雑記


開闢の君を恋う



手のひらに人と書いて飲むタイプのおまじないをする獄空。

 まだ幼く無防備であった頃の空却に、名前をお呼びと教えたのは父親であった。一番信じられる、一番強い、一番大切なものの名前を呼びなさい、と。幼心に仏様ではないのか、と問う空却に、お前がそう思うならおすがりしなさい、と答えた父親の真意はわからなかったが、それから生命と形のあいまいなものに出会うたび空却は心の中で父親の名前を呼んだ。
 そんな可愛らしいこともあったな、とふと思い出しひとりごちる空却もすっかり大きくなって、生命と形のあいまいなものへの警戒も対策も万全になっていた。何もわからぬまま父親の名を唱えた心に広がるあたたかさ、力強さは今も忘れることなく残っている。お守りのように父の名を呼ぶことはなくなっても、未だその背中は山のごとくそびえているのだ。

 ――この話を十四の持ってきた幽霊話以降、怖がるというよりも自分の知覚と理解の出来ない存在がそこらへんにいるかもしれない、ということに怒り心頭の恋人に話してやった。
 朝夕は肌寒く、日中はまだあたたかいが、並んで腰掛けた縁側の真ん中に据えた茶碗の冷める速度が上がった。そんな季節の日が落ちるほんの少し前。ちょうどよく寺の庭の落葉した木の枝々が冷たい風でしなり、幽霊画のようにいっせいにうなだれる。
 空却の恋人は、幼い時分のエピソードを聞かせてやると、からかうそぶりで、クソ生意気な生臭坊主見習いにもそんな時期があったんだなぁ、とにまにまして、なんのかんのと簡単に機嫌を良くしてしまう。これはわかりやすい甘やかしであり、簡単な対策指南のつもりでもあった。見えるわけでも聞こえるわけでもない恋人がどれほど本来の効果を実感出来るかは置いておくとして、他の何かに集中することで、見えも聞こえもしない相手に神経を尖らせることからは解放される。
 だから獄もマネしてみな、と結ぶと、思ったより反応が芳しくない。怒りは鎮まったように見えるが、いささか不満げだ。さすがに子供じみた提案だったかと思ったあとに、もしや、とひらめいた。口にするのがおかしく、なにより恥ずかしい。けれども言わねばこのままだろう。
「今はそんなんしなくてもなんとかなるからな?」
 言外にもう親父の名前は呼んでませんよ、と言ってやると、顔面から漂っていた不平不満空気の半分くらいがおさまった。もう一声ということか。
「まぁ、その、たまには……ホンットたまにだけど、獄のことを呼ばなくもない、ぜ?」
 嘘ではない。かといって真実でもないが、常世に近いものに接するとき、心の命綱として定めたのは獄だ。今の空却ならば滅多にないことだから、使用に至ったことはない。使用に至らぬために定めるものとも言えるが、ともかくこれ以上は恋人をあやす手がない。しどろもどろになりながら隣をうかがうと、ふぅん、といささか疑わしげにしながらも、一応の矛はおさめてくれたようだ。
 しょうもないと思う反面、空却にとって一番のポジションにいることを確認したがるのがかわいくてほだされる。厄介にも感じる凛気は一度心地よいと思うと許してしまう。付き合いはじめて数年経っても、互いに特別な存在として据えている機会に遭遇すると嬉しくなってしまう。恋人の不機嫌に御機嫌になってしまう悪い恋人で申し訳ない。
「……もちろん獄は拙僧の名前を呼んでくれるんだよなァ?」
 俺がいるのにまだパパの名前を呼んでるの? なんて駄々をこねたのだから、当然そこはそうでなければ今度はこちらが臍を曲げる番だ。たとえ自分でなくったって怒りも妬きもしないが、悪い恋人なりの反省でサービスである。
 いたずら心が隠せぬ口角のまま微笑むと、茶碗でもうけたラインを越えて腕が伸びてきた。すっかり見慣れて、触れられ慣れた手のひらが頬をそっと撫でる。そのまますぅ、と指が目尻へと向かい、ぴんと一本突き出た睫毛をくすぐった。こしょばい、と身を竦めると、ぐ、と顎を持ち上げるようにして目を合わせられる。
「俺の光はもうずっとお前だよ」
 付き合う前、初めて出会ったときから、ずっと――
 想像もしていなかった熱烈なこたえに、合わせた目が離せない。まばたきすら忘れて見つめ合った先、ぽかんとしたマヌケ面とかち合った。
 困ったことに、この後どうしたらいいのかわからない。長すぎる数秒を経て、ようやくぱちぱちと動き出したまぶたにつられるように、口から唯一無二の名前が飛び出した。

2022/10/17/作文


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