ひねもすそばに

 修行僧の恋人は、そういやそういうのもあったな、と異教由来の祭事をぽろりと忘れる。老若男女を問わずあらゆる意味でモテるから、クリスマスやハロウィンを筆頭にお菓子だのプレゼントだのをよく貰い、当然バレンタインだって溢れんばかりにチョコレートを渡されるくせに、だ。
 常の可愛げのない、クソがつくほど生意気な調子で呼びかける声からはみ出るどうしようもない甘ったるさは獄にしかわからない。けれども二人きりでいると姿をあらわす素直さと可愛らしさは、とても恋人同士とは思えない、と言う周囲を黙らせてあまりある。少なくともメディアが煽ってうたう恋人達の祭典に期待するのも無理からぬていどには、稀代の悪僧はーも、獄にメロメロなのだ。
 期待しないわけがない。絶対に何かしらくれるものだと思っていた。駄菓子のかけらでもいい、よしんばチョコレートでなくとも。傲慢だと言われようと何にもなしなんてありえない。だがしかし、無情にもスマホの画面には二月十五日と表示され、昨日からこれといった連絡もないままだった。
 それとなく相談するにも信頼出来る相手には空却との関係は知られている。一切合切包み隠さず何を話しても生温かい目でまたやってるんだな、という空気を出されるのにも慣れた。付き合わせている自覚があるから言わないだけで、優しい諦観に満ちた眼差しと、そんな目をさせる自分の話にたびたび我慢が臨界点をかすめている。
 獄の苛立ちをわかっていながら、どこか楽しげに、お寺と馴染みがない行事ってそんなもんじゃないすか?やら、いつも貰う側でいるからあげるって意識がないのでは?やら。いかにもありそうな理由を並べられて冷静になった。
 そもそも空却はバレンタインに限らず恋人だから、と何かするようなところがあまりない。急に思いたって、挑むように試すように自分達は恋人だろう?と仕掛けられることはある。獄にしかわからぬ、見せぬ可愛げばかりなのだ。それなのにいい歳をしてどれだけテンプレートな恋人めいたことを楽しみにしていたのか。
 気づいたところで後の祭り、もう何人にも話してしまっている。声もなくうめくのすら微笑ましげにされると余計にきまりが悪い。空却との交際を公にした時点で築き上げたイメージなんてものはとっくに失くして、いまさら何を失っても惜しくないつもりだったのに。
 最後に恥をさらすことになった事務所の祭事に明るそうな所員も、これまでの相談相手とまったく同じことを獄にアドバイスした。幼い子供を見守るような風情すらただよわせる妙齢の女性は獄より年下のはずで、自分は上司のはずだ。きまりどころか往生際も悪い。心の奥底まで剥き出しにした痴話が、みっともなくも恥ずかしくもないわけがないのだから。

 空却にお布施の皮をかぶった貢物が贈られるのはいつものことで、檀家のオネエサマ方からオジサマ方、オジョウチャンボッチャン……枚挙にいとまがない。梅もほころぶ二月の半ばになるにつれ、妙に菓子、それもなんだか手作りが多いな、とか赤だのピンクだのハートだの天使だのが多いな、と思うだけだったのだ。
 いかに空却が俗に塗れていても寺と山はそうではない。仏法と自然の理が第一の異界に住む限り、幾ばくかの浮世離れはしてしまう。外で示し合わせたように何かが流行るときがあって、知らぬ世事を聞いてはふぅん、と俯瞰する。だから寺から自室への道すがら、両手いっぱいに菓子がつまった袋をぶら下げるのを、浮気だって訴えられない?とよく来る参拝客にからかわれるまで、すっかりバレンタインなんて行事、忘れさっていたのだ。
 振り返れば今朝方、勢いよく破った日めくりカレンダーに十四日、と書いてあって、毎月ある弟子の日か、とつぶやいた覚えはある。上に書かれた二月という文字を見てもバレンタインには繋がらなかったけれど。
 同い年くらいの相手は、空却が恋人達の一大イベントを忘れていた、と知るやいなや、絶対天国先生チョコほしいよ、あげなきゃダメ、と諭してきた。嵩張る両腕を一瞥して、そんなに欲しいものか、と首を傾げると苦笑いをして、普段言えない気持ちを今日なら、という人も多いのだと渡された箱は、なるほど大きさのわりにずしりと重たい。よかったら食べて、と言う背を見送って、懐に小さなー指輪でも入っていそうなー箱をしまいこんだ。
 誰か一人くらいバレンタインの話をしてくれてもよかったじゃねえか、と自室で貰った菓子を分別しながらひとりごちる。手作りと既製品とで大雑把にわけていると、自分の髪のような色ばかりの包装にはよく見ればハッピーバレンタインだのラブだのスイートだのとプリントされていた。言わなくとも気づいて、知っていて当然なのだと突きつけられると同時に、空却の恋人ー暗黙の婚約者ーの面倒くささまで知れ渡っているのだと思い知る。
 小さな子供にもおとなげなく嫉妬する弁護士先生の逆鱗に触れまいと、バレンタインではなくいつもの貢物としての体裁を取られているのだ。義理チョコ、友チョコくらいはさすがの空却も知っているが、いい顔をしないのが目に浮かぶ。由来となった国ではどうか知らないが、わざわざ『そういう意味ではない』と枕詞をつけるほど、この国でのバレンタインは恋愛催事としての側面が強い。
 手作りのなかでも日持ちのしなそうなものとそうでないものを選り分ける。同じ場所で買ったのであろうハートの形のジッパーバッグが何個もあって、中身はクッキーだったりパウンドケーキだったりしたが、そのどこにも恋人が悋気を起こすほどの情はない。みんなでやっている楽しいお祭りのお裾分けをされているだけだ。
 唯一、一目で眉間に深くシワを刻みそうな小さな箱は真っ先に腹におさめてしまった。既製品の中でも頭一つ抜けて見える上等な黒い箱の中、たった一粒きり宝石のように鎮座した赤く艶めくハート型のチョコレートは、噛み砕くとどろりと甘酸っぱいソースが飛び出した。外側の赤色はホワイトチョコレートで目が覚めるように甘く、その下でソースを包んだビターチョコレートの苦みをやわらげる。口の中で真っ二つになった心臓は甘く、苦く、酸っぱく、それぞれを引き立て合いながらあっという間に溶けて消えた。
 食べ終わってすぐ入念に証拠隠滅した箱に描かれたマークは、以前に恋人が晩酌のアテにしていたのと同じだったから、きっといいものなのだろう。ぼんやりと高い食い物の味がしたとしか感じず、どういう意味で贈られたかを知りながら酒とチョコレートの味がしたくちびるのことを真っ先に思い出すような人間にはもったいないくらいに。
 空却が綺麗さっぱり飲み込んでしまったもの以外にも、目の前に散らばる全てに大なり小なりの想いが込められている。自分に宝物のように心を捧げてくれた人は、獄もきっと欲しいと言った。甘くて、苦くて、酸っぱくて、人肌で簡単に溶けてしまうやわなものに宿った、空却の心が。
 口の中にかすかに残る香りを忘れるために、封の緩んだ包みに手を伸ばす。破れかけのビニール袋から取り出したチョコがけのマシュマロは、何もかもが甘ったるくて舌が痛くなった。無邪気な好意の塊で恋心の残滓を塗りつぶすなんてバチが当たりそうだけれども、受け取っても応えることの出来ない想いを後生大事に味わうのも趣味が悪い。なにより普段つまむのとは違う濃厚な香りに、どうしたって恋人を思い出す薄情者がしていいことではないのだ。
 ぱき、と小気味良い音を立てて割れたチョコレートの中から飛び出したマシュマロが、口の中で跳ね回る。くうちゃんあげる、と祖母に手を引かれた少女からもらった菓子は、渡すやいなやさっさと次の目標へと向かう姿とおんなじに自由で、残りも全部こんなもんならいいな、と分別を再開した。頭の中ではずっと、別のことを考えながら。

 勤め人同士の逢瀬は相互努力で成り立つ。お坊さんと弁護士先生がのん気にいちゃついていられる日が来るとしたら、あらゆるトラブルはもちろん、人類は死すら克服したことになる。それはそれでめでたいーめでたいのか?ーともかくバレンタイン本祭がとっくに終わり、返礼祭たるホワイトデーに意識が向きはじめた頃、ようやく予定が合ったのだ。
 手土産を持って訪ねてきた恋人を、馴染みの客間に通し、獄くんの、と呼ばれる湯呑みに茶をいれてふるまう。何を持ってきたかは知らないが、問答無用で日本茶を出す空却に合わせてくれるから知る気もない。す、と向かい合った正面からうやうやしく差し出された袋はやはり見慣れた和菓子屋の包装で、開いてもみても恋人の顔と同じくらい見た団子が飴色のタレを纏って並んでいた。
 獄は空却がここのが一番好きだ、と言ってから、ずうっとこの店のみたらし団子を買ってくる。デパートや駅ナカに入っているのとは違う個人の菓子屋での買い物は、多忙な弁護士先生には入手難度が高いのに決して他人に任せたりせず、だ。意識しているのか無意識なのか、どちらにしろひどく神妙な顔をした恋人に礼をして、で、と本題を促す。
「……チョコをくれ……っ」
「ヤダ」
 そんなことだろうと思った。これといって喧嘩もなくただ予定が合わずにいただけなのに、空却の一等お気に入りの菓子を持ってくるなんてそれくらいしかない。もちろん件のアドバイスが頭の隅に残ってもいたし、トークアプリで十四がやけにバレンタインの話をしていたのもある。知らぬところできっとみっともなくじたばたしていたのだ。
 あいにく空却は貰うの専門でお返しもホワイトデーにしたりしない。寺で繋がった縁は再び寺で巡り合う。そのときにいくらでも機会はあるのだから。あとどうしたって肌に馴染まない。異教異国の文化だからではなく、空却自身と。
「拙僧はいつも獄にぜぇんぶやってんのに……まぁだ足りねえの?」
 とっくに全部あげているのに、もっともっと欲しいなんて我儘で欲張りな恋人だ。ましてやチョコなんてそんな繊細で、やわで、触れたら簡単になくなるものに空却は心を託せない。目の前の団子ならあっちこっちにはみ出す気持ちも伸びてくるんでくれそうだけれど。
 菓子を貢いで菓子をねだった恋人が、十六も年下の子供の言葉に浮き沈みするのを尻目にあーん、と団子を頬張る。いつ食べてもあまからいタレともちもちとした団子のバランスが最高だ。少し濃いめのみたらしをほどよい弾力とほのかな甘さの団子が受け止める。あまいからいの追いかけっこでひょいひょいと食べてしまった。
 あっという間に一本腹におさめ、くちの周りをべろ、と舐め回して恋人の方を見る。串に残ったわずかな餅をこそげながら返事を待っていると、はぁ、とため息をつかれた。
「足りないから、言ってんだろ」

 そう告げたときの恋人は驚いたような傷ついたような、感情の坩堝というのがしっくりくる顔をしていた。まんまるく開いた目はすぐに元に戻ったが、眉間のシワが面白くなさそうに深くなる。
「過ぎた欲は身を滅ぼすぜ?」
 串の尖った方を向けてくるくると回しながら、足りないとは何事か、と威嚇した。怒りよりも不満が強いのだろう。少しだけ赤らんだ頬は、なにが、なんで、と言いたげだ。
 心も言葉も偽らない恋人は、真実ぜんぶをくれている。不安になるほど真っ直ぐな瞳に射抜かれ続けて鈍感ではいられない。出会ってから今まで空却が惜しみなく捧げたすべてが今の獄と二人を作ったのだから。
「……お前がいつも好きだ好きだって言うから、期待したんだろ」
「はぁ?」
「バレンタインなんてするような性格じゃないなんて知ってたけど、お前がいつもあんまり好きだって……ああ!クソ!」
 素直に言ったらいいですよ、という相談相手全員からのアドバイスだってわかりきったことだった。いつだって獄の恋人は明け透けで裏も表もない。心底からねだって欲しがれば、いくらでも惜しまず差し出すのが目に浮かぶ。壊れた蛇口のように、あふれてなお注がれる愛はこの悪僧にとってはごく自然なおこないで、イベントに乗じて伝えるなんて思い至らないのだろう。
 獄さんから渡せばいいじゃないすか、とも言われたが、残念ながら獄も空却に負けず劣らず貰う側でいた上、すっかり贅沢に愛されるのに慣らされて、くれるものだと思い込んでいた。察したらしい相手から余計に生温かい目で見られたが、かつて中学生だった恋人の押しの一手ではじまった関係でもある。巻き込まれて振り回されるのをあやして宥めて面倒を見ているつもりで、いつの間にやらとめどない愛情にどっぷりとひたされて骨抜きになっていた。甘やかすな、と思いながらすっかり甘やかされるのが日常になっているのが恐ろしい。
『拙僧はいつも獄にぜぇんぶやってんのに……まぁだ足りねえの?』
 まんざらでもない声音でふふ、と笑った顔は、口いっぱいにごちそうを含んでいるのに、もっともっととねだる赤ん坊を見るようだった。出会ったばかりの頃、付き合い出した頃、しかたない、と言っていたのは自分だったはずなのに。
 獄がわかりやすく妬いているからかすむだけで、この恋人だってたいがいだ。ゆっくりと確実に絡めとって引き摺り込む、気づいたときには手遅れの溺れる愛。暦の祭事なぞ関係ない、毎日が祝祭なのだ。
「すっげぇワガママ……」
 拙僧のせいじゃねえし、とぼやきながらも振り上げていた串はさげられ、深いままの眉間はわずかにゆるみ、嘘を許さない金色は鋭いもののどこかやわらかい。今も獄はしょうもない、しょうがない、という呆れから漏れ出る惚れた弱味に甘やかされている。
「お前がワガママにしたんだよ」
 人前では色気と素っ気のなさに覆われて、獄にしか尻尾を掴ませない空却の恋心のひとかけら。触れたら焼け焦げてしまいそうな情熱と、脳まで砂糖漬けになるような甘さのほんのちょっと。鮮烈で濃厚なのに気配だけ残して消えてしまい、そのくせ捕らえて離さない。
 二人きりになれば厳重な包装をとくように、あらわにされた心が獄に降り注ぐ。甘く、甘く、甘えて、甘やかす。恋に落ちた日のまま、愛になった心。たまらず触れれば簡単に溶けてしまうところも、深く味わおうとするほど甘いだけじゃないところも、恋人はチョコレートによく似ている。
「でもチョコはやんねえぞ。獄が欲しいモンは拙僧、ずぅっとやってるし、なぁ?」
 ようやく綺麗に破顔した顔はくちびるがわずかにとがっていて、足りないと言ったのを拗ねていた。辛くて苦いフリをして、またそうやって甘やかす。つやめいたくちびるに同じものを重ねればすぐにご機嫌になって、今度は覚えてたらなんかやるよ、と目を細めた。
 一番綺麗な金色の放つ甘さも上等なチョコレートに似ていて、日本茶では物足りない。やはりコーヒーかウィスキーだろう。どちらでもいい。朝でも夜でも、足りる日などないのだから。

2022/02/20


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