君と同じ街並みにまるくおさまることができたら



※未来軸(メガスフィア後、レオが再び海外中心に活動をしている設定です)

 今年のゴールデンィークは長期休暇をもらえることになった。久しぶりに彼女に会うために帰国の――地元に帰る予定を立て、スケジュール帳の日付に丸印をつけながら、もう十年が経つのか、と思った。
 まだまだ子どもだった高校一年生のころ。夢ノ咲学院で名前とはじめて出会ったのは、ゴールデンウィークの真っ最中だった。学校に行ったら生徒が全然いなくて休みであると気づくも、帰る気にもなれなくて弓道場の裏で猫に囲まれながら作曲をしていたら、強風が吹いて楽譜たちが飛ばされてしまって。「紙がなくなった」「ペンもない」「つくった曲もどっかいっちゃった、世界的損失!」だのなんだの喚いていたおれのもとに、名前が現れたのだ。
「誰だおまえ!」が、おれの第一声だった。そう問いかけたくせに、彼女が答える隙も与えず、「ああ待って、答えは言わないで、妄想するから! そこからオペラが生まれるから……!」と言ったのが二言目。そして生まれる音楽を紡ごうとして、ペンも紙もなくなっていることを思い出し、「紙とペン持ってない? 貸して!」と続けたのが、三言目。
 矢継ぎ早に言葉をかけられて動揺しながらも、彼女はまだ何も書かれていない真っ白な紙とペンを渡してくれたから、「ありがとうっ、おまえいいやつだな! 待ってて、すぐに書き上げるから!」なんてご機嫌に音楽を紡ぎはじめる。そしたら少しして、彼女が「きれい」と呟いたのだ。上擦った声は零れ落ちた本音にほかならなくて、おれにはそれがたまらなく嬉しかった。「ほんとっ? 今の曲、よかったっ?」興奮したように詰め寄って、距離の近さからか彼女が一歩体を引いたとき、おれははじめてその両腕に楽譜が抱えられていることに気づいた。

「それ、おれが書いたやつ!」

 指さし叫んだら、彼女は(やっとその話ができる)と言わんばかりに安堵した。

「飛んできたからかき集めたけど、全部あるかはわかんないよ。でも持ち主が見つかってよかった」
「おまえいいやつだな〜! じゃあ、拾ってくれたお礼にそれあげる!」
「え」

 目をまん丸にして動揺し、「いい、いらない。わたしなんかがもらってもどうにもできないよ」恐縮して首を左右に振る彼女に、「いいから、遠慮するな!」とおれは楽譜をおしつけた。名曲だから好きにつかっていいぞって。

「なおのことだめだよ、曲なんて弾く機会ないしそもそも楽譜ちゃんと読めるかも怪しいのに」
「えっ、楽譜読めないのか? なんでだもったいない! ちょっと試しにそれ歌ってみて!」
「いや、だからわかんないって」
「分からないところは妄想で補えっ☆ さんはいっ」

 強引に告げてタクトを振るうような動作をしたら、観念した彼女が口を開いた。

「……〜〜♪」
 ちょっと緊張気味の調子はずれな音を、今でもよく覚えている。
 恥ずかしそうに頬を紅潮させて、懸命に紡ぐ名前はすごくかわいかったんだけど、当時のおれはそんなことよりも譜面とかけ離れた音たちがおもしろくて楽しくて大笑いしたんだった。

「わはははは☆ おまえおもしろいなっ、どこをどう読んだらそうなったんだ!? いや、単に音が取れてないだけか? うん! おまえセナより音痴だなっ。あ、待って、なんか今ので新しくインスピレーションが湧いてきた……!」

 初対面の相手に強引に歌わせて挙句のはてに大笑い。今にしてみれば酷すぎるし、名前はその場で怒って帰ってもよかったのに、彼女は「だからわかんないって言ったのに!」と責めるように言うだけで、それからしばらくおれの隣に座って作曲の様子を眺めていた。その帰り際には押しつけた楽譜を「せっかくだからもらうね。大切にする、ありがとう」と宝物みたに抱きしめ笑ってくれたから、嬉しくなって名前を教えてくれと叫んだのだ。……まあ、教えてくれた名前はすぐに忘れてあやふやになっちゃったんだけど。
 それが、名前とのはじめての出会い。
 名前は普通科に所属していて、同じ学校に通っているとはいえ学生生活を送る校舎は違うし、互いの校舎間の行き来には刑務所か? っていうくらいに面倒な手続きが必要だから会う機会なんてめったにない。……と思いきや、放課後に海近くの公園で出会ったり、校内アルバイト中の彼女とばったりくわしたり(ちなみにはじめて会ったゴールデンウイーク真っ只中の休日も校内アルバイトのために学校に来ていたらしい)、雨の日に野良猫の様子を見に弓道場の裏に行ったら彼女もいたりと、なんだか妙な縁が重なって、気づいたときには仲良くなり、よく一緒にいるようになっていた。
 少ししてセナと名前がはじめて会ったときは、けっこう大変だったっけ。おれの曲が悪用されてないか心配していたセナが「さっさと返せ」と詰め寄って、いきなり盗人疑惑をふっかけられた名前は「何こいつムカつく!」と珍しく眉をぎゅっと険しくして怒っていた。でも結局、代わりがきかないと言っても過言じゃないくらいの友だちになったんだよな。おれが不登校になっていた間も、『Knights』のために一緒に奔走していたって聞いた。
 一年の夏ごろからおれたちのユニット活動をこっそり手伝うようになった名前は、こっちの校舎に忍び込むようになったり、高校生らしい無茶をしたりするようになった。生徒会や一部の先生たちにも目をつけられて、まじめだけが取り柄だったのにれおくんのせいで人生変わっちゃったと、いつかの彼女は愉快そうに笑っていたけれど。きっとおれの人生も、名前に出会ったおかげで変わっちゃってる。もちろん、いい方に。





 イタリアでできた仕事仲間いわく、日本の空港は醤油の匂いがするらしい。それを聞いて以来、帰国のたびに意識的に鼻から空気を吸い込むけれど、残念ながらおれには醤油の匂いっていうのはピンとこない。国ごとの匂いっていうのは確かに違っているから、帰ってきたなーとは思うけど!
 ゴールデンウィークの初日だ。空港はさすがに混雑している。
 キャリーケースを引きながら人混みを抜けていたら、「おかえり!」と明るい女性の声がして視線を向けた。にこにこと笑いながら手を振る彼女の元へ、おれの後ろから眼鏡をかけた男性が小走りに駆け寄って「ただいま」と寄り添う。きっと恋人だろう。
 いいな、と素直に羨ましく思った。
 日本に帰国することはこれまで何度もあったけど、名前が空港まで迎えに来たことはない。一度「迎えに…」行こうか、と言いかけるも、「人目があるから駄目だね」とひとり結論づけていた。だからおれも「迎えに来て」と頼んだことはない。きっと、困らせちゃうから。
 名前と付き合っていることは『Knights』のメンバーは全員知っている(というか、学院にいた同学年のアイドルたちはほとんど知っているはず)。元々、名前は特別! っていうのはさらけ出していたから、卒業式の日にようやく恋人になってほしいと告げて遠距離恋愛をはじめることになったときは「ようやくか」と呆れられたものだ。
 今でも付きあいが続いていることはたびたび話題になる。『Knights』のメンバーしかいない休憩中におれから「この間、名前と観た映画がさ〜」と話を振ることもあれば、化粧品のサンプルをたくさんもらったというナルが「名前ちゃんにどう?」と渡してくれることもある。名前の話になるたび、誰からともなく「長いよねぇ」「もう何年だっけ?」と声があがって、おれは「わはは☆ 羨ましいだろ〜!」と笑うのだ。
 ただ、夢ノ咲学院の友人たちからは高校時代からの彼女に一途なやつと知られていても、世間的にはそうもいかない。
 名前は一般人だし、いわゆる「におわせ」なんてのもしないからその存在が世間にばれることはまずなくて、まあそれは全然いいんだけど、有名になればなるほどありもしない噂がたつもので。偶然同じタイミングで映画の感想をあげた女優とは熱愛疑惑が出たし、ドラマに出演したメンバー全員での打ち上げはなぜか共演女優との密会になった。とあるモデルと結婚目前同棲疑惑まで飛び出したこともある。最終的には事務所がぜんぶ否定してくれたけど、今でもネットの海にはほかの彼女候補を勝手にまとめたサイトが漂っているようだ。食べたものが同じだった、雑誌のインタビューで答えた趣味が同じだった、同じ映画を観てた、使ってる食器が似てる、アクセサリーが似てる、服の系統が似てる……、そんなこじつけみたいな理由で彼女候補をまとめた、乾いた笑いが出てしまうようなサイトが。 
 そういえば、はじめて熱愛報道が出た直後、SNSに『高校時代、学校帰りに女の子といるのを見た。彼女かと思ってたけど違ったんか、やっぱり別れたんか』と投稿されていたとリッツが教えてくれたことがある。「まだ売れてない高校時代にいたかもしれない彼女」はおもしろみに欠けたのか大して話題にはならなかったらしいけど。あの時、『別れてないぞ』って公式垢から引用してやればよかったかも……。なんて、そんなことしようものなら、名前が怒って本当に別れるなんて言いかねないから、絶対しないけれど。


「本当は渡したいけど海外でなくされたら困るから」と、名前がおれに合鍵をくれないことに拗ねたこともあるけど、実際彼女の判断は正しかっただろうと今では思っている。辺りが薄暗くなるころ名前が住むマンションに着いて、オートロックの共用玄関で部屋番号を押したら、ほどなくして『はい』とインターホン越しに返事があった。

「おれ。レオ」
『うん! すぐ開ける。部屋も開けてるから、入ってきて』

 言い終わると同時にフロントの自動ドアが開いた。建物の中は間接照明がおしゃれで、ちょっとホテルのような感じだ。クリーム色の壁沿いに進み、奥まったところにあるエレベーターから四階へ向かう。いちおう帽子をかぶってマスクもしてるけど、住人とは出くわさなかった。
 ――家賃はちょっと高いけど、れおくんが来るなら外から見えないほうがいいと思って。
 この物件に決めたとき名前が言っていたとおり、中廊下型のマンションは外から玄関が見えない造りになっていて、プライバシーが守られやすい。
 部屋も開いてるって言ってたしと、ノックもそこそこに扉を開けたら、名前は既に玄関までお出迎えに来ていた。料理中だったのか、エプロンをつけている。かわいい。

「おかえり」
「ただいま」

 言い合って、流れるようにその体を抱きしめた。「ふふ」とくぐもた笑い声がする。

「久しぶりだね」
「うん……」

 その温もりを噛みしめるようにぎゅうっとしながら、名前のにおいだ、と思った。
 ただいまのキスをしてからリビング(といっても、1Kの小さな部屋だけど)に行ったら、木の温かみがあるナチュラルカラーのローテーブルに既にお箸が並べられていた。

「ちょっと時間早い? あと魚焼いたら食べれるんだけど」キッチンから名前が声をかける。
「んーん! へいき! というか、すっごいお腹すいた〜」
「……れおくん、お昼ちゃんと食べた?」
「わはは!」
「あ、やっぱり食べてない! 笑ってごまかさないの」

 食事をつい後回しにしてしまうクセは今でも抜けきらない。名前と一緒なら彼女にあわせて食べるんだけど。
 向こうではちゃんと食べてるの、心配だなぁ。呟きながら、名前はグリルを覗き込んでいる。
 帰国の連絡をしたとき、彼女は真っ先に「食べたいものある?」と聞いてきた。「魚とか〜、お味噌汁? 和食が食べたいかも!」と答えたおれの希望どおり、テーブルには和食が並べられていく。豆腐とわかめの味噌汁、肉じゃが、揚げ出し豆腐、きゅうりの酢の物。「天ぷらも作りたかったけど、さすがに多すぎるかなって。別の日に作るね」と言いながら彼女は冷蔵庫の中からサラダを取り出し、次いでグリルから魚を取り出す。こんがり焼けていて、いい匂いがした。
 ふっくらした白ご飯をお揃いのお茶碗によそって机の前に座り、向かい合って手を合わせる。「いただきます」の声が重なって、それだけで、しあわせだな、と思った。


 名前と入れ替わりでお風呂に入って、シャンプーが前来たときと変わっていることに気づいた。ただ、カクテルみたいなおしゃれなパッケージは見たことがある気がする。漂ってる香りにも覚えがある。なんだっけ、と考えて思い出す。ちょっと前、スオ〜がCMに出てたやつだ。たしか、お風呂上りのスオ〜が濡れた髪をタオルで拭きながら、「髪に、艶めきを」みたいなことを言う内容で、『大人っぽい』『なんか色気がある』と彼の雰囲気がいつもと違うことが話題になっていた。スオ〜がサンプルをくれたから、おれも何回か使ったんだった。
 あまり泊まる機会はないから、おれ用のシャンプーとかボディソープはない。名前と同じ香りを纏ってお風呂から出たら、彼女は白いカーペットに座って音楽番組を観ていた。画面の中で華やかに踊るアイドルグループが歌っている曲はよく知っていて、あ、これおれが提供した新曲だ、と思っていたら、こちらの気配に気づいて振り返った彼女が「れおくんの名前出てきてびっくりした」とテレビの右上を指差した。そこには『天才作曲家&人気アイドル 月永レオ提供』とテロップが出ている。名前いわく、曲紹介の時にもおれの名前が挙がったらしい。
「かっこいい子たちだね。ダンス上手」と名前は続けた。たしかに、このアイドルグループはダンス動画が話題になって一気に人気が出ただけあって、ダンスのレベルが相当高い。
 素直な感想だとは分かっているけど、なんだかおもしろくなかった。隣に座って、わざとらしく体を密着させる。彼女は絶対「なぁに」とこちらを向くから、何も言わずにその唇を奪ってやった。
 名前は一瞬驚いたみたいだったけど、すぐに目を閉じて受け入れた。ちゅ、ちゅ、と小鳥の戯れみたいなキスを繰り返し、少しして舌で上唇をなぞる。応えるように唇を薄く開けてくれるから、その口内に舌を滑りこませる。……いつのまにこんなえっちなキスができるようになったんだっけ。名前のはじめては全部おれだったから、教えたのはほかでもないおれで、それがかなり嬉しかったりする。
 例のアイドルの曲がいつのまにか終わっていた。そのままテレビの電源も切った。それから、流れるようにふたり、シーツに体を沈める。ベッドが小さく軋む音がした。間近で見た名前の瞳は、すっかり熱を帯びている。

「……でんきも」

 消して、と彼女は懇願する。

「ぜんぶ見たい。だめ?」

 おれは甘えた声でねだる。名前がこういうお願いの仕方に弱いって知ってるから。案の定、彼女ははっきりと「駄目」と言えずに、うぅ、と唸るだけだった。
 時間切れだっていじわるく言って、再びキスを繰り返した。名前の体はすっかり力が抜けて、もうされるがままになっている。服を取り払うたび、思い出したように恥ずかしい、と泣きそうな声で言ったけれど、電気がつけっぱなしになっていることへの文句はひとつもなかった。
 かわいい、と繰り返し、宝物のように触れる。そうして、肌と肌を重ねて、互いの体温をわけあって、会えなかった時間を埋めるみたいに愛しあう。





 休みの間は、家でゆっくりしたり、ドライブに出かけたり、互いの実家に顔を出したり……。商店街と繁華街にも名前と一緒に行きたかったけど、人目が多すぎたから別々でぶらつくことにした。途中でファンだという女の子たちにケ尾をかけられたから、別行動は正解だったと思う。
 昔、名前と一緒に寄り道をした小さなコロッケ屋さんは閉店していて、でもソフトクリームのお店はひっそりと続いていた。本屋さんが移転して、気軽に行ける流行りのスポーツジムが新設していて。ほんとうに、いろんなものが変わっているけれど。

「ただいま」
「おかえり。久しぶりの商店街どうだった?」
「ソフトクリーム食べてきた」
「むかしよく寄ってたとこの? あそこ、ほんとおいしいよねぇ」

 出迎えてくれる彼女の明るさや温かさは変わっていなくて、それが嬉しくて、安心する。


 晩ご飯を食べてから「どうしても夜の散歩がしたい」となかば強引に彼女を外に連れ出した。人気は少なかった。
 スパンコールみたいに星がききらと瞬く夜だった。見上げた空には大きな影がぼんやりと浮かんでいる。数年前、この街の上空に現れ、おれも友人たちと共同生活をしていたメガスフィアは今でも健在だ。夜空に浮かぶ姿は、さながら空飛ぶくじら。
 人気のない夜道を鼻歌交じりに進み、目的地に着くと、名前は「ここに来たかったの?」と目を瞬いた。

「うん! 懐かしいだろ〜」

 そう言うおれの前にあるのは、かつて仲間たちと苦楽を共にした学び舎、夢ノ咲学院。
 ぼんやりと灯りに照らされた裏門はしっかり施錠がされている。「……よし」と、おれはその門扉に乗り上がるように手をかけた。「待て待て、待って!」ぎょっとした名前が服の裾を掴む。

「何してるの、れおくん」
「中に入ろうかなって。昔はよく忍び込んでただろ〜?」
「いつの話してるの!? さすがにやばいよ、捕まるよ。現役アイドル不法侵入で逮捕とか笑えないよ」
「警備のひとに声かけたら卒業生だし見逃してもらえないかな」
「博打がすぎる!」

 こそこそとやりとりをしていたら。

「……ん? 誰かいる?」

 パッと突然明かりを向けられて、おれと名前は「あ」と声を重ね、そちらを向く。「ただの通りすがりで――」しらばっくれようとした名前の言葉は途中で区切れ、「あれっ」と明るい声を出す。

「佐賀美先生!」

 おれも名前もよく知っている、学院の教師であり保健医。スマートフォンのライトをこちらに向けていた彼は、「ああ、お前たちか。何してるんだこんなところで」と笑いながら眉尻を下げた。

「先生こと何してるんですか。ゴールデンウィークのこんな時間まで学校で」
「ちょっと作業だよ。ESの事業部と教師かけもちは、けっこう忙しいからなぁ」

 実は学院の中に入ろうとしてた、と正直に伝えたら、彼は「夜の学院の散歩か? いいなぁ」とからから笑って、二十分くらいならいいぞとあっさり裏門を開けてくれた。名前は「佐賀美先生、あいかわらず適当ですね」と呆れながらも嬉しそうだった。佐賀美先生は、高校時代に名前がアイドル科の敷地に忍び込んだときも「ほかの教師には見つかるなよ」と言うだけで、当時からすごく緩かった。高校一年のころ、おれと名前が出会うきっかけになった彼女の校内アルバイトだって、本来なら普通科の彼女はアイドル科の敷地に入れるはずもないのに、「こっちのアルバイト予定のやつが休んだからついでにやってよ」と彼女を送り込んだのはほかでもない佐賀美先生だった。

「二十分経ったら戻ってこいよ。保健室で待ってるからさ」

 一緒に警備の人への挨拶までしてくれた彼にお礼を言って、暗い校内を練り歩く。静かで、隣の名前の息遣いすらはっきり聞こえそうだった。

「教室、けっこう変わったんだね」
「うん。改修されて、おれらのときより綺麗になってるよな。場所もちょこちょこ変わってるし」
「れおくんの席って一番後ろだったっけ?」
「そう! おまえもさ、一番後ろの窓側だったときあったよな」
「あったあった。れおくん、遊びに来たよね。冬のさっむい日。授業中に窓開けて、海行こう! とか誘ってきてさ。わたし、思わず飛び出しちゃって先生に馬鹿みたいに怒られて……。懐かしい〜……」

 思い出話に花を咲かせながら、二人の足は自然と弓道場へと向かっていた。はじめて出会って、目を見て、言葉を交わした場所。伝統的で趣のある建物はあのころのままで、名前は愛おしいものを見るように目を細めた。

「ここは変わってないんだ……」

 その横顔が月明かりに照らされてうつくしく輝く。形のいい唇が薄く開いて、ぽつりぽつりと言葉が零される。

「わたし、あのときは、アイドル科の子と友だちになるなんて思ってなかったし……、付きあうことになるなんて、考えたこともなかった」
「わはは! 正直おれだって思ってなかったな。……もう、あれから十年だもんな」
「長いね」
「うん。長い」

 あのころ弓道場の裏でよく見ていた猫は今日はいない。どこかで眠っているのかもしれないし、猫の寿命は平均で十五年くらいだというから、もしかしたら。
 ……本当に、長い月日を共にしたと思う。でもそのほとんどを、おれは彼女の隣では過ごせていなかったりする。付きあってすぐ海外に行って、日本に戻ってきたと思ったらメガスフィアでアイドルと共同生活をして、それが終わったと思ったらまた海外へ。振り回してばかりのおれに、彼女は変わらない愛情をずっとくれる。

「……なあ。今日でちょうど十年なの、覚えてる?」

 この場所ではじめて出会った日から、ちょうど十年。
 付きあった日でもないから忘れててもおかしくはない。けど名前は笑って、「覚えてるに決まってる」と言った。

「衝撃的だったから、忘れられないよ。というか、れおくんのほうこそよく覚えてたね」
「うん。おれもびっくりなんだけど。なんでかな、ずっと覚えてる」

 ふ、と見上げた空にはメガスフィア。あのころ、この街には天空のワンダーランドなんてなかったし、ESビルすらまだ建っていなかった。
 春と夏のあわいを彷徨うようなぬるい風が頬を撫でる。おれは、「あのさ」と普段よりいくらか落ち着いた声で彼女に呼びかけた。星空を閉じ込めたようなきらきらした瞳がこちらを向く。彼女の目は、いつだって綺麗だと思う。

「おれ、そろそろ日本で暮らそうかと思ってて」

 おれを見つめる目が驚きに見開かれる。そうだよな、急にどうしたんだってびっくりするよな。でも、急なんかじゃなくて、前からずっと思っていた。まだ幼かったおれは、彼女に「ずっと一緒にいて」なんて約束を取りつけたくせに、具体的なことはないひとつ言えないままだったけど、それを、いつかちゃんとって。
 こうして日本に戻ってきて、彼女と過ごしていたら、改めて思ったのだ。
 この数年で大きく変わった街。きっとこれからもたくさんのものが変わってく街。けれどたしかに、変わらないものがある街。この場所で、大好きで大切なひとともう一度共に過ごせたら――って。だから。

「だから、一緒に暮らそう。それで――」

 まだ曖昧な、夢物語のようなことしか言えなかったあのころよりもずっと、永遠を誓う言葉を、おれは送る。

「それで、おれと、結婚して」

 おれを見つめていた双眸から、真珠のような涙がきらりと零れ落ちた。それを拭おうと手を伸ばすよりさきに、彼女はこちらに駆け、そして。「――うん」あのころと変わらない温もりで、おれのことを強く抱きしめてくれた。


2025.05.31
◇Twitter #enst夢1m_dw 参加作品
タイトルは(よるのたねまき様)より。



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