05
ラブホテルの一室のような個室の扉が閉まってすぐ、名前はほっと一息ついた。ひとまず案内役の男――アサダが何も言ってこなかったことに安堵したのだ。
ベッド脇にはガラス張りのアンティーク棚があって、その中に小瓶が並んでいる。透明の液体は水のように見えるけれど。名前はここに来るまでの後継と先程の男の言葉を思い出しながら、ゆっくりと瞬きをした。「例のモノ」なんて怪しい言い方をされていたのだから、下手に触らない方がいい。これは、そういう薬だ。
「触っちゃだめだよ。それに限らず、部屋の中にあるものは全部」
「全部?」
「そう。お茶とか、珈琲とか。その辺のも危ないから」
さらりと言うが、名前は最早眩暈を起こしそうだった。ここにくるまでの間に色々なことが起こりすぎて、恐怖やら緊張やらで既に喉はカラカラである。一人泣きたくなっていると、「ほら」と未開封のペットボトルが投げられた。どうやら隠し持ってきていたらしい。
「あ、ありがとう……」
「それしかないからね、大事に飲んでよ〜」
言いながら、南雲は部屋中を物色している。さて自分はどうしたものかと挙動不審になる名前に、彼は「座ってなよ」と促した。おずおずと椅子に座り、とりあえず南雲の様子を眺める。潜入はできたものの、ここからどうするつもりなのだろう。
ひとしきり部屋を見て回った南雲も、名前の向かい側の椅子に座った。足が長い、と恨めし気に見つめる名前の視線を咎めることなく、彼は「暫くしたら出て行くから、その後は寝た振りでもしていて」とベッドを顎で示した。
それはつまり、名前の役割はここまでだということ。
「……なあに、その顔。心配しなくても、全部終わったら迎えに来てあげるし、君の友達?だっけ。あの子も、見つけたらちゃんと助けてあげるよ」
自分でも気づかない内に不服そうな顔をしてしまった名前へと、南雲が続けた。
南雲はきっと、そこまで悪い人間じゃないと、名前は思う。女を使って潜入することだけが目的なら、この部屋に入った時点で自分を殺してしまえば良い。「思ったより抵抗されたから殺した」とでも言えば、さっきの奴らはあっさりと納得するのだろう。それをしないということは、今の言葉も守ろうとしてくれるに違いない。ただ、それでも。
「でも、仕事が優先でしょ?」
南雲の瞳がすっと細くなる。黒い瞳が一層暗く光る。間違いなく、肯定だった。
「だったら、わたしが」
「君が?」
言葉を遮られ、サッと血の気が引いた。いつの間にか彼の指が首元を覆っていて、ひゅ、と乾いた音が漏れる。
「助けに行くつもり?さっきみたいな連中を掻い潜って?本気で言ってるなら、相当頭悪いよ。どうせすぐ見つかって無理矢理薬飲まされて、ここに来る途中いた奴らに輪姦され――」
と、南雲はそこで言葉を切った。首元に置いていた手を離し、探るように扉の向こうに視線を向ける。何かに気づいたのだ、ということは名前にも分かった。けれど彼女の耳は何の音も拾わないし、彼女の目は何も写さない。人の気配なんて抽象的なものも、感じとれるはずがなかった。
「こっち」
「え、わっ」
唐突に腕を引かれ、名前の体はベッドに沈む。続けて、トップスが取り払われて、滑らかな肌が露わになった。
「や、なんで」
目を白黒させ、肌を隠そうとする名前に南雲は冷静なまま、「多分入ってくる」と短く告げた。
「うそ、なんで」
「いいから黙って。やってる風にみせたら誤魔化せるから」
「や、やってる風って、ぁっ」
南雲が名前の首筋にキスを落とす。慣れた手つきで彼女の体を愛撫しながら、彼も服を脱ぎ去った。細いながらに筋肉のついたしなやかな体躯が露わになって、名前は息を呑む。
「顔真っ赤。……かわいい」
わざとらしく言った南雲が、再び名前の体に顔を埋める。キスをされ、時折噛みつかれ、僅かな痛みが走る。知らず知らず、彼女の体は熱を帯びる。
かちゃり、と扉の鍵が回る音がした。「ルームサービスです」淡々とした声と共に、人影がひとつ入ってくる。帽子を目深に被った若い男だった。
「恥ずかしがらないで、全部見せてよ」
男に聞こえるように、けれど怪しまれないごく自然な態度で、南雲は甘く囁いた。その一瞬、彼は扉の方へと視線を向ける。それは、部屋に入った男が悟ることもないくらいの刹那。南雲は男と自分たちとの距離を目算で測り、彼の視界を想定して。男の目が自分たちを映す完璧なタイミングで小瓶を呷り、名前の唇を奪った。
「んっ……!」
息ができないくらいに強く塞がれ、名前は否応なしにその液体を飲み込む。彼の手にある小瓶はどう見てもアンティーク棚に並んでいたものと同じで、名前は血の気が引いた。それとは裏腹に体の奥が熱くなる。ようやく唇を離された頃には、その目は涙を浮かべてとろりと濡れていた。飲み切れずに零れた液体が口の端からぽたりと垂れる。間違いなく、今から抱かれる女の姿そのもので、その様子は男の目にもはっきりと映る――否。
「……何?」
まるで今気づいたと言わんばかりの態度で、南雲が振り返る。それと同時に、彼は名前の姿を隠すように抱き寄せ、ブランケットを引き上げた。男は僅かながら名前に見惚れていたようだったが、すぐに己を律して、
「お楽しみの最中に申し訳ありません。ルームサービスをお持ちしました」
「頼んでないよ」
間髪入れず南雲は否定したが、男は怯まなかった。「個室の皆様には、特別にお届けしております」テンプレートであろう言葉を発して、受け取るようにと催促した。男が運んできたサービスワゴンには、見栄えの良いケーキやクッキーが乗っている。大方、中に媚薬の類が混入されているのだろう。
南雲は小さく息を吐くと、「そういうことなら貰うけど」と、テーブルを指した。すぐに意図を察し、男が皿を丁寧に並べる。
それを横目に、南雲は再び名前に触れた。ちゅ、ちゅぅ、とわざとらしくリップ音を響かせながら至る所にキスを落とす。先程例の液体を飲まされたせいか、名前の体は熱くなったままだった。力も上手く入らない。彼が口づけをする度に、熱っぽい息を零すだけ。
「……ねえ」
男が全ての軽食を並び終えたところを見計らって、南雲は声をかけた。男が短く返事をして振り返る、瞬間。
「ッ!」
その頬を、ナイフが鋭く掠めた。ツ……と一文字の傷跡が入り、赤い血が流れ落ちる。
「もう勝手に入ってこないでね?わざわざ個室お願いしてるんだし」
にこりと微笑みつつも、有無を言わさない威圧感で南雲が言った。相変わらず名前の姿を隠すように構えている彼に、男は悟る。
(個室にしたのは、女の姿を他の奴らに見せないためか)
この忠告を無視すれば、自分も無事では済まないだろう。
そう判断し、彼は頭を下げて頷いた。
「……承知いたしました。失礼いたします」
男が背を向ける。南雲は再び名前に覆い被さり、リップ音をたてながらその体を愛撫した。艶めかしい情景に、けれど男は一切振り返ることなく、扉を静かに閉めた。