ステルス・キスマーク
恋人の素足がぺたぺたとフローリングを撫でる音はかわいらしい、が。それは獄の美学に反するものでもあって、結果として彼は我慢ならないものに恋人の名前をあげた。
「ホント、家と違ってちぃせぇ男だなァ」
「その男の家に図々しく居座って言うことじゃねえんだよ」
いつものように裸足でお邪魔してきた恋人に、家主の言うことは絶対だ嫌なら出て行けと言うと、しぶしぶ足元に放られたスリッパに足を突っ込んだ。
もとより薄着の恋人は夏場になればよりその傾向が強くなり、汗ばんだ足をそのままに直にフローリングを歩き回る。寺でもそうだと言っていたが、大所帯で人の出入りの激しい寺と、獄の完全なプライベート空間である家では話が違う。日々欠かさず掃除をされる開かれた場所と比べて、週に一度掃除出できたらマシていどのごくごくプライベートな場所ではフローリングについた足跡はひどく目立つのだ。
「拭いてやったのに」
「当たり前だ」
存外素直にスリッパを履いた恋人に、そこかしこに残った足跡の拭き取りを命じると、うぇ、と呻きながらもやはり素直に従った。それでも不満は不満なのだろう。廊下の真ん中、客用スリッパを履いたまま足踏みをしてぶぅたれる。なんのかんの言いながら、手慣れた様子で指摘されていない場所まできれいさっぱり雑巾がけした恋人は、あの広大な寺で日々お勤めを果たしているのだ。
すっかり真っ黒になった雑巾を片手に流しへと向かう足からはぺたぺたという音はしない。かわりにぱたぱたと軽やかに、けれどもどこか歩きにくそうにしているが、速度自体は速い。
「しかしなァ獄」
「なんだ?ご褒美でもほしいのか」
「ちげぇよ」
足を止め、くるりとこちらを向いた顔は挑むような、試すような笑みを浮かべていて、わざわざ雑巾の汚れた方を見せつける。
「見えなくても意外と残ってるもんなのな、拙僧のマーキング」
ま、全部がそうじゃねえとは思うけど、と言うと、呆気にとられた獄を置き去りにまた歩き出してしまった。
ぱたぱたという足音はあっという間に遠くなり、挑戦的な笑顔の意味にたどり着く。
わざとでもわざとでなくとも、もう獄はあの音に囚われてしまった。今までよりさらにタチが悪い、目に見える痕跡を残さない侵略者に。
どこまでがあの悪僧の掌の上なのかー迷う獄の頭の中でぺちぺち、ぱたぱたというかわいらしい足音がぐるぐる回っていた。
2022/7/23
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