だから、世界は地獄じゃない
楽くんはすごい。
わたしと同じ歳なのに、どれだけ厳しい『躾』にもちっとも痛そうにしない。泣くことも叫ぶこともなくて、この間なんか『躾』をする大人の頬に唾を吐きかけて「5点〜」なんて笑っていた。
楽くんは優しい。
『躾』を嫌がって大泣きするわたしの前に現れて、大人たちを煽って、わざと自分に怒りの矛先が向くようにする。自分が代わりに『躾』を受けるようにする。何もできないわたしを、何度も助けてくれる。守ろうとしてくれる。
わたしも、楽くんみたいに強くなりたい。いつもいつも、そうやって思うのに。
「いてーって。自分で歩けるから離せよ〜」
わたしは今日も、楽くんが連れていかれるところを見ているだけ。足はセメントで固められたみたいに動かないし、大人たちに睨まれては声すら出ない。いつも、そう。わたしは臆病で、弱くて、狡くて。こんな自分が、心底大嫌いだ。
・
ぎぃ、と軋んだ音を立ててボロボロの木造扉が開く。現れた楽くんの服は破れていて、そこから赤い切り傷が見えていた。頬は紫色に腫れているし、擦り傷やアザは数え始めたらキリがない。
部屋の隅っこでうずくまっていたわたしが飛び起きるように体を起こすと、楽くんはいつもみたいにへらりと笑って「手当てしてー」と形の変形した救急箱を差し出した。受け取った救急箱を開け、もう残り少ない消毒液や包帯を取り出す。数え切れない傷を、厳しい『躾』の痕を、白い包帯で覆い隠す。まだ塞ぎ切ってない箇所も少しあって、じわりと紅が滲んだ。
「なー、何で泣いてんの」
俯いて唇を噛み締めていたけれど、楽くんは目敏く気づいて、ちょっとだけ困ったように問いかけた。「何にもできない」とわたしは目を擦る。「ごめん」も「ありがとう」も違う気がして、何かを伝えることすら、わたしはできない。
「手当てしてくれんじゃん」
「こんなのできたって意味ない」
「意味なくねーよ。1番上手いし。俺、包帯すら綺麗に巻けねーもん」
楽くんが右腕を差し出した。鼻歌を歌いながら手当てを受ける彼は、そうやってわたしを慰めてくれる。痛いくらいの優しさが体中にしみる。わたしは今日、ひとつも怪我をしていないのに。
手当てが全て終わると、楽くんは「もーちょっといてもいい?」と胡座を組んだ。同室の女の子は、数日前に居なくなった。ここと繋がりのある学校に殺しの勉強をしに行ったらしい。だから、誰かの迷惑になることはないけれど。
「ちょっとだけだよ。見回りに来る前には帰らなきゃ」
「やりー」
部屋に遊び道具はないから、二人でいるといっても何をするわけでもない。わたしは、傷んだ本棚から果物の図鑑を取り出して開けた。ところどころシミがあって、ページは破れたり外れかけたりしている。それでも、読めない訳じゃない。
「また難しそーな本読んでる」
覗き込んだ楽くんが、「オエー」なんて舌を出した。
「ただの図鑑だよ」
「本じゃん。俺文字読むの嫌い。……あ」
ページを捲ると、ふと彼が目を開いた。「これ」包帯の巻かれた人差し指が一枚の写真を示す。濃い緑色の大きな葉に、黄橙色をした楕円形の実。枇杷だった。
「ココの裏にあったな。こないだ食った」
「えっ」
枇杷が施設の裏にあるという事実にも驚いたけれど、楽くんがそれを口にしていることが衝撃だった。わたしたちは、勝手に施設から出ることを許されていない。あの大人たちが付き添って外出できたとして、果物なんかを与えてくれるはずがない。だからきっと、楽くんは、施設をこっそり抜け出していて。
「危ないよ」と目で訴えるわたしに、楽くんは目を細めて笑って、「めちゃくちゃ甘かったぜ〜。一緒に食いに行く?」と誘ってきた。
「危ないよ」
今度は、声に出してそう告げる。
「大丈夫だろ。俺、抜け道知ってるし。一度もバレたことねーもん」
「でも、わたしは上手くできない」
「平気だって。オマエ、そんなこと言ってるけど、そこら辺の奴よりは優秀じゃん」
「そんなこと……」
うじうじと俯いた時、壁時計が鳴った。今にも生き絶えそうな鳥の鳴き声がして、楽くんは「ヤベッ」と体を起こす。
「とにかく、今日の夜な。そこの窓から迎えに来るから」
「あ、楽くん!」
呼び止める暇もなく、楽くんは走り去った。バタンと閉じられた扉の向こう側、ぺたぺたと走る音が小さくなっていくのを聞きながら、わたしはひたすら途方に暮れる。楽くんは本当に迎えに来るに違いない。外で放っておくわけにはいかなくて、わたしは結局、すっかり夜も更けた頃にやってくる楽くんを待ち続けた。
「悪ぃー、遅くなった」
大人たちの見回りが終わって、日付も変わってから、楽くんはやって来た。鍵をかけずにいた窓をそっと開けて、こちらを覗いている。楽くんにしては珍しく靴を履いていた。窓のサッシに器用に足をかけた彼に「こっち」と誘われ、わたしも窓から外に出た。板の僅かな歪みや近くの木を利用して下の階に降りる楽くんに続く。そのくらいの動きは、できるように叩き込まれている。
地面には大きさも高さもバラバラの雑草が生えていて、埃のような虫たちが舞っている。思わず顔を顰めたら、「これ着とけよ」と、腰に巻いていた服を被せられた。だいぶ大きな長袖で、袖は余るし、丈も膝くらいまである。少なくとも、楽くんのものではない。
「どうしたの、これ。誰の?」
「憬くんにもらったー」
……『借りた』ではなく、本当に『貰った』のだろうか。どこか引っかかりつつも、ずんずん進んでいく楽くんに着いていく。憬くんは優しいから、もし貸したものだとしても、強くは怒らないと思う。……たぶん。
窓から死角になる位置をキープしながら、建物沿いに歩いていく。暫くすると、大きく歪んだフェンスが見えた。
「あの左下、穴空いてんだ〜。あそこから出れるぜ」
「敷地の外じゃん」
「出てすぐだよ」
「そういう問題じゃ……」
小声ながらに慌てるわたしの腕を引き、楽くんはフェンスの小さな穴を潜り抜ける。「早く来いよー」差し出された手を、恐る恐る握って。
敷地の外に出た瞬間、空気が変わった気がした。見上げた空に浮かんだ星が、不思議といつもより輝いている。思わず立ち尽くしていたら「ほら、これこれ。この木だろ?」という楽くんの声がして意識が引き戻される。彼が指差す先には、図鑑で見たのと同じ木がどんと立っていた。緑色の葉の先に、黄橙色々の実がたくさんなっている。
「食おーぜ」
と、楽くんは早速、そこらにあった石を掴んで枝に向かって投げつける。石はちょうど実がついた枝に当たり、丸い実だけがころりと落ちた。わたしも真似して、適当な箇所を狙ってみる。手元に落ちた実の皮を剥いて、微かに香りたった橙色に口をつけて。
「ッ、酸っぱ……!」
思い切り、顔を顰めた。酸っぱい。あとちょっと苦い。想像していた味とかけ離れていたせいで、余計にそう感じる。
わたしの反応に、楽くんは大笑いした。「ハズレじゃん」なんて揶揄って、「こっちやるよ」と自分が持っている分を差し出す。彼の食べかけだった。
「ほんとに甘い?」
「甘いって」
おそるおそる、舌を伸ばす。柔らかな実に舌先が触れて、確かに酸っぱくも苦くもない。思い切って齧って、わたしはパッと楽くんの方を見た。
「甘い…!」
「だろー?」
楽くんは無邪気に笑って、もう一度実を落とす。それも当たりだったようで、彼は「うめー」と美味しそうに口を動かした。食べ終わったわたしも、もう一度枝に石を投げつける。落ちてきた実は最初よりはマシなものの少し酸っぱくて唇を尖らせた。ハズレしか引けないわたしと、当たりばかりを引く楽くん。なんだか、悔しい。
お腹いっぱいに枇杷を食べて満足したわたしは、ここに来る前にひどく怯えていたことをすっかり忘れてしまっていた。だから、また来たいね、なんて言いながらスキップしそうな浮かれ具合で施設に戻った時、現実に絶望することになる。
「……あー、ヤッベ」
楽くんが呟いて、木の裏に体を隠した。施設の窓から体を出して、男が忙しなく何かを探している。何か。何を?そんなこと、考えるまでもない。
ど、と心臓が跳ねた。バレた。わたしのせいだ。わたしが、調子に乗って着いてきたりするから。きっと楽くんひとりだったら、こんな事態にもならなかった。
カタカタと体が震える。寒い。怖い。息が、上手くできない。
「そんなビビんなよー。大丈夫だって。上手くやるし」
楽くんがわたしの手を握って、安心させるように笑った。彼の手はあたたかくて、少しだけ平常心を取り戻す。
窓から外を覗いていた男は舌打ちをして姿を消し、入れ替わりで少年が現れた。月光のような銀色が靡いて、わたしたちは「あ」と小さく零す。憬くんだった。優しい、みんなのお兄ちゃん。
楽くんは辺りを瞬時に確かめると、木の裏から姿を出して彼に向かって手を振った。「楽……!」澄んだ湖によく似た青い瞳をぎょっと見開き、憬くんが小声で叱責する。
「早く上がってこい……!」
「わかってるってー」
手招きする楽くんに誘われて、わたしも同じように壁を登った。木の裏から出てきたわたしに憬くんは一層目を丸くして、「まさか……」と呟いたけれど、それ以上は口を噤んでしまった。まさか、なんだろう。まさか、君まで、とか。そんな言葉が続いたのかな、なんてぼんやりと思う。
入り込んだのは空き部屋だった。憬くんはわたしたちの服についた土埃や枯れ葉を払うと、「何をしてたんだ!」と声を荒げた。こんなに怒った顔の憬くんを見るのは初めてで、わたしはびくりと肩を震わせる。
「ご、めんなさ……」
「とにかく、外に出たなんてバレたらいつも以上に酷い仕打ちをうける。まだ探しきれてない地下に先回りしよう。先導するから」
「!憬!」
「ッ」
瞬間。部屋の扉が音もなく開いたかと思うと、憬くんの二倍の体躯はありそうな男が彼の首根を掴んで壁に投げつけた。鈍い衝撃音。それから、壁が崩れる嫌な音。
「憬くん!」
悲鳴をあげるわたしを一瞥し、男は疼くまる憬くんへと近づいていく。
「見つけたらすぐに報告しろと言ったはずだが?」
「ゲホッ……」
「報告を怠るどころか、隠そうとするとはな」
男が屈む。憬くんの胸倉を掴んで乱暴に引き上げる。拳を構える。
「憬は関係ねーだろ。俺が勝手にやったんだよ」
それと同時に、楽くんが男の背中を蹴り上げた。ゆっくりと振り返った男は呆れた目で楽くんを見下ろし、ゴミを捨てるみたいに憬くんを放った。
「楽、よせ!」
憬くんが声を荒げるけれど、彼は聞こうとしなかった。胸元に伸びる男の腕を甘んじて受け入れ、「どうなるか分かってるんだろうな」と凄まれても、「怖ぇーって」とけらけら笑うだけ。男の太い腕が振りかざされて、楽くんの右頬を思い切り殴った。鈍い音がして、わたしは思わず目を閉じる。
「……お前ひとりでやったのか?」
男の視線がこちらに向くのが分かる。氷のような冷たい目が、わたしを射抜いている。ヒュ、と喉の奥が鳴って、息が上手くできない。苦しい。
「そーだよ。俺が無理やり連れてった」
「……ハッ」
声を出せないわたしに代わって、楽くんが答えた。男は乾いた笑い声を出す。きっと、全部嘘だと分かっている。けれどそれ以上は追求せず、「ならお前だけ来い」と楽くんを乱暴に引き摺った。「へーへー」と、相変わらず楽くんは覇気のない返事をする。これから、酷いことをされるのに。死にたいくらいに痛い思いをするのに。それは、わたしのせいなのに。わたしはいつもみたいに、ここで見てるだけ。本当に?本当に、それでいいの。あんなに、無邪気に笑ってくれた彼を、彼だけを、苦しい場所に連れてくの?
怖い、怖い、怖い。喉はからからに乾いていて声が掠れる。肺なのか胸なのか分からないけれど、体の中が痛い。熱い。それでも、言わなきゃ。地面に張り付いた足を前に出さなきゃ。
「……っ、違う!」
男が足を止め、ゆっくりと振り返る。憬くんと楽くんが、目を大きく見開いている。
「わたしが、頼んだ。連れていってほしいって、わたしが、頼んだの。わたしが、悪い」
「何言ってんだよ、そんなこと言ってねーじゃん!」
男の腕の中で楽くんが暴れた。そんな風に焦る姿を見るのは、はじめてだったかもしれない。
「お仕置き、するんでしょ。だったら全部、わたしにして!」
瞬間、体に凄まじい衝撃が走った。憬くんと楽くんが、悲鳴のような声でわたしの名前を呼んでいる。殴られたんだ、と理解するまで数秒。壁に直撃した背中が痛いなんてものじゃなくて、生理的な涙が出る。それでも、もう、引くわけにはいかなかった。
「ゲボッ、ゴホッ……、おねがい、するなら、わたしに、して」
ずるずると体を引き摺って、男の足を掴む。そうしたら彼は面白そうに目を細めて、わたしを持ち上げて。
「そんなに言うなら、二人まとめて躾直してやる」
「やめろって!ソイツ関係ねーって言ってんじゃん!」
「待て、二人に乱暴なことはするな……!」
楽くんと憬くんが叫んだけれど、男はやっぱり耳を貸さなかった。どこか痛めたのか、立ち上がることさえ辛そうな憬くんを一瞥し、「お前はもう戻れ」とだけ告げて場を立ち去る。見えなくなった部屋の中から、壁を殴る音が聞こえた。憬くんの拳から血が出た様子を想像して、わたしはその痛々しさに目をきつく閉じる。
わたしたちは地下牢に連れていかれて、冷たいコンクリートへと放り投げられた。大きな影が差してすぐ、お腹に衝撃が入った。胃液が込み上げて、口の中に不快なものが溜まる。楽くんの声が遠くで聞こえた。汚いところを見られたくなくて必死に我慢したけれど、四回目の蹴りに耐えきれず、ついにわたしは胃から迫り上がった消化物を思い切り吐き出してしまう。酸っぱい匂いが辺りに漂った。「情けねえな」と感情のない声が降りかかってきて、それから先のことは、よく覚えていない。
・
胸元にがやけに温かい。うっすらと瞼を開けると、ぼやけた視界が上下に揺れていて、それから、見慣れた緑色が僅かに映った。
楽くんにおんぶされていると理解して、わたしは大きくのけぞる。「うぉっ」なんて声を出して、彼がこちらを振り向いた。
「あぶねーな。落ちたらどーすんの」
「やだ、降ろして……!ッ」
「いやお前歩けねーだろ」
「歩けるもん……!」
強がったけれど、正直彼の言う通りだった。意識が戻った瞬間から、体中がひどく痛い。もう一回寝ろと言われても無理なくらい痛い。ただ、あんなに吐きまくって吐瀉物がついてしまった服で彼にくっつくのがどうしても嫌だった。いっそあのまま殺されれば良かったと思うくらい恥ずかしくて、泣き虫なわたしはぐずぐずと鼻を啜る。それを、楽くんは痛みに耐えきれなくなったと思ったらしい。「お前さ」といつもより真剣な声音で、「あんなこともう止めろよ」なんて言う。
「……やだ」
「あのさー、何なんだよ急に。無理じゃん、痛いのにすぐ泣いちゃうんだし」
「無理じゃないもん。痛いから泣いてるわけじゃないもん」
「何で急に頑固なんだよー」
困ったように息を吐いた楽くんに、わたしは「だって」と彼のシャツをきゅっと掴む。
「楽くんと一緒がいい」
彼が息を呑むのが分かった。畳み掛けるように、わたしは続ける。
「楽くんと同じがいい。わたしばっかり、痛いことから逃げてるのは嫌。ずっとずっと、嫌だった……!」
「じゃあ俺はどうしたらいいんだよ!」
突然、楽くんが声を荒げた。暗い廊下に彼の声が反響する。
「昔っから、お前だけは傷の手当てをしてくれて。痛いのなんて、見るのも嫌なくせに、ずっと頑張ってくれたのに。お前が傷ついても、俺はおんなじようにできない。お前がしてくれたみたいになんて、できない」
今度はわたしが息を呑む番だった。
まさか、楽くんがそんなことを思っていたなんて。たかが手当てを、そんな大事なもののように感じてくれていたなんて、わたしは何にも知らなかった。でも、だからといって、「じゃあわたしの代わりに」なんて言える訳がない。わたしは今日から本当に頑張るって、どんなに痛くて苦しいことにも耐えてみせるって誓ったから、だから。
「ぜんぶ、教えるから。包帯の巻き方も、消毒の仕方も、全部。だから、わたしが怪我したらそうやって手当てして。それで、おあいこ」
「……教えてもらっても、上手くできねーかもよ」
「いいよ。それでもいい。楽くんがしてくれることに、意味があるから」
「バッカじゃねーの」
零された言葉が震えていたことには、気づかないフリをした。
……馬鹿じゃないよ。それが馬鹿なら、楽くんだって十分馬鹿だ。忘れてるのかもしれないけど、わたしがはじめて楽くんにした手当て、すっごく下手だったんだから。泣きながら巻いた包帯はぐちゃぐちゃで動かしたら解けそうなくらいで。それが悔しくて悲しくて、医療関係の本を手当たり次第読み漁って練習したなんて、なんだかダサいから、ずっと言うつもりはないけれど。
・
それから、わたしはちょっとだけ強くなった。躾はやっぱり痛くて苦しかったけど、終わったら楽くんの手当てが待ってると思うと今までよりはずっとマシだった。
暫くするとわたしは戦い方も教えてもらうようになって、その頃には施設の中でも上位の強さになれていたと思う。ただ、ひとつだけ。わたしはたぶん、『殺し』ができない。施設の大人たちがそういう仕事をしているのは知ってる。いつかはわたしも、楽くんも憬くんもそれをしなきゃいけない日が来るんだろう。その日が来るのが、わたしは、ひどく怖い。
漠然とした不安が現実のものになったのは、憬くんが殺し屋の養成学校に入ることになったと聞いた時だった。出立の日、わたしたちの頭を優しく撫でた手はとても温かくて、この手が誰かを殺すことになるなんて信じられなかった。信じたくなかった。やわらかな冬の日によく似たこの人の体が返り血で真っ赤に染まるところなんて、想像したくない。
「絶対、また会おうね。約束」
「うん。二人とも、元気でね。仲良くするんだよ」
何もかもを包み込んでくれていた優しい冬が消え去った夜、訓練を終えたわたしと楽くんは寄り添って、牢獄みたいな四角い窓の向こうに星々を見た。
「憬くん、人殺しちゃうのかな」
「自分が死なないためなら仕方ねーよ」
「うん。分かってる」
「俺もあと数年したらおんなじとこ行くんだろーな」
「楽くんだけじゃないよ。わたしも行く。ずっと一緒だもん」
「そーだった、そーだった」
けたけたと笑って、楽くんが身を寄せた。いつのまにか彼の背丈はわたしよりずっと大きくなっている。
その事件が起こったのは、憬くんが殺し屋の学校に行って2年と少しが経った頃だった。
「ゲホッ、ゴホ……ッ」
施設のあちこちから黒煙が上がっている。唸り声をあげて迫ってくる炎を掻い潜りながら突き進んでいたら、すぐそばで呻き声がして足を止めた。
「た、助けてくれ……」
当たり前だけれど、見知った顔だった。わたしたちを躾けていた、施設の大人。崩れた瓦礫に挟まった右足が変形していて、思わず顔を顰める。わたしは未だに、こういう怪我を見るのが苦手だ。
簡単に見捨てることはできなかった。けれど救いたいと強く思うわけでもなくて立ち尽くしていたら、頭上で大きな音がして(しまった)と心臓が大きく鳴る。天井が、崩れる――!
そう覚悟したのも束の間、わたしの体は誰かによって支えられて、「おーい、ぼーっとすんなよ」ちょっと気怠げな聞き慣れた声が降りかかる。
「楽くん!」
彼の顔を見て、心底安堵する。炎が広がってから今までどれだけ探しても見つけられなかったから、もしもどこかで動けなくなっていたらと気が気じゃなかった。楽くんに限ってそんなことはないだろうと思いつつも、不安な考えというのはやたらと脳を支配する。
「ん」と、楽くんがすぐ傍の窓を指した。「そっから逃げろよ。二階だけど、お前なら余裕だろ」そう言われて、わたしは眉を寄せる。「楽くんは……?」どこか違和感を感じて尋ねると、彼は口角を上げて「ちょっとやることあるから」と濁した。胸騒ぎがする。背を向けた彼の裾を思わず掴むと、楽くんはちょっと困ったような表情をした。行かせちゃいけないと、直感的に思う。ここで離したら、たぶん、二度と会えない。そんな気がする。
「……楽。遅いよ」
暗闇の向こうから声がする。穏やかな声がする。わたしは目を見開いて、闇から現れるその人物を見つめる。冬を思わせる銀髪。湖畔を思わせる青い瞳。数年前、殺し屋の学校に行くためここを出て行った大切なひと。お兄ちゃんのような存在だったひと。
「憬、くん……?」
「ああ、久しぶり。……そうか、彼女を助けてたのか」
「ッス。すみませんー」
二人のやり取りは、どう考えても今しがた出会ったものじゃない。というか、楽くんのその喋り方はなに?憬くんだって、昔と雰囲気が全然違う。何で、と、どうして、ばかりが浮かんで頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「ほら、そろそろ行かないと」
「分かってますって」
「ッ!」
楽くんが動く。動く、と思った時にはわたしの手は振りほどかれていて、何が起こったのか理解する暇すら与えてもらえない。手首を掴まれて引き寄せられる。赤い目がわたしを射貫いて、少しだけ揺れて。
「……じゃあな」
小さなささめきが、轟音の中でもはっきりと聞こえた。
次の瞬間わたしの体は宙に浮いて、肌に纏わりついていた熱気が消える。外に投げ飛ばされたと理解するのに数秒。受け身を取って体勢を整える。もう、何が何だか分からない。けど、ひとつだけはっきりしてること。楽くんも憬くんも、わたしを置いてどこかに行く。
「……ふざけんな」
湿った土を握り潰す。こんな別れ方なんて、あってたまるか。約束したんだから。ずっと一緒だって、約束した。
施設の壁を伝って、一層燃え盛る中へと戻った。さっきよりもずっと煙が充満していて息がしづらい。それでも、引き返すわけにはいかなかった。神経を尖らせる。足音、息遣い、通った痕跡。何一つ見落とさないように。どこに向かった?どこにいる?
――そしてとうとう、わたしは彼らを見つける。
「楽くん!」
呼ばれた彼が、大袈裟に目を見開いた。その手には彼の武器である棘つきのハンマーが握られていて、大方施設の人間が追いかけてきたとでも思ったのだろう。
「わたしも、連れてけ!」
懐から取り出したポケットナイフを振りかざす。受け止めた楽くんは「ちょ、何戻って来てんだよ……!」とあからさまに動揺した。
「何にも言わずに、いなくなろうとするから!」
「言ったところで無理だって!」
「なんで!?わたしが弱いから!?」
「……そうだよ!」
振り回されたハンマーを紙一重で避ける。前髪の先が切られる感覚。飛んできた風が熱い。本来ならこんなところで喋っている暇はないくらいに火が回っている。
「一緒には来んな。お前なら、普通に生きれるだろ」
「……分かんないよ、普通ってなに」
「そりゃ、えーっと……。こんなとこでの暮らし全部忘れて、痛い思いもせずに、毎日美味い飯食えて……」
「やだ」
「は〜〜?俺がこんだけ説明してんのに即答かよ」
「だって、ずっと一緒って言った」
「……」
楽くんが、何かを思案するように瞼を伏せた。そういうところも、優しいと思う。そんな約束覚えてないって、突き放してもいいのに。
と、不意に荒い息遣いが近づいた。振り向くと、施設の人間が泣きながら走り逃げている。楽くんは何かを思いついたみたいに指を向けて、「じゃあさ、そいつ殺せよ」感情のない瞳で告げた。
どくんと心臓が音を立てる。
殺す?懸命に逃げ出そうとしてる、この人を?
体が震える。楽くんを見つめたわたしの瞳は動揺に揺れている。。
「できねーだろ。お前は人を殺せない。だから」
そこまで言われてようやく、彼らが向かう先がどんな場所か分かった気がした。その未来にあるのは殺戮の日々。わたしが嫌いな『痛いこと』だらけの日々。そこはわたしにとって息苦しい世界なのかもしれない。でもね、それでも。
体の震えを抑え込んで。楽くんの隣を通り過ぎた男へと、ナイフを投げつける。切っ先は頸動脈に命中して、「あぇ……?」情けない声をあげて男はくず折れた。
「……何で」
「……大丈夫、殺せるよ。楽くんと一緒にいられるんだったら、なんでもできる。だから、ずっと」
一緒に、という言葉は続かなかった。視界が暗い。楽くんの匂いがする。「あ゛ー、もう……」溜息が頭上から降ってきて、ああ、わたし、楽くんに抱き締められてる。
「きっと、地獄みたいな毎日になるのに」
「……ならないよ。だって、楽くんがいるもん。痛いのなんて、怖くないよ」
「……うん」
いつかの時と同じように。彼の言葉が震えていたのには、気づかない振りをした。
抱擁を解いた楽くんが、「そろそろヤバイ。早く行こ―ぜ」と手を差し出した。炎がさっきよりも強くなっている。「うん」頷いて、彼の手を固く握る。この手を絶対に離したくないと思った。子どもの馬鹿げた約束が、きちんと叶うように願った。
二人揃って外に出たら、憬くんは一瞬驚いた表情をしたけれど、すぐに何かを懐かしむように微笑んだ。彼はわたしに「ついて来るな」とは言わなくて、「それじゃあ行こうか」と、他の施設のメンバーを率いて雑木林の方へと進む。
楽くんは相変わらずわたしの手を握ったままだった。いつか彼と食べた枇杷の木を通り過ぎて、もう二度とここには戻ってこないのだろうな、なんて感傷に浸った。苦しいことの方が多かった場所だけれど、全部燃えちゃうと悲しいと思ってしまうのは人間の性だろうか。
燃え盛る施設から離れるにつれ、空気が肌寒くなってきた。くしゃみが出る。「寒みぃ?」心配そうに尋ねられて、「ちょっとだけ」と答えたら身を寄せられた。ヒュ、と喉が鳴るけれど、幸いにも誰もこちらを見ていない。だから、わたしも甘えてみることにした。触れあったところから伝わる体温はどうしようもなく温かいから、わたしたちは今日からも、人間みたいに生きていくんだろう。
2023