08
南雲が部屋を出てから、名前は彼に言われた通り部屋で大人しくしていたが、正直言って相当暇だ。何が仕組まれているか分からないから、置かれている物品には触ることができないし、地下だから外の景色を眺めて誤魔化すこともできない。ラブホテルのような一室とはいえホテルではないからか、テレビすらも置いていなかった。
大きなベッドに転がり、ぼうっと天井を見上げる。
南雲は無事だろうか。そもそも、彼の目的は何なのだろう。
(薬作ってる悪い人を捕まえる……とか?……でも、警察じゃない、よね……)
初めて出会った時から今日に至るまで。南雲の言動を思い返し、改めて彼という存在を不思議に思う。
(というかわたし、必死だったとはいえよくあんなひとに「助けて」なんて声かけたよね。あんな……あんな……)
人混みの中でやたらと目立っていた南雲を思い出す。丸い瞳が名前を見落ろす。首元と指のタトゥーが鮮明に映って、不意にそれらが近づいて。
「ワー!?」
途端、名前は悲鳴をあげて顔を覆った。
(うそうそ何で!?何で今、そういう映像になった!?)
自分はただ、彼に助けてもらった日のことを思い出していただけなのに。いつのまにか頭の中にはつい先程の、裸で近づいた南雲のことで頭がいっぱいで、信じられないくらいに恥ずかしい。
考えるな、考えるな。
そう言い聞かせるほどに、肌をなぞった指の心地よさだとか、触れた唇の柔らかさを思い出してしまう。それに、あの目。何を考えているか分かりづらい黒色の瞳は、こちらを見て確かに優しく細まって。
(もー!だから考えない!)
自分自身で両頬を引っ叩き、名前はようやくその思考を切った。
まさかあんな女慣れしてそうなイケメンが、それも住む世界が全く異なるであろう男が、自分みたいな人間を本気で大切にするとは思えない。利用ついでに面白がっているのが関の山。
(どうせ今だって、仕事ついでにその辺で女のひと捕まえて……)
なんて考え、無性にモヤリとして。
「だから何なのモヤッて!」
自分の心がコントロールできていないことを自覚し、暴れ出しそうになった時。
ガン!
部屋の扉が大きく揺れ、名前の背筋はサッと凍った。少し前に入ってきたルームサービスの男の姿が蘇る。あの時は、南雲が上手く誤魔化してくれた。その彼も、「もう来ることはない」と言っていた、のに。
喉が渇く。逃げ出したい。けれど、扉はひとつだし、焦ったってどうにもならない。
南雲から貰ったペットポドルで喉を潤し、それをブランケットの中に隠した。何となく、こういうものを持ち入っていることがバレたら厄介な気がした。
扉が開いた瞬間逃げ出すか、いっそ寝たふりをして誤魔化すか。あらゆる想定をして頭をフル回転させていると、再びドン!と音がした。
「……?」
ただ、その音はこの部屋の扉ではなく、少し離れたところから聞こえたようだった。
(遠退いた……?)
廊下側の気配に集中する。
ごくりと唾を呑み込んで、ベッドから降りた。机の上の小さなナイフをせめてもの護身として手に取る。ゆっくり、ゆっくりと足を進め、部屋の扉に耳を押し当てる。微かに男の話し声が聞こえた気がした。が、防音がしっかりしており、その内容までは聞き取れない。ただ、扉を開ける勇気はなかった。
息を殺し、目を閉じて。外の音だけに集中する。そして。
「――ッ!」
名前の耳は、彼女の声を捉えた。
「やだぁ!もう、ゆるしてぇ……!」
掠れた声で泣き叫ぶのは、紛れもなく名前の友人、アカリだった。
彼女の叫び声と混ざって、男の声がいくつもする。震える体を抑え込んでよろよろと立ち上がり、ドアアイから外の様子を窺った。想像通り、彼女は数名の男――それも武器を持っているように見える――に囲まれていて、名前はずるずるとその場に崩れた。無理だ、と足が竦んでしまった。
『君の友達も、見つけたらちゃんと助けてあげるよ』
部屋を出る前、南雲が告げた言葉を思い出す。
あの男達も、南雲も、名前とは生きている世界がきっと違う。自分の出る幕ではない。
(そうだよ、だって、わたしが行ったところで助けられない)
そんな当たり前のこと、考える間でもないのに。
「ああああ!」
絶叫。獣のような、声にならない悲鳴。それを聞いて、名前の体は反射的に動いていた。
部屋に置かれているアンティークの椅子を引き摺り、扉を開け放ち、こちらを向いた男の顔面へと思い切り振り落した。
鈍い音がして、椅子の脚がばきりと折れた。その先で、男が頭から崩れ落ちる。床に蹲っていたアカリが顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃにした目を名前に向けた。
「……っ、名前……っ」
「逃げるよ!」
強引にその腕を引くと、
「このクソ女ァ!」
暴言と共に、もう一人の男が詰め寄った。力一杯椅子を投げつけ、その隙に友人の手を取って全力で逃げる。来た道を真っ直ぐ、とにかく外に出て、あのクラブの人混みの中へ。
来る途中に見えたホールのような場所を通り過ぎ、階段を見つける。いける、と思った。ここから脱出できると、無謀にも。
「ッ!」
名前が階段に足を置くのとほぼ同時に、その腕は乱暴に引かれた。怒り狂った男の声が降りかかる。体が宙に浮いて、次の瞬間、背中に鋭い痛みが走る。肺が押しつぶされたかのように咳き込んだ。息ができない。視界が滲む。首元を、押さえつけられている。
「待て」
太い声がして、首元の圧迫感が少しだけ緩んだ。「どうせなら……」と、何かを提案する男の手にはあの小瓶が握られている。
(逃げなくちゃ)
そう思うのに、名前の意識は遠退くだけだった。体にも、瞼にも、力が入らない。視界が、思考が、真っ暗闇に塗り潰される。