男の子の秘密時間

 苗字が出演するドラマで例のシーンを見かけることになったのは、それから一ヶ月ほど経った頃だった。吹く風が秋の匂いを運びはじめた、九月中旬。
 夜10時、テレビの中に彼女はいる。毎回しっかり追っているわけではないけれど、ふとした時にドラマを確認しては、その演技に舌を巻いていた。今期はちょっと大人向けの内容で、不倫がどうとか再婚がどうとかキャラ同士がぶつかっていた気がする。女性向け漫画が原作らしい。書店では、「ドラマ放映中!」と、苗字も映ったポスターが大きく飾られていた。
 主演ではないものの、主要人物のひとりを演じる苗字のシーンはかなり多い。(今日もよく映んな)と思いながら画面を追いかけてしばらく、そのシーンはやってきた。
 薄暗い画面の中、衣擦れの音がする。カメラが乱れたシーツを映して、次いで、絡まる男女の足をなぞっている。「……はぁっ」と何かを耐えるような荒い息がして、びくりとした。視点が切り替わって、苗字の白い肌が、熱を帯びた瞳が映る。
 こんなん流していいのかよ、が真っ先に出た感想だった。
 正直、だいぶ際どい。
 顔は分かるけど名前が出てこない男優の骨ばった指が苗字の肌を滑っていく。苗字が身じろぎする。その様子に、ちり、と何かが痛んだ。お互い仕事として取り組んでいるだけだとは分かってる。それでも、なんか。
 決して長くはない時間で、画面は暗転し、別のシーンへと切り替わる。それでも、あの苗字の姿が目に焼き付いて離れなかった。

 ――倉持に触られたい。

 あの夜、縋るように零された言葉を思い出す。触れた肌の柔らかさ、漂った香りの甘さ、潤んだ目。「それ、きもちぃ……っ」熱を帯びた、声。
 もし、あのまま。あのまま、先に進んでいたら。
 想像する。
 苗字はたぶん、嫌がらない。
 頭の中で彼女にもう一度触れた。「倉持」と俺を呼ぶ口を塞ぐ。あの日と同じように舌を絡めて、その温かさだとか柔らかさを堪能する。
 下半身がじんと熱を持つのが分かって、やべぇ、と思ったものの、もう手遅れだった。
 布団に入り込んで、硬くなった自身を握る。軽く手を上下させると、すぐに膨張しはじめた。

「……っ」

 脳内で苗字の服をそろそろと脱がせる。あの日見ることができなかった胸のふくらみは想像でしかないけれど、やたらとリアルだった。丸い肌をなぞると、苗字はもどかしそうに身を捩る。小さな唇から「ぁ、それ……」なんて声が漏れる。
 ひとしきり胸の柔らかさを堪能した後、ぷくりと膨らんだ先端に触れた。「ぁっ♡」苗字が甘く泣いて、びくんと体をしならせる。そんな喘ぎ声、聞いたこともないくせに。なぜか妙にリアルに想像できてしまった。
 現実の自分の手に、ぬめりを感じた。息があがる。体が内側から熱くなる。
 ――苗字の中は、どんな感じだろう。
 ふ、と過った欲望に沿って、また妄想が広がっていく。

「はじめてだから」

 一糸纏わぬ姿の彼女が、俺を見上げながら小さく紡ぐ。

「やさしくして……」
「……ッ」

 びく、と現実の手の中で自身が蠢いた。慌てて手の動きを止める。
 自分で想像したくせに、思った以上の破壊力だった。
 まずは指から、ゆっくりと挿れてみる。苗字のそこはよく濡れていた。……妄想だから、随分と都合がいい。「ぁ……♡」漏れ出た声は気持ちがよさそうだ。腰がひくひくと浮いている。これなら大丈夫だろうと、指を増やす。
 本当なら、もっとゆっくりほぐすべきなんだろう。でも、もうそろそろ俺が限界だった。

「倉持、もう……っ」

 妄想の中の苗字に自分を求めてもらう。すっかり硬くなった自身を押し進める。苗字が甘く泣いた。その彼女のナカの柔らかさとか熱さを想像しながら、手の中のモノを上下にしごく。溢れ出た粘液を絡めるように、先端から根本まで忙しなく行き来させる。
 あの日の苗字の香りを思い出しながら、大きく息を吐く。脳内の彼女は蕩けた表情で、「きもちぃ、それ好き」と俺にされるがままだ。快楽に溺れる彼女を見たいという願望が現れすぎている。

「倉持、好き、好き……っ」

 想像の中、腰の動きを激しくする。苗字が俺の名前を呼んで、泣きながら媚びる。
 心臓が、熱くて、痛い。

「……っ、苗字……っ」

 零れた声が、夢の中のものか、現実のものか、判別ができなかった。
 全身がぶるりと震えて、手の中にあった熱が一気に放たれた。

「〜〜ッ」

 やばい。普段AVをオカズにひとりでシていた時より、気持ちがよかったかもしれない。
 ……なんて、快感の余韻に浸るのは僅かな時間。

 ――やっちまった……。

 結局、後処理をするころには脳が冷静さを取り戻して、項垂れることしかできなかった。



 十月下旬。
 御幸のチームはクライマックスシリーズのファーストステージで姿を消したが、テレビでは相変わらずイケメン捕手として御幸の活躍が放送されており、面白く思いながらカメラに収める。高校卒業後、球団の後押しもあってようやくラインを始めた彼に、チャットで写真だけを送りつけてやったら、『やめろ』という端的なメッセージの後、『飯でも行かねえ?』なんて誘われた。珍しいこともあるもんだ、と思いながら了承する。俺も、大学の秋季リーグが終わったところだった。

 御幸が指定してきた店は、都心からほど近い和食料理店だった。先輩から紹介された料理店だという。俺のほうが先に着いたけれど、今や有名人の彼を待たせるよりはずっといい。一般人も普通に入れる店だし、見つかったら騒ぎになる。

「わりー、わりー。遅れた」

 タクシーから現れた御幸はほとんどジャージのような格好だった。「下手に私服を選ぶとダサくなる」「野球選手の宿命だな」なんて会話は、いつしたんだっけか。
 店の中に入ると、個室に案内された。店員の反応は思いのほかあっさりしている。驚いたものの、御幸が先輩に紹介されたと言うくらいだから、プロ野球選手がそこそこ通う店で慣れているのか、とすぐに納得した。

「試合惜しかったな」
「まーな。赤木さんの調子がちょっとなぁ」

 赤木、とは、御幸のチームの中継ぎ投手だ。歳は三十手前。高校卒業後にプロ入りしたベテランだが、最近は調子を落としているらしいと、ネットニュースでも話題になっていた。

「つーか何? 試合見てたの、倉持くん♡」
「うぜぇ。配信たまに覗いてただけだよ。こっちも大会だったつーの」
「知ってる知ってる。強気の盗塁、チーター健在じゃん」
「オメーが言うとムカつくな」

 強気の盗塁! チーター健在! そんなメッセージとともに俺の写真を野球部のラインに流したのは、アホの沢村だった。俺とは別大学にはなるが、大学進学をして野球部に入った彼は、恩師・クリス先輩とバッテリーを組み、快進撃を繰り広げていた。もっとも今大会は、クリス先輩は引退しており、後輩捕手とバッテリーを組んでいたが。
 食事を進めながら、秋季キャンプの話や後輩たちの活躍、同級生の現状なんかをだらだらと話す。二人とも酒は飲まなかった。
 白米の最後の一口を食べ終え、お茶を飲みながらまたしばらく喋り合う。「今何時?」「あーっと」お互い腕時計はつけていなかった。トレーニングの時に邪魔になるので、腕時計をするという習慣がどうしてもない。
 スマートフォンを取り出し、画面をつける。「8時過ぎ」表示された時刻を御幸に見せた時、タイミングよくラインの通知が流れた。

「!?」
「お?」

 苗字名前と、相手の名前が、がっつり表示されていた。
 慌てて画面を消したが、御幸の目にもはっきりと映ったらしい。

「苗字さんじゃん。何、いつからそんな連絡とる仲なの?」
「うぜぇ、うるせぇ、知らねぇ」
「いやいや、無理があんだろ。『今更ながら試合お疲れさま』だってよ。早く返事してやれば?」
「だから黙れって……!」

 スマートフォンがまたもや震える。まず間違いなく、苗字からの連絡が続いている。
 目の前の御幸のニヤケ顔がムカつく。「返事しろって。代わりにしてやろーか?」思ってもいないことをぺらぺらと喋る口を縫い付けてやろうかと思いながら睨みつけたら、「怖すぎだろお前……」と彼のこめかみに冷や汗が浮かんだ。

「つーか同窓会の後から? 長いこと続いてんじゃん」
「……んで知ってんだよ……」
「いや、分かるだろ。あの時も苗字さん、お前としか喋ってなかったし」

 ぐ、と言葉に詰まる。
 同窓会の後――、野球部と弓道部が混ざった不思議な飲み会には、御幸も来ていた。酒は一切飲まず、隅の方でウーロン茶を飲むだけだったけれど。「野球部の飲み会に行く」とでも言わないと、他のグループからしつこく誘われるから、とボヤいていた。

「麻生とかいたら大騒ぎだったろーな」
「あー。あいつは元カノ含めて何人かで飲みに行ってたっけ」

 それっぽい相槌を打ちながら、スマートフォンの画面をつけたり消したりする。

「……あのさぁ、御幸」
「ん?」
「お前、苗字と飯食ったりする?」
「は?」

 彼は珍しく、ぽかんとして、いささか間抜けな表情で俺を見ている。ぱち、ぱち、と二度ほど瞬きをしてから、彼は「なんで? そんな仲じゃねぇけど」と答えた。

「だよなぁ……」
「何、お前。飯食べに行ってんの? ふたりで?」

 ズバリ言い当てられて、視線を逸らす。御幸は昔と比べて、人の機微というか、そういうものに聡くなった。高校時代の彼なら、「食わねぇけど」の一言でこの話題は終了しただろうに。
 俺の無言を、御幸は肯定だと捉えたらしい。再びにやけ面になって、「やるなぁ、倉持くん」なんて気持ち悪い呼び方をしてくる。

「うるっせぇよ。その呼び方やめろ、キメェ!」
「はっはっは! つーか飯とか、どこ行くんだよ。芸能人御用達ー、みたいなとこか?」
「……いや、食いに行く、つーか……」

 歯切れが悪くなる俺に、御幸は何かを察したらしい。

「……マジで?」

 と、声を顰める。

「……なにがだよ」
「え、言っていいの? どっちかの家とか、そういうことだろ。あ、でもお前、寮だっけ。だったら苗字さんの家か」
「……」

 何なんだ、今日のコイツ。冴えすぎだろ。
 「マジかぁ、やるなぁ……」感心した声を繰り返す彼を意味もなく睨んで、「一回だけだよ……」と言い訳じみたことを告げる。なんだ、と少しつまらなそうな顔をした彼は、けれどすぐに、「じゃあなんで、わざわざ聞いた?」と言わんばかりに不思議がった。
 どこまで話していいか迷ったあげく、俺は口を開いた。御幸は軽口が多いし性格も悪いけれど、信用できない奴ではない。

「……飯食べねえかって」
「おう」
「けっこう頻繁に誘われんだけど」
「おお……」

 相槌を打った彼が、「いけばいーじゃん」とあっさり続けるので、「いけるか!」と間髪入れずに否定した。

「なんで」
「……たら、……だよ」
「なんて?」
「だから、間違いが起きたらどうすんだよって、言ってんだよ……!」

 勢いのまま告げた言葉に、一瞬、御幸の目が丸くなる。

「間違いが起きそうなんだ?」
「起き……っ、いや、そ……」

 まさか既に押し倒してキスはしましたとか、なんならそのあと苗字で抜きましたとか、そんなことは言えるはずがない。しどろもどろになっていたら、御幸は「まー、苗字さん綺麗だもんなー」といつもの調子で言った。
「はぁ!?」と、動揺する。まさか御幸に、誰かを綺麗だと思う感性があったとは。ああ、でも、そういえばこいつ、「長澤ちゃんの笑顔は最高だ」なんて言ってた時期もあったっけ。

「いけばいーじゃん」

 一息ついた後、御幸は再度そう言った。

「……お前、俺の話聞いてた?」
「いや、だって。苗字さんって、めちゃくちゃ真面目だっただろ」
「それとこれと何の関係があんだよ……」
「えー。人のことよく見てる倉持くんなら分かるんじゃないんですかー」

 茶化すような声音に、ほとんど反射で「死ね」なんて暴言が零れた。「ひでぇなあ」と、ちっとも傷ついていない声音で呟く御幸を横目に、彼の言葉の意味を探る。
 ……正直、もしかして、と思うことならあった。
 飲み会でのやたら近い距離。わざわざ試合を観に来たこと。やたらとご飯に誘ったり、とか。
 苗字は真面目で誠実で、たぶん、何とも思っていない男を部屋にあげたりはしない。手当たり次第に男に声をかえるような奴じゃない。でも、それは、俺が知る高校時代の彼女だ。俺も御幸も、芸能界という煌びやかな世界で活躍する今の彼女のことは、詳しく知らない。

「……今をときめく芸能人様と、ただの大学生だぜ」

 湯呑のお茶を飲み干して零した俺に、御幸は分かりやすく溜息をついた。「俺とお前も、プロとただの大学生だけど」無性に腹立たしいが、彼なりの慰めのつもりだろう。でも、なあ。悪いけど。

「……それとこれとは、ちょっと話が違うだろ……」