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 長引く残暑がようやく落ち着いてきた九月の下旬、後期が始まると同時に一人の女の子が復学した。実家の事情で休学していたという彼女は、本来であれば名前たちよりも一つ上の学年で、関西弁に大きなピアス、腕と鎖骨から覗く薔薇のタトゥーが特徴的な女の子だった。

(綺麗なタトゥー)

 ベイクドカラーの七部袖から見えたタトゥーに、名前は純粋に感心した。少しだけ、南雲を思い出しそうになる。

「すずめ言います。よろしく」

 吊り目がちな瞳は、笑うときゅっと細くなった。無愛想な感じはしない。
 ただそれでも、その外見は一般的には受け入れ難いらしい。名前と同じ研究室のメンバーは遠巻きに彼女を見るだけだった。
 そんな状態であるにも関わらず、教授は「実習のグループ作るぞー」と小さな箱を取り出した。上部が丸くくり抜かれており、中には番号の書かれた紙が入っているらしい。誰かが、「好きな子と組ませてよ」とか「番号順でいいだろ」とぼやいた。
 くじを引いた人から、「何番だった?」「4番」「あ、4番私!」と口々に集まっていく。最初に引いたすずめは、静かに後ろの席に座っていた。

(グループ実習って苦手やわ)

 すずめ自身、自分が距離を取られがちなことは理解している。その方が良いということも・・・・・・・・・・・・
 ぼうっと佇む彼女の元へ、名前は臆することなく近づいた。そして、彼女の手元にある紙を覗き込むと、「3番だ。わたしもだよ」と話しかける。すずめは、少し驚いたように名前を見上げた。その視線を受け、名前は不思議そうに首を傾げる。

「……タトゥー怖ないん?」

 問いかけられ、名前の脳裏には南雲の姿が浮かんだ。

「うん。……友達も、してるから」

 もう会うこともない彼のことを友達と呼ぶのはおかしいのだろうけれど。それ以外に表現する言葉が名前には思いつかなかった。

「ふぅん?」

 すずめが相槌を打って道具を避ける。その隣に「よろしく」と座った名前を見て、他のメンバーもおずおずと集まった。



 研究室にいる教授の所へ寄ってから講義棟を出ると、構内が少し騒がしいことに気がついた。賑やかだな、とその様子を横目にした名前の元へ、ひとりの知り合いが駆けてくる。

「名前ちゃん、名前ちゃん。なんかイケメンが探しに来てるよ」
「イケメン……?」
「ほら、前も大学に来てなかったっけ?」

 その言葉に驚き、思わず小走りになる。女の子に囲まれた背の高い男性は名前に気づくと軽く手をあげて、

「久しぶり〜」

 記憶の中とちっとも変わらない笑顔を向けた。間違いない、南雲だ。
 名前は開いた口が塞がらない。まさか、また会えると思っていなかった。

「何で?」

 真っ先に飛び出した言葉はその一言だった。
 何で連絡のひとつもしてくれなかったの。何で今更会いに来てくれたの。
 南雲はのんびりと「ちょっと近くで用事があったからさ〜」と微笑んで、「カフェでも行かない?」と誘った。

「えっ」
「……嫌?」
「嫌じゃない、けど」
「じゃあ決まり〜」

 一層笑みを深くした彼が、「早くおいで」というように手招きをする。名前の心臓は大きく鳴って、彼の傍を歩くのにやたらと緊張して。
 だから、彼女は気がつかなかった。「名前」と、自分を呼ぼうとした声があったこと。グループ実習での忘れ物を届けようとしたすずめがすぐ近くまで来ていたこと。
 すずめは、名前の隣に立つ男の姿に目を見開き、すぐに棟の影へと身を隠した。その一瞬、彼女の存在に気づいたのは南雲だった。彼もまた、すずめと同じく、何かに気づいたように目を見開いて。

(今の……)

 袖から覗いた腕に彫られていたのは、特徴的なタトゥー。それをはっきりと思い描きながら、南雲は名前に問いかけた。

「名前ちゃん、この大学に薔薇のタトゥーしてる女の子いる?」

 南雲の隣を緊張しながら歩いていた名前は、その端正な横顔を見上げて「すずめちゃんのこと?」と聞き返した。続けて、

「大学にいるひと全員知ってるわけじゃないけど、そもそもタトゥー入れてる女子は他に見たことないし……」
「そのすずめちゃんってどんな子?」
「今日復学したばっかで、わたしもよく分かんないよ。グループ実習は同じになったけど」
「ふぅん」

 興味深げに相槌を打つ南雲に、名前は不思議そうに首を傾げて、「知ってるの?」と尋ねた。

「ううん」

 動揺のひとつもなく、当たり前のように南雲は否定する。

「さっきそこ通りがかって、お洒落だな〜と思っただけ」

 穏やかに笑った南雲はあまりに自然で、名前はあっさりとそれを信じた。彼女自身、すずめのタトゥーは綺麗だと感心したし、同じようにタトゥーを刺れている人間からしても目を惹くものなのだろうと。

「綺麗だよね、薔薇のタトゥー」
「ね〜〜」

 にこにこと歩く二人は、穏やかな日常に溶け込んでいる。



 二人の姿が見えなくなった頃、講義棟の裏ですずめは考え込んでいた。その脳裏に男――南雲の姿を描き、同時に、自分の側近ともいえる男から見せられた一枚の画像を思い出す。

(あいつ……店のカメラに映っとった……)

 数ヶ月前、都内で炎上事件が起こったクラブ。その地下には、すずめの父の仕事に関与する場があった。設置されたカメラはほとんど全てが炎で焼き尽くされ使い物にならなくなっていたが、唯一入手できた画像に映っていた男は、先程名前の隣にいた人物によく似ている。否、十中八九本人だろう。

(タカツキの話やと、女と一緒に潜り込んだ言うとったな。ほんなら、まさか)

 すずめは、自分に無邪気に話しかけてくれた名前のことを思い出す。
 あの笑顔の裏には、何か別の思惑あるのではないか――。
 そんな風に疑う彼女の瞳は、自然と鋭く、暗いものになっていた。