09
どのくらい意識を失っていただろうか。
体の痛みに耐えながら、名前はゆっくりと瞼を持ち上げる。霞んだ視界に、痣だらけの肌を露わに横たわる女性がいて、短く悲鳴をあげてしまった。慌てて口元を抑えるが、もう遅い。近くにいた男が「起きたか」と名前を覗き込み、その髪を乱暴にわし掴む。
視線が持ち上がり、想像以上に多くの男女がいることが分かった。楽し気に身を寄せている者もいれば、名前のように無理矢理連れられた者もいる。それも、男性まで。
泣き叫ぶ声がして視線を向けると、アカリも捕えられていた。暴れる彼女を押さえつけた男が、その口元に液体の入った小瓶を運ぶ。
「離して!離……っ、離せっつってんだろ!」
大声で喚いた名前が力一杯体を捩る。目の前の男の拘束が僅かに緩み、その一瞬の間に名前は体当たりで男を突き飛ばし、続けて力任せに蹴りを入れた。火事場の馬鹿力とでも言うべきか、想像よりも重たい名前の一撃に男がよろける。
「てめぇ!」と、再び男が名前の体を掴もうとした時。
「喚くな、情けない」
呆れた声がして視線を向けると、それまで遠巻きに二人の様子を眺めていた男が近寄っていた。見た目の年齢は三十代。背が高く、顔立ちも整っていたが、目の下にはやたらとクマがある。「タカツキさん……」と、誰かが小さく零した。男は佇まいや雰囲気が他と違っていて、名前は一瞬、彼が助けてくれるのではないかと期待する。が、
「お嬢ちゃん。だったらお前がこいつの分も飲め」
「は、んぐっ」
声と同時に、名前の口に小瓶が押し当てられた。微かに甘い液体が流れ込む。必死に息を止めていた名前はしかし、とうとう耐え切れずに口を開け、流れ込んだ液体を受け入れた。
「ゲホッ、はっ、はっ……ッ」
「よーし、全部飲んだな。……そら、二本目だ」
「……!」
淡々と、容赦なく。名前は二本目の小瓶も全て飲まされた。
体が熱くなり、膝から崩れ落ちる。荒い息を零しながらもタカツキと呼ばれた男を睨みつけると、彼は口元を僅かに緩めた。
「強気な奴は嫌いじゃない。が、いつまで持つかね」
「ぅ、あっ、やめ……っ」
名前の制止の声など、聞き入れる者がいるはずがない。タカツキはアカリの周りにいた男たちを呼びつけ、名前を差し出した。名前に蹴られた男を含め、数名が彼女を取り囲んだ。後ろから体の自由を奪われてすぐ、勢いよく服が引き裂かれる。悲鳴をあげても、誰も見向きもしなかった。少し離れたところで、アカリが「やめて」と泣きながら懇願するが、誰も二人を助けようとはしない。それどころか、
「ちゃんと見ろよ。お前のせいで、お友達も巻き込まれたんだ」
アカリの前にしゃがみ込んだタカツキが冷たい目で言い放ち、尚のことアカリは絶望に泣き叫んだ。
男の太い腕が名前の体に伸びる。
――気持ち悪い、触らないで。
心底不快なはずなのに、名前の口からは僅かな嬌声が溢れた。
(やだ、やだやだやだ!)
暴れようにも、こうも男に押さえつけられては動けない。
名前の脳裏に、ふと南雲の姿が浮かんだ。彼の言いつけを守らず部屋を出て、案の定男に襲われて。自業自得なのに、それでも彼に助けを求めている。
南雲くん、と小さく言葉が零れた。
それと、ほぼ同時。
ドン!と壁を打つような音が響いて、皆の視線が一様にそちらへ向いた。部屋の一角が騒がしくなったところで、暴れている男がいる。
「こんなもん使いやがって!」
「おい、お前らも手伝え!」
誰かが叫び、その間から注射器が転がった。周囲を全て破壊するかのような暴れように、名前の周りにいた男たちも慌てて取り押さえにかかる。
口々に交わされる言葉から察するに、騒動の中心にいる人物はドーピング紛いの注射を打ったらしかった。身体能力が一時的に向上するのだろう、多数の男たちが協力してなお苦戦している。椅子が薙ぎ倒され、壁が削れ、人が飛ぶ。辺りは騒然として、その中で名前は床を這いずりながらアカリの元に近づこうとする。その最中、どこからか注射器が転がってきた。中身の液体は半分程になっていたが、大方これが騒動の元になったものだろう。無視して再度腕を動かそうとした時。
「殺す……殺してやる……」
憎悪に満ちた声が聞こえ、名前は思わずそちらを振り返った。
体に痣をいくつも作った女が、裸で転がされていた。細い腕を伸ばした先には例の注射器が転がっていて、名前は思わず問いかけた。
「これ、使うの」
女が光のない目を向けた。
「……何もかも、失敗した」
絶望に満ちた声で女が呟く。
名前には知る由もなかったが、彼女は潜入任務に失敗し、パートナーの男と共に捕らわれていた殺し屋だった。多量の薬を飲まされ自我を破壊されてなお、せめてもの抵抗をしようと今一時意識を取り戻している。
「絶対に殺す」と繰り返す女に名前は思い立つ。彼女がここで暴れてくれれば、自分たちは助かるかもしれない、と。現に、暴れている男は未だ取り押さえられていない。
(でも、だけど)
騒動の中心で体を大きく振り回す男は、どう見ても自我を失っていた。破壊することしかできない、獣のようだ。きっと目の前の女も、そうなってしまう。それは、あまりにも。
そんな名前の思考とは対照的に、女は尚のこと腕を伸ばした。そうして、誰にでもなく呟く。
敬愛する人たちを自分のせいで失ったこと。せめてもの償いに、この組織は壊滅してやるという強い意思。
名前は俯き、注射器を手にした。それから、唸りながら睨みつけてくる女へ、自分の服をかけてやる。名前の服も既に引き裂かれていて、肌を隠すには余りに物足りなかったけれど、女は長らくされていなかった人間扱いに目を見開き、少ししてうっすらと微笑んだ。「優しいのね」柔らかな言葉が零される。名前はそれを受け止めた後、「ごめんなさい」と呟くと、深く一礼するようにして――女の細い腕、青く浮かんだ血管部分へと、注射器を押し当てた。
女の目が充血する。腕に、首筋に、こめかみに、太い血管が浮かび上がる。奇声を放ち、立ち上がる。次の瞬間、女はその場から姿を消していて、誰かを殴るような鈍い音が響き、耳をつんざく悲鳴が轟いだ。
名前は思わず耳を塞ぎ、目を閉じる。何が起こっているかなど、知りたくもなかった。
「こいつ、急に……!」
一層騒がしくなる室内を傍観していたタカツキは、(頃合いか)と息を吐いた。音も無く姿を消す彼には、誰も気づかない。
暴れる女を制御しようと奮闘していた男の一人が、蹲った名前の側に例の注射器があることに気がついた。
「お前か、クソ女……!」
大股で近づいた男は、背後から覆いかぶさるようにして名前を押さえ込んだ。「ひっ」と短い悲鳴が零れる。名前が飲まされた薬の効果はまだ切れておらず、そのことに男も気づいたらしかった。「……殺すのは後にしてやる」にやりと笑った男が、首筋に唇を押し当てる――。