04
日中もすっかり涼しくなり、街路樹の木々が紅く色づくころ、名前は南雲と二人、水族館へ出かけることになった。南雲はあれからもたまに会いにきており、アカリの近況について話してくれることがある。
水族館はひやりとした沈黙に支配されていて、その静けさが心地よい。まるで海の中にトンネルを作ったかのような通路の中、四方を行き来する魚を眺める南雲の表情が水面の光を受けてゆらりと揺れた。頭の中を掻き回すような音が流れていたクラブと対照的な空間でも南雲は上手く溶け込んでいて、名前はそのことに妙な気分になった。こうして見ると、顔の良いただの一般人。
「僕じゃなくて、魚見なよ」
小さく笑って、南雲が名前の方を向く。「見てるよ」と、恥ずかしさのあまり否定した彼女に「嘘だぁ」と南雲が笑う。視線を逸らして距離を取ろうとした名前はすぐ近くを通りがかった男性にぶつかりそうになって、それを慌てて南雲が引き止めた。
彼はそのまま、「危ないなぁ」と小言を告げ、名前の手をするりと握る。骨張った大きな手に掴まれて、名前の心臓がどっと音を立てた。それこそ、この空間に、響くんじゃないかと思うくらい。
「……手」
と、彼女は辛うじて口にする。その一言に何を伝えたいか理解した南雲は、より一層掌に力を込めると、「君、そのうち階段で転けたりしそう」と揶揄うように言った。
女の子たちが、小声で「今の人かっこいい」「背、高。隣彼女かな」と会話しながら通り過ぎる。名前は俯いた。ほら、デートだって勘違いされてる。そう言わんばかりの態度だった。ただそれでも、彼の手を振り払おうとはしなかった。
暗がりでも誤魔化せないほどの赤い顔を楽しそうに眺めながら、南雲は名前の手を引く。
水族館の外、大きなステージで行われるイルカショーを見たいと言ったのは名前だった。背が高いからあんまり前はね、と後ろの席に座った南雲に合わせ、名前もその隣に座る。それが逆に目立ったのか、イルカとの触れ合い体験とやらに選ばれた数名の中には名前も入っていた。「イルカに触りたいひと〜!」と、元気よく問いかけたトレーナーの声に颯爽と手を上げた彼女は、「一番後ろのお姉さん!」と呼ばれることになったのだ。
「待ってすごい、つるつるしてる……!」
イルカの黒い皮膚を撫でながら、感動したように彼女がはしゃいだ。まるで子どもだ。きゅーきゅーと鳴き声をあげるイルカにうっとりする彼女へ、トレーナーは「イルカとキスできますよ」とにっこりとした。したい、と名前は目を輝かせて即答した。トレーナーの指示に従いながら、おずおずと頬を近づける。
イルカのつんと尖った唇が、名前の頬に触れた。彼女はくすぐったそうに目を細めて、あは、と小さく笑い声を零す。その唇の端に、イルカはもう一度触れた。
「かわいい〜!」
と、名前は黄色い声をあげたが、直後、イルカは微妙に気まずそうに体を引っ込めた。名前の背後にいた南雲の目が暗く据わっていたからだが、彼女はそれに気づかない。
「すごいね、イルカ。ふふ」
イルカにキスされた頬と口元を嬉しそうに指でなぞり、名前は言う。南雲は一瞬、その口を塞いでやりたい気分になって押し黙った。
何にムカついてるんだろ、とちょっとだけ眉を寄せ、名前の手を引きステージを離れる。
・
夕食は南雲が選んだ良いところの和食屋だった。個室での食事がひととおり終わると、南雲は「はい。今日のお礼」と、いかにも高級そうなアクセサリーの包みを差し出した。名前は目を白黒させる。
「む、むり……」
「無理ってなに」
いっぱいいっぱいの反応に南雲はけたけたと笑ったけれど、ふと真面目な顔になると、「受け取ってもらえなかったらごみになるだけ」なんてさらりと言った。
「う、うぅ〜……」と名前が唸り声をあげる。そんなことを言われては、受け取らないわけにはいかなかった。
「ありがとう、ございます……」
「良かった〜。じゃあ、今開けてもいい?」
「え」
「イヤリングなんだ〜、つけてあげる」
名前が返事をするより早く、南雲は美しくラッピングされた包みを開けた。ダイヤの形をしたカラーストーンが華やかなイヤリングで、明らかに高級感に溢れている。
(絶対高いやつ……!)
名前は悲鳴をあげそうになったが、前述のやりとりもあって今更「いらない」と拒むことは難しかった。石のように固まってしまった彼女に気付いてか気づかずか、南雲は長い指でイヤリングを挟み込む。それから、名前の耳たぶにそっと触れた。
「うん、似合ってる」
慈しむように目を細められて、名前は照れ臭さに俯いた。
ありがとう、と辛うじて零すお礼の言葉。それを受けて、南雲は「肌身離さずつけてね〜」なんて言う。
「また冗談……」
「冗談じゃないよ、男避けだから」
真剣な声音で告げられた言葉に、名前は耳まで顔を赤くすることしかできなかった。