03


 大学を後にした二人は、名前の住むアパートへと移動した。「二人きりになれるところで」と指定したのは南雲の方だった。大事な話をするから人に聞かれない方が良いと言われ、その話が数週間前の出来事に関係するものだということは簡単に察せられた。
 最初こそ、名前は南雲を部屋に入れるつもりはなかった。彼女のアパートは三階で、入り口の扉以外からは逃げ出せない。人目のある場所の方が良いと言い返そうとしてはた・・と思い出す――出会った頃に目にした、彼の人間離れした動きを。例えどんな場所だろうと関係なく、南雲は自分を、或いは周りの人間を、捕らえることも殺すこともできるに違いない。そう思ったら途端に思考することが面倒臭くなって、大学からも近く簡単に二人きりになれ、且つ自分が落ち着ける部屋で話すのがベストだと考えたのだ。
 大学を出ると同時に合コンの主催者には謝罪の連絡を入れた。もう二度と誘ってくれることはないかもしれないと思うと後悔の念がふつふつと沸いたが、どうせ行ったところであの現場を目撃した男子勢に困ったように笑われるのが関の山だ。

「お茶とか出しませんよ」
「あ、おかまいなく〜」

 手狭な1Kの部屋の真ん中。脚が折り畳める小さなテーブルの前に南雲は座り、向かい側に名前も腰を掛けた。その下には、南雲の元にはない薄桃色のクッションが敷かれている。当然のように彼女自身がクッションを使う様を見て、南雲は「君って図太いよね〜」と笑った。
 それから、不意に彼の指が目尻に伸びる。名前の体は一瞬強張ったが、悲鳴を上げることもその手を払い除けることもなかった。一層笑みを深くした南雲は名前の涙袋あたりに触れながら、

「もっとやつれてるかと思ったんだけど」
「……ちょっと前までは、クマがすごいことになってたけど。最近は、まあ……」
「慣れたんだ?大概だね〜」

 くつくつと肩を震わせた南雲に名前は眉を寄せる。馬鹿にされているわけではなさそうだが、褒められているわけでもない。彼の目の奥には、比較的純粋な好奇心が見え隠れする。
 一向に本題に入ってくれない南雲に痺れを切らし、名前は「そんなことよりも」と口火を切った。一体何の話かと急かす彼女に対し、南雲は相変わらずゆったりと構えている。

「あの時君といた友達。今どうしてるか知ってる?」

 名前は眉間に皺をつくる。結論だけを先に言ってくれればいいものを、南雲は遠回しに伝えてくる。彼の態度と相まって掌で転がされているような気分になり、それがどうしても気に触る。
 とはいえ、ここで名前が答えなくては話は進まない。彼女はゆっくりと頷くと、

「実家に帰ったって聞いてる」
「ふうん?」

 微妙な相槌をした男は、今度はつまらなさそうな顔をしている。失望したとでも言いたげな目が名前に向けられた。

「それを信じたんだ〜?」
「……は?」

 煽るような口調で言われ、思わず低い声が出た。
 信じるも何も、名前自身あの友人が実家に戻るのに付き添った。簡単な事情の説明と、途中で彼女が逃げ出さないか見張るために。確かにその後の「休学する」「暫くは実家で休む」といった最終決定の連絡は大学の教師から聞いたことではあるが、彼らを疑うつもりはない。ない、のに――。
 妙な胸騒ぎがして、名前は無意識に服の裾を握りつけた。
 ――本当に、あれで全部が終わったと思う?
 頭の中で繰り返し問いかけられる言葉がある。あの日から、きっと大丈夫だと、心配事のほとんどは起こらないからと、奥底に仕舞い込んだ不安がある。
 気がつけばこめかみから汗が流れ落ちていた。その様子に南雲も気づいているだろうに、「ま、信じるならそれでもいいんだけど〜」と相変わらずの軽い口調で、

「じゃあこれは、別の子かな」

 ズボンのポケットから取り出された写真に、名前は息を呑んだ。
 どこかのクラブだろうか。少し動くとぶつかるんじゃないかというくらいにたくさんの男女が、カラフルなライトの中で踊っている。その、中。見るからに怪しい黒塗りの扉の奥に向かっている少女は、あの日助けたはずの友人に違いなかった。アカリ。今は実家で休養中だと聞いていた、大事な友だち。

「なんで……」

 ぽつりと言葉が零れたけれど、名前はその理由を知っていた。
 目の前の男やアカリを追いかけていた彼らはきっと、裏社会に通ずる人間だ。自分達とは生きている世界が違う人間。倫理観は元より、持っている情報も、目的を果たすための手段も、きっと名前には想像できないほどにある。
 案の定、南雲は呆れ顔で言った。

「こんな一般人、連れ出すなんて簡単にできるよ。君のことだって、今ここで殺すのに一秒もかからない」

 常闇みたいな瞳が名前を射抜き、彼女は歯を食い縛ってそれを睨み付けた。
 悔しい。きっと無事だなんて、そんな願望を無意識のうちに信じ込んでいた。それで恐怖から目を逸らそうとした。なんて愚かで、稚拙だ。
 掌をきつく握りしめ、せめてこの男の視線から逃げてたまるかと真っ直ぐに前を向いていると、不意に南雲はにこやかな笑みを浮かべた。

「やっぱり君、図太いね〜」

 くつくつと肩を震わせた彼は、不意に真剣な眼差しになると、「この子のこと、助けたい?」普段よりも少しだけ低い声でそう尋ねた。
 名前は間髪いれずに頷き、南雲はその返答を予想していたかのように目を細めた。

「だったら、一緒に来てほしいんだけど」