06


 南雲らの部屋にルームサービスを運んだ男は、長い廊下を抜けて従業員専用の部屋の扉を開けた。「おかえりなさい」と柔和に迎えたのは、南雲と名前を案内した男、アサダだった。

「例の二人の様子は?……おや、どうしたのです、その頬の傷は」

 よく手入れされた髭を撫でながら尋ねた彼は、若い男の頬から血が流れているのを確認して瞬きをした。問われた男は掌で頬を乱暴に拭うと、

「男の方にやられました」

 若干の痛みに顔を顰めながらもそう答えた。

「薬も飲んでいたので問題ありません。邪魔はされたくないようで、次勝手に部屋に入ったりしたらこれだけでは済まないようです」

 頬の傷口を指しながら報告する若い男に、アサダは「そうですか」と息を吐いた。

「大金を払って個室を選んでいるわけですから、ある意味当然の反応です。扉を開けてすぐ殺された同志もいるくらいですから。とにかく、薬を飲んでいたのなら大丈夫でしょう。……全く、彼らのせいで余計な仕事ができたものだ」

 憤りを隠そうともしない声音で呟き、彼は部屋の奥へと目を遣る。
 檻の中に男と女がひとりずつ、裸で転がされていた。どちらも体中に痣や傷をつくっているうえ、その手足は枷で縛られている。
 彼らは一ヶ月程前、恋人のフリをして潜入してきた殺し屋たちだ。この店の裏の支配人であり薬の製造にも携わっている男の殺害を目論んでいたようだが、試みは失敗に終わり、囚われの身となっている。挙句――、

「雇い主……、所属していた殺し屋の組織は、壊滅しているんですよね」

 若い男は、動物を見るような視線を二人に向けたまま、抑揚のない声で言った。

「ええ、つい先日」
「組織の情報を聞き出すために生かしたものかと思っていましたが……」

 そう言う彼の脳裏に、自白剤や媚薬を飲まされ、いたぶられる二人の姿が思い出される。特に、女の。それまで反抗的な目で武器を構えていた女が、快楽に溺れた表情で髪を振り乱し腰を振る様は、滑稽であると同時にひどく興奮を覚えたものだ。
 女はその状態で組織に関わる情報をぼろぼろと吐き、結果、彼らの所属組織は壊滅した。最早生かす価値はないのではないか、というのが男の本音である。が、

「もちろん第一の目的はそれでしたが。使い道は、まだまだある」

 卑劣な笑みを浮かべてアサダが答えた時、ドン、と扉が開いた。怪しげな薬をいくつも持ってきた者たちが現れ、彼は「ちょうど時間ですね」と檻の鍵を渡した。不気味な笑い声で受け取った男と女は、それぞれ檻の中へと入り、ぐったりとした二人に無理矢理薬を飲ませた。
 その様子を眺めながら、「なるほど」と若い男は頷く。

「理解が早くて助かります。貴方も混ざりますか?」

 下卑た笑みでアサダが提案する。その向こうで、動物のような嬌声が上がり始めている。



 部屋の扉が閉まり、廊下を歩く男の気配が完全に消えてから、南雲は「もう大丈夫だよ」と、ブランケット越しに告げ、思わずその動きを止めた。
 隙間から覗いた彼女の頬は赤く染まって、瞳もとろりと潤んだままだった。

「あれ、飲ませ……っ」

 半泣きになりながら、名前はアンティーク棚の小瓶を睨む。「あー」と得心がいったように零した南雲は、「君、流されやすいって言われない?」なんて脈絡なく問いかけた。

「何、言って」
「さっき飲んだやつ、ただの水なんだけど」

 沈黙。
 それから、名前の「……は」という低い声。

「中身すり替えておいたんだ〜〜。だから、体が熱くなったりはしないはずなんだけど……」

 じっと見つめる南雲は、不思議がる、というよりも面白がっていた。

「プラシーボ効果かな〜〜?ねえ、まだ体熱い?」
「ぁ、やっ」

 くつくつと笑った彼が、再度体を寄せる。骨ばった指が首筋を撫でる。「どうせすぐは出て行けないし……、する?」甘く囁かれて、名前は目を白黒させて。「や、やだっ!」力いっぱい振りかざした手が、南雲の頬を思い切り叩いた。

「ぎゃー!?」

 直後、名前の悲鳴があがる。掌に僅かに痛みが走り、南雲の頬にはうっすらと赤い痕がついたのだ。絶対に避けられたはずなのに、とあたふたする彼女に、南雲は「男前にしてもらっちゃった〜〜」とちゃらけた。そのまま、散らばっていた自分の服を拾い上げると、「もう体大丈夫?」と尋ねる。
 いつのまにか、名前の体の熱は引いていた。彼の頬を叩いた瞬間に目が覚めた、とでも言うべきか。俯いた彼女は、「大丈夫……」とか細く呟いて、南雲の頬を心配そうに見つめる。

「このくらい大丈夫だよ。それより……」

 と、彼は扉の方に視線を向けた。

「思ったより警戒されてたみたい。大方、恋人のフリして潜入した人たちがいて、正規の客か確認するようになったとかかな」
「そんな、もしまた部屋に来られたら……」
「向こうからは薬飲んだように見えただろうし、脅しもしたから。それはないと思うよ」

 名前は動揺したものの、南雲がやたらと確信めいた口調で言うので、黙って頷いた。散らばっていた衣服を受け取り、ブランケットの中で器用に着用する。

「でもこれで、君一人じゃどうしようもできないって分かったでしょ」

 肩を竦められ、名前は俯いた。
 悔しいけれど、南雲の言う通りだ。あんな風に疑われて冷静に躱すことなんてできないし、下手に外に出たら南雲の足を引っ張ることにもなる。そのことを、ようやく実感した。
 唇を噛み締めたまま名前は頷く。とうとう大人しく部屋でまっていることを了承した彼女の頭を、南雲はそっと撫でた。迷子の子供をあやすみたいに。

「それじゃあ、後で迎えに来るね」

 そうして彼は、部屋を出る。
 暗く悍ましい世界へ、飄々と足を踏み出す。