産声の庭
人間は自分が生まれた月から三ヶ月の季節に強いという。真偽のほどはともかく、八月の末に生まれた恋人は猛暑へ文句をたれながらも生き生きとしている。
獄は六月末の生まれで、だからといってこの国特有の湿度も熱気も全然得意ではない。急な雨は髪型も、服も、予定も、全てをだいなしにしてしまう。ベタつく感覚は我慢ならないものとして何度も口にする。当然、夏だって全然好きではないのだ。
早朝から晩まで響き渡る虫の鳴き声も、夏休みを満喫する子供や学生の声も。日が落ちるのが遅いからいつまでも人が絶えず、ともかく騒がしい。
冷蔵庫に入れても腐りやすくなる食品、見る間に高く伸びる雑草、不潔な街の片隅にわく害虫。湿気と熱気だけではない、夏はわずらわしいものが多すぎる。
「拙僧からすりゃ、獄が一番やかましいんだが」
愚痴に付き合いながら寺の草木に水をやる空却は、昨今の強すぎる日差し対策に住職から麦わら帽子をかぶせられていた。
ガキの頃に買って少し大きかったものがぴったりなのだと悔しげにしていたが、獄からすれば今だって空却はガキだ。
子供の頃の帽子を大事に保管して、暑いからとかぶせる親元にいることではない。いつも爆発寸前のエネルギーを持て余しているような、後先を考えていないような、迷いも後悔もなさそうに生きているところだとか。そういう獄がとっくに失ったり、上手に取り繕ったりしているものを持っているからだった。
「ここだって暑いだろ。縁側のがマシだと思うぜ」
ホースを使って虹を作りながら、広大な庭に水を撒く。風も少ない蒸し暑い中、きらきらと水しぶきをまとった恋人は、贔屓目にも事実としても輝いていた。
「縁側とどれだけ距離があると思ってる。話しにくいだろ」
「じゃ、日傘使うか?」
大きな寺は何かと人の出入りがある。玄関に晴雨兼用の傘があるから取ってこい、と言う背中は少しだけ遠くなっていた。
「汗水流して働いてる人間の横で日傘さして愚痴れるか」
「んなのしょっちゅうだわ。昨日も空ちゃん懐かしい帽子ねえ、つって日傘のオバアサマ達に囲まれたからな」
だから変な意地張んなよ、とこちらを向いた空却は気遣わしげに眉をひそめ、勢いよく水の噴き出すホースの先を向ける。
「このバカッ……やめろ!」
「ハッ、ぶっ倒れてもしらねえから」
ギリギリかかるかかからないかの距離を狙って放たれた水が足下を濡らす。焼け石に水とは言っても少しでも涼やかになるものだ。散らばる水とのたうつホースで弧を描きながらおつとめに戻る後ろ姿に、きらめきながらきれぎれの虹がかかる。
「あ、そだ」
背を向けていくらもしないうちに何かを思い出したように声を上げた。どうした、と聞いてもこたえはなく、片手で水を撒きながら、麦わらを脱ぎ、頭を振る。水を浴びた動物のような動きで、蒸されてしっとりとしていた髪がいつもよりゆるくはねた。
強い日差しの下、黒い法衣も、真っ赤な髪も、真夏に見るには重たい色なのに、軽やかで、爽やかですらある。汗みどろで、ほてった顔は赤く、うっすら日焼けもして。それでもなお、映画のワンシーンを切り取ったような光景だった。
不思議と不快ではない熱をまとった恋人は、二、三度麦わらをゆすると、振り向きもせずにこちらへ放り投げる。上手に微風に乗った半円形が、かすかな音を立てて胸元にぶつかった。
「貸してやる」
古さを感じさせない麦わら帽子はとても頭が収まりそうにない。空却の尊大さのせいか、体格差なんてあってないようなものだと思っていても、存外に大きいのだと痛感する。当たり前にそばにいて、空却自身も知らない場所まで暴いているのに。
「入らねえよ」
「拙僧とお喋りしてぇんだろ」
小作りな背中を向けて、水を撒いたまま吐き捨てられる。庭は広く、打ち水も兼ねたそれはまだ終わらない。
「日傘取りに行くのも惜しいんなら、観念して頭に載せときな」
そっけない声音が、あと、と続ける。
「まだ獄の経は上げたくねえ」
とたん、蝉が鳴き出した。ミンミンジイジイとけたたましく響く大合唱に、今の今まで気づかないわけもない。狙いすましたような共鳴が鼓膜を襲う。
いつの間にか振り向いていた空却の目はしごく真面目で、握ったホースからは水が流れっぱなしになっていた。ビーチサンダルをつっかけた足は飛沫と小さな池で濡れ、切りそろえられた芝にも露がたまる。
ひとすじ、汗が額からつたい落ち、革靴に大きな水玉が出来た。
この場の全てが溺れそうな生命の奔流で満ちているのに、その中でひときわ輝く恋人の目が、闇色の法衣が、ひどく恐ろしく見えて、帽子を掴む手に力がこもる。
意を決して、頭に帽子を無理矢理にねじこんだ。とは言ってもどだい入らないし、壊すわけにもいかない。ほとんど載せるだけになったが、ともかく日差しはいちおう、避けられている。
「おら、かぶったぞ」
「最初っからそうしときゃいいんだよ」
すげなく背を向けてホースを前へと構え直した恋人が、どんな顔をしていたかは見えなかった。
ふと、大きくこうべを垂れたひまわりが目に入る。盛りを過ぎてぐったりとした姿は昼日中に見てもどこか不気味だ。
実を結ぶために花は咲く。稔りを蓄えて朽ちかけた大輪の花弁の影は濃く、大きい。
獄、と呼ばれて視線を戻す。自分よりも一回り小さな背はしゃんとして、燃えるような赤毛は、乾いてやわらかく揺れていた。
麦わらの作る小さな日陰から見る恋人は美しい。
夏か、生命のように、まぶしく。
2021/08/31
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