たゆたえば、春
十五のときと十六のとき、縁談が立て続けに破談になり、紆余曲折の末に家を出ることになった。一族の末端とはいえ武家の娘、狭い世界で囲われ生きていた女にひとり旅は過酷ではあったけれど、わたしは運よく、流れ着いた先にあった忍術学園に事務員として住み込みで働くことになる。
そこからの一年は、あっというまだった。
「先生ー! 伊作が穴に落ちました!」
医務室の整理をしていると、突き抜けるような大きな声とともに扉が開かれた。振り返ると、わたしの胸元ほどまでしか背丈のない少年が立っている。
一年生の食満留三郎くんと、その後ろに、善法寺伊作くん。
留三郎くんに手を引かれる伊作くんは、体中泥だらけで腕と膝に擦り傷があって、おでこの上の方は赤く腫れ上がり、おまけに亜麻色の髪には鳥の糞らしきものがついていた。目の端に涙が浮かんでいるのも納得の惨事だ。思わず、「あらら……」と声が零れる。えらく不運な目にあってしまって。
「学校医の新野先生は今日お休みなんだよねえ。代わりにわたしが見るから……。お水汲んでくるね、部屋の中でちょっと待ってて」
こっくりと頷いた二人の横を通り過ぎて、桶を片手に井戸へと向かう。
水をたっぷり汲んで戻ると、二人は部屋の中で立ったままだった。床をぽんぽんと叩いて示しながら「伊作くん、こっち。座ってくれる?」安心させるみたいに話しかけると、彼はおずおずと近づいて腰を下ろした。
「先、頭拭いちゃうね」
「はい」
濡れたタオルで、とりあえず髪の汚れを落として……。頬についていた泥なんかも拭う。幸いにも頭から血は出ていないし、強くぶつけた形跡もない。骨折などの大きな怪我もなさそうだ。
傷口は水でゆすいで、消毒をして、包帯を巻いて、腫れたおでこは冷やして……。てきぱきと手当てをするわたしを、二人は感心したように見つめている。
「先生、上手ですね」
「これでも保健委員会の副顧問だからね。……はい、できた。あとは……、痛いの痛いの、とんでいけーっと」
擦り傷が一番ひどい膝に手を当てて紡いだわたしに、留三郎くんも伊作くんも不思議そうに目を瞬いた。
「先生、今のなんですか」
「ふふ。おまじない。早くよくなりますようにって」
「おまじない」
きょとんと繰り返す彼らに笑って、もう一度「痛いの痛いの、とんでいけ」と呟く。
「おまじない」は、わたしが小さいころ、母がよくしてくれていたものだった。躓いて転んでビービー泣き喚いていたら、母は必ずこうやってわたしを落ち着かせてくれたのだ。母の穏やかで丸い声と、優しい表情と、触れてくれた手の温もりは、彼女が流行り病で亡くなったあともいつまでも覚えていて……。まあ、忍者のたまごである伊作くんは、かつてのわたしみたいに大声で泣き喚いているわけじゃないから、いらないお世話だったかもしれないけれど。
それでも、伊作くんは最後に「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んだ。去っていく二人の小さな背中を、わたしは手を振って見送る。
・
「先生、おはようございます」
数日後。学園内で落ち葉の掃き掃除をしていると、重なったふたつの声に呼ばれて振り返った。予想通りに、留三郎くんと伊作くん。「はぁい。おはようございます」にっこりと返して、伊作くんの容態を確認する。腕と膝の怪我は服に隠れて見えないけれど、おでこの腫れはかなり引いているように思われる。
しゃがみこんで、「おでこ、だいぶ落ち着いたかな」そっと髪を掬いあげたら、伊作くんの顔はわかりやすく赤く染まってしまった。あれ、もしかしてこれは……。と、内心勘繰りながらも、表にはおくびにも出さない。にこにこと笑ったまま、「またなにかあったら新野先生に言うんだよ」と告げる。
留三郎くんが、何かを訴えるみたいに伊作くんの腕を小突いた。顔を俯かせた伊作くんは、しばらくもじもじとしていたのだけれど……、とうとう、意を決したように上目遣いでこちらを見て、「あのね、先生」とわたしを呼ぶ。
「うん。なあに?」
「……っ、これ……!」
目をぎゅっと閉じながら。懸命に発した伊作くんが、後ろ手に持っていた花を差し出した。薄紫色のかわいらしい花びら――スミレだった。
「これ、わたしに? もらっていいの?」
こくこくと頷いた伊作くんが、「この間の、手当てのお礼に」と、精一杯の言葉を紡ぐ。「そっかぁ」とわたしは頷いて、その花を受け取った。
「……ありがとう。大事にするねえ」
にっこり笑い、頭巾を被ってまるっこくなった頭を撫でる。伊作くんは顔をいっそう朱に染めると、ぺこりと頭を下げて背を向けた。その後ろを、留三郎くんが跳ねるようについていって、「よかったな!」とはしゃいでいる。
スミレは小さな水差しに飾り、事務室にある自分の机へ置いた。窓から差し込む初夏の日差しはまだ柔らかい。その日差しを受けて可憐にきらめく様子がやけに眩しかった。
「それ、どうしたんだ?」
「土井先生」
ふと声をかけられて顔を上げる。事務員の誰かに用事でもあったのか、書類を片手にした土居先生は、不思議そうに机の上の水差しを見つめていた。
わたしは「伊作くんからもらっちゃいました」とはにかんだ。
「伊作が。それは、また……」
「また?」
「いや。……初恋泥棒だな、と」
真面目な顔で見つめられ、わたしは「アハ」と苦笑いした。伊作くんの反応を見た時に、自分でも「もしかして」と思いついたことではあったけれど、ひとから言われると急に現実味を帯びるというか。
「子どもって、最初は年上のひとを好きになりがちですよね。わたしの初恋も学校の先生だったし……。こう、憧れと好意が、ごっちゃになるというか」
「それは、たしかに」
「きっと土井先生も、いろんなひとの初恋を奪うんでしょうねえ」
独り言には大きい声で呟くと、今度は土井先生が苦笑する番だった。
わたしはもう一度、スミレに視線を戻す。手を伸ばし、控えめな紫色を指先で弄ぶ。「生徒からなにかをもらったのは、はじめてです」ひっそりした呟きに、土井先生は耳を傾けてくれているようだった。
「慕われるのは嬉しいもんですね。幼さゆえの、勘違いからきた好意だとしても」
わたしの言葉に、土井先生は薄く笑った。
伊作くんは、あと数年もしたら――いや、しないうちかもしれないけれど――とにかく近いうちに、年の近い子に恋をして、わたしへの感情との差異に気づくことだろう。幼さゆえの微妙な勘違いを知るだろう。だからその日まで、先生として、大人として、それなりに応じつづければいい。
それからの伊作くんは、頻繁にわたしの元へ来るようになった。
「先生! あの、包帯の巻き方、教えてくれませんか」
「いいよ。手当てのお勉強? えらいね、伊作くん」
「先生。山で花をつんできたので、その、よかったら……!」
「撫子だ。もらっていいの? ありがとう」
「先生、見てください! 雪でうさぎをつくりました」
「あは、かわいい。わたしもつくろうかな」
三年生までの彼は、まだわたしよりも背が少し低く、あどけなさがあって、だからこそわたしも神経質に心配するようなことはなかった。まだ十二歳。まだ子ども。そう、言い聞かせていた。
けれど、四年生になると、徐々に変わっていく。いつのまにかわたしの背丈に追いついた彼は、昔と変わらない優しい顔つきながら無邪気な幼さはなりを潜めて、ふと大人びた表情を見せる瞬間まであった。そして、わたしと話すときもあからさまに緊張することはなくなって、それが、わたしへの恋愛的な好意を失ったからならよかったのだけれど。彼はあいかわらずわたしに頻繁に会いに来ては、たしかな甘さを含んだ声で話しかける。
これはちょっとまずい気がして、一度態度を改めなければと思っていたところに、四年生になった伊作くんたちの学外実習の話が転がり込んできた。出発の前日、予想通りに伊作くんはわたしの元までやってきて、「お土産、なにがいいですか」と聞いてきた。
「……いいよ。みんなが無事に帰ってきてくれれば、先生はなんにもいりません」
普段よりも幾分か硬く、先生として最もらしい返事をしたわたしに、伊作くんはちょっと驚いた顔をした。けれどほどなくして、物分かり良く「わかりました」と頷き、実習に向かったのだけれど――。
「先生! 南蛮の方から金平糖をいただいて……、よければ食べませんか?」
帰ってくるや否や、彼は事務室へとやってきて、小さな包みを差し出した。「お土産はいいって言ったでしょう」と断れなかったのは、彼がほかの事務員や先生へも一粒ずつ渡したからだ。わたしだけ断るのもおかしな話で、結局「ありがとう」と受け取り、口の中に放り込むことになる。
(……うわ、美味し)
じんわりと優しい甘さが広がる。甘味好きにはたまらない味だ。感動していると、「美味しいですか」と伊作くんが笑っていた。……そうとう顔に出ていたのかもしれない。誤魔化すように咳払いをひとつして、けれど素直に「おいしい」と伝えると、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「よかった。先生、きっと好きだろうなって思ったんです」
ちくしょう、そのとおりだ。なんだか妙に悔しくなる。
「それじゃあ、失礼します!」
機嫌よく事務室を後にする伊作くんを見つめる。昔はあんなに小さかった背中が、今ではずいぶん広くて大きくなった。
舌の上で転がしていた金平糖がほどけるように溶けた。
「……甘い」
小さなつぶやきを、こくりと飲み込む。
・
五年生になっても、伊作くんはまだ一途にわたしを想い続けてくれているみたいだった。暇があれば会いに来る。山に行けば花を摘んでくる。出かけると土産を手にして帰ってくる。もうこの頃には、よほど鈍感な人間を除き、学園内の誰もが伊作くんの気持ちに気づいてるくらいだった。
「……結局、伊作は、お前以外を好きにならなかったなぁ」
一日の授業を終えたあと、事務室にやってきた土井先生は、部屋の中にわたししかいないことを確認したうえで呟いた。彼の視線は、わたしの机に飾られた鮮やかに赤い椿へと注がれている。この椿も伊作くんからの贈り物だ。山で見つけたという彼が、頭に雪を積もらせたままにわたしの元へ届けてくれたのは昨日のこと。
「……あと一年ありますもん」
苦し紛れに零した言葉に、土井先生は「無理だろう」と肩を竦めた。あの調子じゃ、六年生になっても変わるはずがない、と。それは薄々、わたし自身も感じていたことではあるけれど。
長い溜息を吐き、「こんな行き遅れのどこがいいんだろう」と零す。土井先生は「行き遅れって」と苦笑した。
「私よりひとつ年下のくせに」
「男の二十四と女の二十三じゃ重みが違うじゃないですか。わたしはもう、結婚の適齢期を大幅に過ぎてまぁす」
「世間一般でそうだとしても、伊作には関係ないみたいだぞ。いいことじゃないか」
「いいことって……。なんかずいぶん肯定的ですけど、いいんですか? もしわたしが彼の気持ちに応えるなんて言ったら、あなたの教え子はこんな年増女に捕まることになるんですよ」
あえて挑発的な声で言ったというのに、土井先生は冷静なままだった。「かまわない」と肯定する彼の表情に穏やかな笑みまで浮かんでいたから、わたしのほうが動揺する羽目になる。
大事なのは伊作の気持ちだし、と彼は続けた。それじゃあ、わたしの気持ちはどうなるの。問いかけようとしたら、「そっちだって嫌いじゃないだろう」と当然のように言われたので押し黙る。
「嫌いじゃない、と、好き、は全然違う」
「花をもらうたびに、そうやって大事に飾るくせに?」
彼の黒い目に、椿の鮮やかな赤が映り込んだ。わたしは瞼を伏せる。
「……断っても、あとで捨てていいからって渡されるんです。土井先生だって、生徒からもらったもの捨てられないでしょう。それだけですよ」
それだけかあ、と、彼が相槌をうった。なんだか含みのある言い方だったけれど、気づかないふりで「それだけです」ともう一度呟く。土井先生は納得がいかない様子で視線を投げてきて、わたしは逃げるように席を立つ。
・
次の年の冬、母の墓参りに行くことにした。家を出て以降一度もできていなかった墓参りにふと行きたくなった理由は自分でもよく分からない。ただ、朝起きてはらはらと降る雪を見つめていると、行かなきゃ、とどうしようもなく思ったのだ。
本来なら去年、十三回忌のときに向かうべきだったかもしれないと思って、すぐに考え直した。家の者と鉢合わせるわけにはいかない。今回だって、もし誰かに会うようなら帰らないと……。
白い息を吐き歩きながら、母が亡くなった日も、こんな風に雪が降っていたと思いだす。病床のふち、小枝のように細くぽっきりと折れてしまいそうな腕を懸命に伸ばしてわたしの頬を撫でてくれる彼女の手はずいぶんと冷えていた。かさついた紫色の唇から紡がれた言葉は、「どうか、すこやかに。しあわせに」権力や富のために家族を利用することしか考えていなかった父と違って、母は最期までわたしの味方だった。病気になる前はなかなかに気の強い女性で、わたしが八つのころに舞い込んだ、二十以上年の離れた幼女趣味の豪商との縁談は「娘は家を繁栄させるための道具じゃありません」と彼女がめちゃくちゃにした。……もしもあのドジョウによく似た男の元に嫁いでいたら、わたしは今ごろどうなっていただろう。
辺りが夕焼けに染まり始め、かなり冷え込んできたので、宿に入ることにした。母も眠る一族の墓がある山は、もうそこに見えていて、明日には墓参りを終えられそうだ。
晩ご飯をいただいて、桶風呂に浸かって体を温めて……。宿の中を移動していたら、「え」と聞き慣れた声がして振り返り、わたしも目を丸くした。
「先生!?」
「伊作くん……!?」
どんな偶然か、忍務の実習中だった伊作くんもこの宿に泊まっていたらしい。とはいえ、部屋は当然別々。特に問題はないと思っていた、のだけれど。
「きゃー!」
町も人もすっかり寝静まった夜分、廊下を突き抜けて悲鳴が届き、わたしは飛び起きる。慌ただしい足音が駆けぬけるなか、悲痛な女性の声が聞こえた。「やめて、娘をかえして!」――人攫い!
部屋の中に武器になりそうなものはない。寝間着を軽く整えて身一つで飛び出したら、少女を抱えた男が廊下を走り去るところだった。傷んだ髪を落ち武者のように振り乱す男は物騒なことに脇差まで持っていて一瞬怯んだけれど、「待て!」すぐに追いかけて階段を降りる。「なんだ、何事だ!」「明かりをつけろ!」あっというまに宿の中は喧騒に包まれた。男は刀を振り回して、机や置物をなぎ倒して進んでいく。子どもが泣き叫び、男の腕に噛みついた。
「ッ」
男は傷みに僅かに顔を歪め、「このガキ……!」と刀を振りかざす。完全に錯乱状態だった。「やめてー!」女性の悲鳴が宿中に響き渡り、子どもは瞬きもせず掲げられた刃を見つめる。わたしは視界の端で、壁際に行商人の天秤棒が置かれているのを見つけ、反射的にそれを掴んだ。男が刀を振り下ろすのと同時に距離を詰め、鍔を受け止め、押し返し、相手がよろけた隙に薙刀の要領で手首を払う。子どもを掴んでいた力が緩み、少女が逃げ出したのを見てほっとするのも束の間、「クソ女……!」「あっ」天秤棒を強く引かれ、耐えきれずに体がよろける。頭上で鈍色の刃が閃いて、(しまった――)突き抜けるような痛みを覚悟する、が。
「ガハッ」
短く呻き声が聞こえたかと思うと、男は膝から崩れ落ちた。その背後から伊作くんが現れる。どうやら気配を消して後ろに回り込んでいたらしい。安堵の息を吐きながら、「ありが――」とう、と続けようとした言葉は途中で途切れた。伊作くんが、ひどく怒った顔で――けれど今にも泣いてしまいそうな顔で、わたしの両腕を強く掴んだから。
「なんで、あんな無茶なこと……っ」
問い詰め寄られて口籠る。「薙刀はやっていたから……」いけるかと思って、とは言えなかった。伊作くんがいなければ、わたしは斬り捨てられているのだから。
「本当に、心臓が止まるかと思いました……。無事でよかった……」
「……うん。ごめん」
縋るように零され、たまらず小さく口を開いた。わたしの腕を掴んだ彼の手は震えている。「ごめん、伊作くん」もう一度繰り返して、その手に触れた。わたしよりも、少し大きなその手に。
人攫いは無事に捕らえられたものの、宿はめちゃくちゃでとても宿泊ができる状態ではなかった。各々近くのほかの宿にお邪魔することになるも、部屋の数には限りがある。そうして。
「すみません……。本当に、絶対、そっち見ませんから」
わたしたちをなぜか姉弟と勘違いした宿の主人から用意された一部屋で、わたしと伊作くんは夜を超えることになった。
布団の上に座り、固い声で宣言する伊作くんは、既にこちらを全く見ようとしない。わたしも背を向けたまま「うん」と返事をして横になった。
決して広い部屋ではない。伊作くんとの距離は、振り返って手を伸ばせば届きそうなくらいに近かった。
暗くて静かな部屋の中で、二人の息遣いだけが聞こえている。なんだか眠れなくて、妙に息がしづらい。
一日だし一緒の部屋でいいでしょ、事情が事情だし仕方ないよ、と言ったのはわたしからだったけれど、もしかしなくてもわたし、けっこう大胆なことをしてしまったんじゃ、と今更ながらに思った。どうしよう。土井先生が見たら怒るかも。いや呆れるかな。
ぐるぐる考えて、でも追い出すことも自分が出て行くこともできないから、じっと息を潜めてきつく目を閉じる。
どのくらい時間が経っただろうか。
「……先生」
静かな空気の間を縫うように伊作くんの呼び声が届き、わたしは「なあに」と返事をする。久しぶりに声を出した気がして、体に入っていた力がゆるりと解けた。
「ここ、先生の地元に近いんですよね」
「うん。そうだね」
「……あの、何しにここへ? もしかして……、その、誰かいい人がいて、会いに来た、とか……」
絞りだすように問いかけられた言葉に、わたしは目を丸くする。伊作くんはすぐに「すみません、変なこと聞いて」と謝った。
なかなか突飛な発想だとおかしくて、わたしはつい笑ってしまった。「いないよ」くすくすと、笑いを含んだ声で返して、「まあ、昔の婚約者なら探せばいるかもしれないけれど」なんて続けてしまう。
「え」
伊作くんの口から驚きの声が漏れ、大きな衣擦れの音と、がばりと人が動く気配がした。体を起こしてこちらを振り向いたに違いなくて、絶対にそっちを見ませんっていう宣言はどうなっちゃったんだろう。わたしは体勢を変えないまま、「昔の話だよ」と言う。
「わたしさ。いろいろあって、人生で三回も縁談が駄目になってるんだよね。まあ婚約者っていっても家の都合であてがわれただけだから、思い入れも何もないんだけど……。でも、もし結婚してたらどうなってたかなって思うことはあるかなぁ」
伊作くんはじっと黙っていたけれど、やがて「もし、先生が」と口を開いた。温かい息が背中にかかるようだった。
「結婚していたら、僕は先生に会えませんでした」
「……うん、そうだね」
「だから、すみません。婚約が駄目になったこと、正直僕は、嬉しいです……」
心底申し訳なさそうに告げる伊作くんの優しさが、なんだかおかしかった。わたしは「そう」となるべく素っ気なく返事をして膝を丸める。振り返ることはできなかった。いま彼の顔を見たら、わたしは、きっと。
・
翌朝、宿を後にすると、伊作くんは「僕は学園に帰るだけですが、先生は?」と尋ねてきた。そういえば、昨夜は結局、わたしが何をしにここに来たかの話はしていないんだった。
薄く笑ったまま、視界の先にある山を見つめ、「母のお墓参りにね」と言うと、彼の目は動揺で微かに揺れた。その形の良い唇から「すみません」と謝罪の言葉が紡がれるより早く、わたしは「来る? 伊作くんも」などと問いかける。
自分でも、どうしてそんな誘いをしたのかは分からなかった。気づいたときには言葉が零れていて、目を丸くした伊作くんがこちらを見つめていた。
「先生が、よければ」
頷いた彼とともに、母が眠る山へと入った。
地面は薄い雪に覆われ、二人分の足跡がくっきりと浮かんでいる。太陽を浴びた木の葉からは雪解け水が滴り落ちているので、もうじきこの雪も解けるだろう。
母の墓は、荒れているとまでは言わないけれど、周囲のお墓と比べるとあまり綺麗ではなかった。わたしのために父や親戚たちに盾突いていた過去があるから、死後もそれなりの扱いをされているのかもしれない。今日まで一度もお参りに来なかった自分のことが途端に恥ずかしくなった。(……ごめんね、お母さん)膝をついて手を合わせると、伊作くんも同じようにしゃがみ込んだ。そこまでしなくてもいいよ、と思ったけれど、彼の横顔がとても真剣に見えたので何も言わず、瞼を伏せて念じる。
長年来なかったことへの謝罪と、忍術学園で事務員として雇っていることの報告。
それらを終え、隣に座る伊作くんを盗み見る。彼のことも母に伝えたほうがいいかもしれない……、でも、なんて紹介したら正解なんだろう。
手を合わせ、(この子は)と頭の中で紡ごうとするけれど、続く言葉はなかなか浮かんでこない。学園の生徒。それだけを言えばいいはずなのに。でも、ほんとうに、ただの生徒?
(……この子は、このひとは、わたしの――)
ようやく顔を上げたとき、伊作くんは既にお祈りを終えていて、穏やかな瞳でわたしを見つめていた。
「先生。何を伝えたんですか?」
「……秘密だよ。そういう伊作くんは?」
「僕も、秘密です」
そっか、と頷いて立ち上がる。お互いに深く詮索するつもりはなかった。
「帰ろっか」
「はい」
柔らかな声で返事をした彼を木漏れ日が照らしていて、やたらと眩しかった。
・
今朝よりも不思議と近く感じる距離感のまま帰路につく。その途中、並び立つ店の前で伊作くんは足を止めた。またお土産でも買うつもりかな、と彼の様子を窺っていると、その視線が華やかな簪に注がれていることに気づき、わたしはすかさず「貰えないよ」と言った。
「う」
ぎくり、と肩を震わせた伊作くんが眉尻を下げてこちらを見る。
「そう……ですよね。さすがに……」
肩を落として溜息を吐く彼に、わたしはもう一度口を開いて。
「……卒業するまでは、貰えない」
「え」
伊作くんが驚きの声をあげる。その目はきっとまん丸に開かれているのだろうけど、彼の視線から逃げるようにそっぽを向いたわたしには確認のしようがなかった。
「わたし、あっちでお茶飲んでるね」
つとめて平静を装って告げて歩き出せば、
「あ、えっと、はい。選んだら、僕も向かいます!」
と、元気な声が背中に届いた。
緋毛繊のかかった縁台に座り、お茶を啜りながらわたしは考える。
……卒業するまで彼がわたしを好きでいてくれるなら、もう逃げるのは諦めようと思う。だって、母のお墓の前で、わたしは彼のことをただの生徒だと伝えられなかった。わたしの気持ちはきっとそこにある。
しばらくすると包みを持った伊作くんが嬉しそうに駆けてきた。ああほら、今だって。「お待たせしました」とはにかむ彼の気持ちが冷めないことを、その簪を受け取る日がくることを、期待している自分がたしかにいる。
隣を歩く伊作くんとの距離がまた近づいていた。道沿いの梅の木の蕾たちはほころびはじめ、今にも花を咲かせそうだ。春は、近い。