ショートケーキはつぶれても、
今年の春はやたらと寒さが長引いて、早咲き桜の開花は例年よりも三週間ほど遅れていたらしい。テレビのお姉さんが「ようやく満開を迎えました」と桜に負けない笑みで伝えて数日、三月も中旬になって日中は暖かくなってきたものの朝晩は冷え込んだ。仕事が終わってすっかり陽が落ちたなか、まだ手放すには惜しいチェックのマフラーを巻き付けて小走りで自宅を目指す。
――急がなきゃ。たぶん今年も、あいつが来てる。
どちらかと言えば新しめで、まあお洒落とも言えなくないアパートのやたらと赤い階段を上り切ったら、そいつはやっぱり玄関前でわたしを待っていた。
南雲、と呼びかけるより先に彼は振り返って(足音を消そうともしてなかったから当然の反応だった)、「遅くない? いつまで仕事してるの」と不満そうな顔を向ける。
「ごめん。早上がりの予定だったんだけど」
「今日くらい休めばよかったのにさ〜」
「この間二人続いていなくなったんだよ。後輩に全部押し付けるわけにはいかないし」
「ふーん」
つまらなそうな彼の返事を流し聞きながら、濃いグレーの玄関戸を開ける。「お邪魔しまーす」角が取れて丸っこい、でもどこか小生意気な声で告げ、勝手知ったる顔で部屋に入る南雲の手には白くて四角い箱の入ったビニール袋が下げられていた。箱の中身はもう知っている。わたしのための、誕生日ケーキ。南雲は毎年、わざわざケーキを買ってきてはわたしの誕生日を祝ってくれる。「今年も無事に生きたね〜」揶揄うように言っては、「よかった」と噛み締めるように零す。
・
南雲がはじめてケーキを持ってきたのは、JCC時代の旧友である坂本が殺連を辞め殺し屋を引退した年だった。坂本はこの界隈で『最強の殺し屋』なんてその名を轟かせていたから、引退の噂もあっというまに広がっていた。ただ、引退の理由は重要な任務で失敗したとか一般人と結婚したとか噂によってばらばらだった。どれも学生時代の彼からは想像できず本当のところはどうなんだろうと気になって、でもJCC卒業後(というか坂本たちは在学中に殺連に就職? したからそれ以降)ぱったりと関係が途絶えていた相手に今更確認することもできなくて悶々と日々を送っていたとき、南雲はふらりと現れた。
「おめでと〜」
彼の第一声は、それだった。
住所を教えた覚えもないのにアパートの前に突然現れた旧友、しかも殺し屋という同業者。動揺と警戒が入り混じり、「なにが?」と小さく零すことしかできなかったわたしに、南雲は「え〜、何その反応……」と口をへの字にした。それから、
「苗字、今日が何の日か忘れたの」
どこか呆れた声で告げ、手に提げていたビニール袋をずいと差し出す。袋の中には白い四角の箱があった。ケーキを入れるやつみたい、と思って、はたと気づく。
「……あれ。わたし今日、誕生日?」
「そうだよ〜。だからほら、お祝いしてあげる」
そうだよ、という肯定の言葉にはどこか呆れが混じっていて、たぶん、なんで自分の誕生日忘れてるの? なんて言葉を呑み込んだんだろうなと察する。
胡散くさいくらいのにこにこした笑みを向ける南雲からケーキだけを強奪してもよかったけれど。わざわざケーキを買ってまで会いに来てくれた旧友を追い返すのは忍びなかったから、「どうも」なんて返事をして南雲を部屋に入れた。
箱の中身は十五センチくらいのホールケーキだった。二人しかいないのに誰がこんなに食べるの? 呆れるわたしの横で、彼は生クリームの上に雑に蝋燭を突き刺す。
「苗字、ライターは?」
「ええ、用意してくれてないの? あったかなぁ……」
「煙草吸ってるんだからないわけないでしょ」
「ちょっと前にやめたんだよ、煙草。彼氏がやたら嫌がったから。……まあもう別れてるけど……」
「うわ、つまんない理由〜」
昔僕がやめなよって言ったときは聞いてくれなかったのに。文句を背中で受け止めながら、棚の奥からライターを探り出し、わざわざ部屋の電気を真っ暗にしてから火をつけた。ケーキはそれっぽく六つに切り分けてみたけれど、結局半分を一人で食べ切らなきゃいけない。甘くて美味しいとにこにこできていたのは最初だけで、そのうち生クリームの多さにうんざりしながらもなんとか胃に押し込んでお皿の上を空にしたあと、南雲は言った。
「来年もお祝いしてあげるよ、苗字」
お酒を飲んでもないのに酔ってんのかな、とか、まあ一年後には忘れてるんだろうな、なんて思っていたけれど。翌年からも南雲は、わたしの誕生日に必ずケーキを持って現れるようになる。
・
「クッションが変わってる」
楕円形のローテーブルにケーキの箱を置いた南雲は、そう言って目をぱちりと瞬かせた。その視線の先には、猫の肉球の形をしたクッションがふたつ。
「あは、かわい〜。前までただの丸いのだったのに」
彼の言うただの丸いクッションは、元カレとお揃いで買ったものだった。特に思い入れはなかったけれどあると便利だからという理由だけで置きっぱなしにしていたそれに、南雲はここにくる度当たり前みたいに腰をおろしていて、それがちょっと面白かった。
「もうだいぶボロくなってから」
「そうだったっけ? でもこれ、ふわふわでいいね」
クッションは白色と黒色がひとつずつ。黒い肉球のうえに南雲は座って、かわいすぎるクッションなのに不思議と似合ってしまう。ふたつ買っといてよかったな、と思いながら「ケーキナイフ取ってくるね」と言うと、南雲は思い出したように「あ」と声を上げた。
「? なあに?」
「ん〜。ナイフ、いらないかも」
「なんで?」
「開けたらわかるよ〜」
怪訝に思いつつも、言われた通り箱を開けて。
「うっわ、なにこれ!」
わたしは悲鳴をあげる。
箱の中のケーキはぐちゃぐちゃで、もはや原型をとどめていなかった。ちょっと崩れました、どころの話じゃない。トッピングの苺は生地から落ちてるどころか潰れてるものもあるし、生クリームは箱中に飛び散ってるし。
「ごめんごめん〜。帰りにちょっと急用ができてさ、崩さないように気をつけるつもりだったんだけど」
急用っていうのはたぶん任務関係。自分の命とたかがケーキを天秤にかけたらそりゃあケーキはこんな目に遭うだろう。ぶんぶん、ぐるぐる、振り回されたであろうケーキに、かわいそう、なんて思う。絶対箱の中で悲鳴あげてたよ。
「形はこんなだけど、口の中入れたら変わらないしね〜」
「それはそう……。じゃあもうフォークでつつくのでいい?」
「うん。あ、蝋燭は? せっかくだし立てる?」
「この崩壊したケーキに蝋燭……」
なんの感動もないよ、と思ったけど南雲がぶすぶす蝋燭を立てるから口を噤んだ。雪崩みたいに崩れた生クリームをカラフルな蝋燭たちが不均衡に彩っていく。
「はい。お誕生日おめでとう、苗字。今年も無事に生きたね〜」
「ん。ありがとう」
南雲と再会してから禁煙をやめて今じゃ必需品に戻ったライターで火をつけ、一思いに吹き消す。ろうが溶けた独特な匂いを吸い込みながら、崩れたケーキを端からフォークで掬っていく。
ふと、学生時代もこんなふうにケーキを食べたことを思い出した。あの時は南雲だけじゃなくて、リオンちゃんと坂本もいた。今とほとんど変わらないこんな感じのわたしの部屋にやってきたリオンちゃんが「名前ー、ハッピーバースデー」と言うや否やわたしめがけてケーキを投げつけて、避けられなかったわたしは顔面でケーキを受け止めることになった。「ぶはは! 顔真っ白!」爆笑するリオンちゃんを睨みながら、「どうするの、これ」と頬に張りついたでろでろのケーキを指差す。リオンちゃんは当たり前みたいに、
「食べるに決まってんだろ。もったいねーじゃん」
と言うから、わたしたちは四人でぐちゃぐちゃに潰れたケーキをつつきあうことになった。
……懐かしいと思うと同時に、寂しかった。リオンちゃんはもういないし、南雲いわく一般人と結婚して今じゃ子どももいるという坂本もこんな物騒な世界には戻ってこないだろう。あんなふうに馬鹿みたいに無邪気な誕生日を送ることはもうなくて、今半ば意地で食べてるあのころと同じ十五センチのホールケーキは、そう遠くないうちにきっと全部食べきれなくなってしまう。
甘ったるいクリームを苺の酸っぱさで誤魔化しながら無理やり胃に押し込んで一息ついていると、カラになった皿をじっと見ていた南雲が口を開いた。
「来年もお祝いさせてね、苗字」
息を呑み、目を丸くした。これまでは「来年もお祝いしてあげる」なんて押しつけがましく笑っていたから、「ハイハイ」と適当に流していたのに。お祝いしてあげる、と、お祝いさせてね、じゃ、言葉のもつ意味が全然違うよ。お祝いさせてねって、それまで生きてねっていうのと同義じゃない? 残念ながらわたしは南雲たちほど強くなくて、任務のたびに今日こそ死ぬかもなって思いながら武器を握っているし、同僚の訃報が届くたびに次は自分かもって思いながらかろうじて生き抜いている。まあ南雲は実力があるぶん危険度の高い任務についているから、結局彼もわたしも同じくらい死に近いところにいるんだろうけど……。
言葉に詰まるわたしに、南雲は「いいでしょ」と続ける。どこか甘えるような声で、そういえばこんなふうにあざといところのある男だったと思う。リオンちゃんにも坂本にも全く効果はなくて、わたしも、簡単に絆されることはなかったけど。でも今回は、「しょうがないな」って気持ちのほうが強かった。無理だよとかそんな約束できないよと言って、一瞬でも南雲の悲しげな顔を見ることになるのが嫌だったのかもしれない。
「……いいけど、次はちゃんと綺麗なケーキ持ってきてよ」
「うん。もちろん」
夜を閉じ込めたみたいな南雲の目がじわりと滲んだ気がした。彼の表情は想像していたよりずっと幸せそうで、わたしはまた驚く。この顔を曇らせたくないと強く思った。そのためにはわたしが生きてやらなきゃいけなくて、大変な約束をしてしまったなあと思ったけど、口に出しちゃったからには守り切らないと。
「……ありがとう、苗字」
ぽつりと零された南雲の声は、つけっぱなしのテレビから聞こえてくるやたら滑舌がいいニュースキャスターの声なんかよりずっと耳に馴染む。
お礼を言うには早すぎるよ、約束守れないかもしれないんだから、と思ったけど、言葉には出さず喉元で押しとどめたまま、なんでもないみたいに「うん」と短く返事をする。ねえ南雲、わたし頑張るよ。もう一年ちゃんと生きるし、その年には「来年も祝って」って今度はわたしからお願いする。だから南雲も、死と隣り合わせで生きるには似つかわしくない穏やかなその笑みをいつまでも見せていて。
2025.03.16