11
奥の部屋とを繋ぐ扉が開けられたのは、名前が男に体の自由を奪われてすぐのことだった。
「貴様ら、いい加減にし――」
不機嫌さを隠そうともしない叱責は、ぶつりと途切れ、男は倒れ込む。花のような赤が散る。続けて華奢な人影が部屋の向こうへと消えた刹那、名前は部屋の向こうにその姿を見た。
女優のようなスタイルの女と寄り添う背の高い男。南雲だった。彼の視線が名前へと向けられ、その目が僅かに見開かれる。
――助けて。
嘆願は、音になったか、ならなかったか。
背後から男の重みを一層感じる。気味の悪い吐息がかかって、ぞわりと体を震わせた直後。
不意に、体がふっと軽くなった。
「名前ちゃん」
「南雲、くん……?」
優しく抱き寄せ、顔を覗き込むのは南雲だった。その目の奥に、微かな焦りが見え隠れしている。
いつのまにか、名前に覆い被さっていた男は、少し離れたところで意識を失っていた。
「良かった……」
掠れた声で、南雲が安堵の息を零した時。
「ひうっ」
「えっ」
短い悲鳴を上げ、名前が震え上がった。
動揺した南雲を引き剥がすようにして、名前は懇願した。
「や、だ……耳元で、喋んないでぇ……っ」
潤んだ目、紅潮した頬、震える体。南雲に助けられたことで緊張が解け、薬の効果をより感じるようになったのだろう。
彼女の様子に、南雲もすぐに薬を飲まされたことを理解した。先程の女からこっそり拝借した解毒剤を取り出し、その口元へと近づける。
「名前ちゃん、これ飲んで。解毒剤だから」
「ぅ……」
頷いた彼女が、試験官のような形の小瓶に口をつける。が、どうにも上手く飲み込めない。唇の端から解毒剤が溢れるのを見て、南雲は僅かに焦って。
「零さないで」
と、口元から垂れた液体を掬い、濡れた指を舐めさせようとする。けれど、その口元に触れた瞬間「ぁっ」と名前は益々甘い声で泣いた。
(……っ、酷くなってる)
このままでは拉致が明かないと、南雲は解毒剤を自身が呷った。そして、最早熱に浮かされ頭が働いていない名前へと、口移しで飲ませようとする。
「〜〜ッ!」
ビクリと名前の体が跳ね、南雲の胸板を押しのけようと腕を伸ばす。けれど当然、その体はびくともしなかった。
南雲にすれば、一種の医療行為だ。とはいえ敏感になった名前の体にしてみれば深いキスは快感を煽るものでしかなくて、段々と彼女は南雲にしがみつくような体勢になった。
(ぁ、やだ、やだやだ、変になる……っ)
そんな風に、名前の体が一際跳ねた時、ようやく彼女の口内からは解毒剤がなくなっていた。全部飲み込んだのだ。「はっ」と互いに荒い息を零し、南雲は名前の様子を確認する。女の話に寄れば、解毒剤は即効性のもの。直によくなるはず。
程なくして、名前の呼吸は落ち着いた。
「……大丈夫?」
問いかけた南雲に、名前はこくりと頷いて。それからすぐ、自身の霰もない格好に飛び上がり、かと思うと「ごめんなさい」を繰り返した。
南雲が息を吐き、自分のシャツを羽織らせた。それから、「もういいよ。何しようとしたのかは分かるし」と視線を逸らす。その先にはアカリが倒れ込んでいた。部屋の中はかなりの惨状で、その現実離れした出来事に意識を失ってしまったのだろう。慌てて近づこうとする名前の腕を南雲が掴み、
「またあの子を助けようとしたんでしょ。無茶するね」
名前は押し黙る。言い訳なんてなかった。
奥の部屋からは、相変わらずの騒音と悲鳴が響いていた。思わず覗こうとしてしまった名前の視界はすぐに真っ暗になって、「見なくていいよ」と声が降る。ひどく落ち着いた声だった。
「少し待ってて。僕がいいって言うまで、目は開けちゃ駄目だよ」
念を押され、名前は言われた通りに瞼を閉じた。
南雲は奥の部屋へ向かう。至る所に血がべっとりと飛び散っていた。まるでペンキだ。その中心に佇む女は、今まさにカーテン越しの支配人の息の根を止めようとしていた。
「ま……て、金も、薬も、いくら、でも……っ」
喉元を押さえつけられ、口から泡を噴きながら、男は見苦しく懇願する。そんなものを、全てを奪われた女が聞き入れるはずがなかった。
高級そうなスーツが唾液で汚れる。男の顔がどんどん青くなり、白目をむく。そうしてようやく、女は男から腕を離した。
暫くすると薬の効果が切れたのか、女は力なくよろめき、背後の気配に振り向いた。仄暗い目をした南雲へと、うっすらと笑みを浮かべる。
互いに同業者であることは理解できた。害をなすつもりがないことも。
女は「逃げなさい」というように扉の向こうを指差した。それから、しゃがみ込んで男のスーツを漁ると、見惚れるほど優美な仕草でマッチの火をつけた。部屋の中には、男が飲んでいたアルコール度数の高い酒類が散らばっている。火の勢いは簡単に強くなった。
女は火の手の中で動こうとしない。自死をするつもりなのだと悟ったが、南雲は何も言わなかった。
殺し屋。女。体には多量の痣。ここに囚われていた彼女が何をされていたかは、想像に容易い。そして、おそらく、その雇い主は――。
「……お疲れさま」
ぽつりと呟くと、女は美しく微笑んだ。寂しさと、やるせなさと、けれど、ほんの少しの満足感を湛えて。
元の部屋に戻ってすぐ、南雲は名前とアカリを抱えた。部屋から廊下に出ても惨状は続いていて、こちらは最初に暴れた男が原因なのだろう。
「名前ちゃん、まだ閉じたままで」
「……うん」
名前が一層きつく瞼を閉じた時、悲痛な声が耳に届いた。
「死にたくない……、死にたくない……ッ」
腹部から血を流しながら床を這いずるのは、南雲らを案内したアサダであった。脚は折れているのか、変な方向に曲がっている。この怪我ではおそらく、地上まで辿り着けないだろう。
火が届くまではまだ少し時間がある。南雲は手当たり次第に部屋を開け、クローゼットの中にワンピースを見つけると、名前に着るように指示をした。流石にこの状態で外に出れば目立つ。シャツは自分が着直してから再度二人を抱え、今度こそ階段を昇った。
クラブへと出ると、南雲らよりも先に逃げた者たちが何名かいたらしく、場は僅かに騒ついていた。逃げた者たちは皆、薬の利用者のようで、呂律が回っていなかったりと様子が明らかにおかしい。その間を抜け、外へ出る。
「名前ちゃん、もういいよ」
クラブから離れた路地裏で身を隠すようにして、南雲は名前の体をそっと下ろすと声をかけた。名前がゆっくりと瞼を持ち上げ、ようやく戻ってきた日常の風景にほっと息を吐いた。
「知り合いに迎え頼むから、ちょっと待ってて」
「え、そんなの」
「流石にこんな状態で一人では帰せないよ」
苦笑した南雲は続けて、
「こっちの子も、今度はうちで保護するようにするから安心して」
と付け加えた。
南雲の言う「うち」が何のことか、名前には分からない。それでも、もう彼のことを信用しない理由はなかった。
南雲がスマートフォンを取り出し、何やら連絡を取っている。それから程なくして、路地の先の通りに車が停められた。リアガラスもサイドガラススモークフィルムで覆われているうえ、素人でも高級車だと分かるつくりだった。
南雲が近づくと、自然と窓が開けられた。どうやら外車のようで左ハンドルらしい。南雲が運転手と一言二言交わし、後部座席の扉を開けた。
「先に名前ちゃんの家まで送るから、その人に住所伝えてね」
「分かった」
「それじゃあ」
くるり、と背を向けた南雲を見て、名前ははたと思い出した。
(わたしまだ、この人にお礼言ってなくない?)
恐ろしい出来事が続いたことですっかり忘れていたけれど。南雲は、言いつけを守らなかった自分を怒るどころか助けてくれて、その上アカリも保護すると言ってくれて。
「南雲くん!」
慌ててその腕を掴むと、ぎょっとした彼が振り向いた。
「びっくりした。どうしたの?その運転手さん、怖い人じゃないよ〜」
「や、そんなことじゃなくて。その……、色々と、ありがとう」
一瞬、南雲の瞳が動揺に揺れた。が、彼はすぐにそれを奥底へ隠し、にっこりと笑う。
「気にしないで。気をつけて帰るんだよ〜」
そう言って、扉が閉まり発進する車へとひらひらと手を振る。
少しして車が見えなくなると、南雲はクラブに戻りながら息を吐いた。
「……ありがとう、か〜〜……」
お人好しにも程があるというか、呆れて乾いた笑い声が出た。
(あの子、僕のせいで巻き込まれたってこと忘れたのかな)
無垢なお礼を思い出し、少しだけ罪悪感を覚えてしまったのは、いざと言う時は名前を見捨てても良いとひっそりと考えていたからか。
複雑な気持ちになりながらクラブに辿り着いた時には、炎はかなり広がっているようだった。サイレンの音が近づいきているので、消防車や警察は間もなく到着するだろう。ここから先はもう、彼らの仕事だ。こうも人目についてしまえば、フローターでは対処しきれない。
炎の海が広がっていく。その中で蠢いていた闇の商売は、表舞台に出ることなく、灰になっていく。