そのくちびるで大人になった

 街中で煙草を吸ってコーヒーを飲む人間の口臭は最悪という話をうっかり聞いてしまってから、なんとなく、なんとなく煙草に伸びる手が止まる。
 今までもそんな話を聞かなかったわけではない。以前の恋人には遠回しにだったり露骨にだったりやめてほしいと言われたこともある。皆、口を揃えて体にも悪いし副流煙だってある、なによりー



「最近煙草吸わねえのな」
「ああ……」
 ソファの隣の席に座った恋人への特段意味のない感想だったから、気のない返事が逆にひっかかった。単純にあんまり匂いがしないなていどにしか思っていなかったのを改める。
 じ、と観察してみると、空却が成人してからはだいぶ遠慮なく吸うようになった恋人の指先が、すぅ、と箱に伸びては引っ込むを繰り返し、ふぅ、と小さく息を吐く。その一連の動きを見て、あ、こいつまぁたなんかめんどくせえこと考えてんな、と気づいてしまった。
「吸うなら吸えよ。拙僧はジジイだのババアだのがすっぱすっぱ吸ってんのに囲まれてたこともあるから気にしねーって言ってんだろ」
 きっかけがなんであれ好きに気遣ってくれていいが、ジジイだのババアだの以外に東都でとんだヘビースモーカー共に囲まれていたから副流煙など今更なのだ。それに臭いばかりだと思っていたものにひどく安心している自分がいるのも知ってしまった。
 本気で禁煙を考えているのなら協力するけれど、そうでないなら吸ってほしい。せめて、なんでそんなことになったかを話してくれたっていいはずだ。
「……苦いって言われたんだよ」
「何が」
「……キスが」
「拙僧は言った覚えがねえんだが?」
「……お前じゃない」
「拙僧直々に衆合地獄に送ってほしいってことか?」
「ああ違う、そうじゃない!前の!お前の前に付き合ってた相手だ!」
「言いたかねえけど、ここが法廷なら黒星ついてんぞ」
 すわ浮気か、と思ったものの、痴情のもつれがおまんまの大部分を占める恋人がするわけもない。するならもっと上手く、ましてやこんな完封負け材料をばら撒くわけがない。そんなこともわからなくなるほど腑抜けたならば熨斗をつけてくれてやる。
 どうせ元恋人とのカビて錆びついて黄ばんだ思い出だ。それを拙僧に適応すなと言っても、いらんことには細やかなー面倒ともいうー恋人は改めてくれない。自分が気にしいだからというのもあるだろう。しち面倒臭いが、その妙な繊細さと図太さにも心がくすぐられて許してしまうからどうしようもない。今みたく叱られてしょぼくれる顔はどこか無防備で甘やかしたくてたまらないのだ。
 いつもかっこをつけた男が小さな子供のようにしおれて、うなだれてきゅ、と結ばれたくちびるが悔しげに歪む。この幼い表情から煙草の香りがする落差が胸に響くのに、元恋人はなんてもったいないことを言ったのだ。
 見るなと言うように下げた顔を覗き込み、そのままちゅ、とくちづける。やっぱり煙草の匂いが薄い。代わりにすぅっとしたミントの香りがするのにソワソワしてしまう。馴染みのない味のくちびるは他人のようで落ち着かない。
「拙僧は、苦くて臭い獄が好きだぜ」
 煙草も酒も興味はない。ただそれらを好む恋人の纏う体の一部と化した香りをくちづけの瞬間に味わうのは好きなのだ。大人の恋人からおすそわけされる大人の嗜みで、少しだけ距離が縮むように感じたのが懐かしい。苦くて臭い、なのにとびきり甘いくちびる。
 なぁ、と声をかけても返事がないのは良い便りなのかを確認すべく、もう一度覗き込んだときの顔は、恋人の特権としてひとりじめさせてもらう。

2022/6/4


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