花と眠るあなたはまるで
完全オフとして日本に一時帰国したはずが、翌朝には急遽事務所の打ち合わせに呼ばれてしまい、解放されたのは午後三時も回ってからだった。
プロデューサーが「せめてものお詫び」としてくれた、お菓子や珈琲の入った紙袋を握りしめたまま、大急ぎでタクシーに乗り込む。行き先はひとつ。本当なら今日一日一緒にいる予定だった彼女――夢ノ咲学院にいたころから付き合っている恋人の部屋だ。
学院卒業後、おれはフィレンツェを拠点に海外を飛び回りながら作曲活動をすることにしたから、二人で会う時間はどうしたって減ってしまった。そのことに彼女が文句を言ったことはない。いつも「新しい曲もすごくよかった」なんてにこにこ連絡をくれては、「今度会える日も楽しみにしてるからね」と明るく言ってくれる。
だからこそ、日本に戻ってきて二人で会える時間はおれにとって本当に大事で。
世間の目があるから遊園地とか水族館とかなかなか外に出かけられはしないけど、家で二人で観ようって映画をピックアップしてたり、イタリア料理一緒に作るために彼女が買い出しをしてくれてたり、あと久しぶりにおれが作曲してるところも見たいって言われてたのに!
アパートの階段を駆け上がり、お揃いのキーホルダーがついた合鍵で戸を開ける。
「ごめんっ。遅くなった!」
張り上げた声に返事はない。どっか出かけちゃったとか? でも、玄関に並んだ靴は朝とひとつも変わってない。
名前を呼びながら、少し手狭なダイニングキッチンを抜けて洋室へ。もう一度声をあげようとして、おれは慌てて口をつぐんだ。
彼女がベランダのすぐ傍で微睡んでいたからだ。先月買ったという、いわゆる「ひとをダメにする」大きなクッションに体を沈ませて。
春の柔らかな日差しが照らす彼女の表情はとても穏やかだ。いい夢でも見ているのか、小さな唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。それから、ふっくらした頬には桜の花びらがちょこんと乗っていた。どっからきたんだろ? と思ってすぐ、ベランダの戸が薄く開いていることに気づく。……ここが三階とはいえ、ちょっと不用心じゃないか?
桜の花びらを指先で優しく掬い、しばらく、その顔をじっと見つめる。
さらさらの髪。くるくるした睫毛。つやつやと赤いさくらんぼみたいな唇。
……かわいい。きれい。王子さまのキスを待ってる眠り姫みたいだ。
なんて、あまりに平凡な表現しかできなかった自分に心の中でダメ出しをしながら、浮かんでくるメロディーを書き留めるためにペンを取る。曲のタイトルは「桜と眠る恋人」とか? ストレートすぎって、セナが困った顔しそうだな。
優しくて柔らかな音たちを紙のうえで繋ぎ合わせていたら、つい鼻歌まで歌ってしまっていたらしい。そんなに大きな音ではなかったはずだけど彼女はゆっくりと目を開ける。……しまった。昼寝の邪魔しちゃった。
「ごめん。起こしちゃったな」
謝るおれに、彼女はふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべて「へいき」と呟く。それから、まだちょっと眠たそうな瞳におれを映して、
「おかえり、れおくん。お疲れさま」
「うん。ただいま」
「打ち合わせどうだった? けっこう時間かかったね」
「ん〜? 正直ちょっと疲れた!」
だから癒やして、なんて我儘を言ったら、おかしそうに笑った彼女が両手を広げてくれるので遠慮なくその腕の中に飛び込むことにする。がばり!
「うっ……。けっこうな勢いできたね」
「ごめん、嬉しくって。痛かったか?」
「痛くはないけど、ちょっと重い……」
「え〜? 同世代だと軽いほうだぞ〜、おれ!」
そういうことじゃないよ、と笑う彼女をなおのことぎゅうっと抱きしめる。ふたりぶんの体重でクッションが深く沈む。彼女の体はずっとお日様を浴びていたせいか、ぽかぽかしてあたたかくて心地いい。それから、大好きなにおいがする。……しあわせだ。瞼を閉じて噛みしめる。
「……れおくん」
「んー?」
「このあとどうする? 映画観る?」
「そうだな〜。プロデューサーからお菓子もらったし、それ食べながら観るか。紅茶も淹れるよ」
同意しながらも、おれはまだその場を動かない。彼女をしっかりと腕の中に閉じ込めたままでいると、しばらくして胸元からくぐもった声が聞こえた。
「あの〜れおくん。動けないんですが……」
「わはは! 動けないようにしてるからな!」
「……映画観ないの?」
「観るぞ! 観るけど、でも、もうちょっとだけ」
甘えるように囁いて、星みたいなその目を見つめる。彼女の瞳に映るおれ、たぶん、愛しい〜っていうのが溢れた表情をしてるんだろうな。
何かを察した彼女は、その頬をほんのり朱色に染めると、くいと顔を持ち上げた。そのまま、互いに引き寄せられるみたいにキスをする。少ししたら離して、もう一回重ねて。角度を変えながら何度も何度も口づけを繰り返す。
大好き、とか、愛してる、とか。たぶんひとより言ってるほうだと思うけど、それでもまだ伝え足りないから、このキスで気持ちが届けばいいのに。
「……れおくん」
「やだ。もうちょっと」
「もう」
ちょっとじゃないじゃん、とほんの少し責めるような口調で零す彼女の唇をまた塞いでやった。本気で嫌がってるわかじゃないって、もう知ってる。おれの背中に回した腕は嬉しそうにきゅって力が込められるし、こっちを見つめる瞳は多幸感に満ちてるから。
開けっぱなしのベランダからたおやかな風が吹いて、また桜の花びらが舞い込んでくる。
2025.04.21
◇Twitter #enst夢1m_dw 参加作品
タイトルは(icy様 ※現在閉鎖)より。