きてしまう……」

 掠れた声で返した彼は拗ねたような口調で「勝手に抜け出さないでって言ってるのに」と続けた。
 ごめんね、と真っ白な髪を撫でる。雪のようにふわふわしているそれは、出会った頃からちっとも変わらない。
 撫でられて気持ちが良いのか、彼は甘えるように身を寄せた。懐かしい思い出が蘇るような、やさしくてどこか物憂げな香りが風に乗る。
 黙ったまま彼の体を撫でていると、不意に「実家の犬を思い出す?」と尋ねられた。思わず手を止める。

「あれ、昔そう言わなかったっけ。実家の犬に似てるって」
「……そうだね、言った」

 その印象は、出会ってすぐに彼に伝えたもの。本人が昔のことはあまり思い出したくないと今の仲間に告げていたから、思い出話なんかは意図的に避けているのに、まさか彼からその話を振られることになるとは。どこまで話を広げていいのだろうと悩んでいると、頬に生温い感触が当たった。

「ちょっと」
「うん?犬らしく振舞ってみようかと思って」
「あ、こら」

 愉快そうに喉を鳴らした彼が、頬や耳朶、首筋を舐めあげる。短く息を吐くと、彼の目が何かを求めるようにわたしを見つめた。

「……朝っぱらから、遠回しに」
「別に俺はしたいことしてるだけだよ」

 穏やかに言った彼は、もうすっかり力の入らなくなったわたしの体を持ち上げてベッドに沈めた。柔らかな唇が重ねられる。昔はもっとかさついていたのにな、と懐かしんでいると、「最近はちゃんとしてるだろ」と彼は少し自慢げに語った。

「君とこういうことするからね。痛いのは嫌かなって」

 彼の手が肌に触れる。人を殺している手とは思えない穏やかさだ。昔はもう少し自分勝手で粗野だった。

「……わたしは、かさついてるのも好きだよ」

 真横にいる彼の唇へ、徐に手を伸ばす。一瞬目を見開いた彼は、けれどすぐにいつものにこやかな表情を浮かべて「そう?でも俺はこっちのがいいなあ」十分に保湿された唇を動かしてそう言った。
 わたしを抱き締める腕は震えていない。彼の手はもう、人を殺したからといって怯えたりしない。それはきっと良いことだと思う。この世界で生きていくために当たり前にしなければいけなかった非情さだ。透明な殺意に徹せよという、あの教訓の象徴がここに在って、わたしはそんな彼を愛おしく思うし彼の望みが叶うことを心の底から祈っている。
 ただ時折、あの頃の有月に会いたくなることがある。殺しは悪だと言い切った異端児。他人に笑顔を向けることなどなかった根暗。そのくせ訓練中に見知らぬ人間を助けようとしていた馬鹿。わたしに雑な手で触れた男。けれど最後は目一杯やさしく、かさついた唇で壊れ物を扱うみたいに愛してくれた男。仄暗くてもの哀しい雰囲気の中から時折顔を覗かせるやさしさが、まるで冬のようだった彼。
 その彼に、もう一度、なんて。彼が壊れていく様子をただ眺めるだけだった、わたしが願えたことではないのだろうけれど。


2023



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