止まず蜜月
朝、目覚めると満開の花のかんばせが極上の微笑みで迎えてくれる。
機嫌がよければくちづけも二つ三つ降ってきて、ちゅ、とかわいらしい音がこそばゆい。
獄、と呼ぶ声も二人きりだからかどこか甘くやわらかく、鼓膜と胸をやさしく揺らす。
この自分だけの目覚ましが朝を告げるだけで、どれほど暗く寒く冷たい日も、待ち受ける最低最悪の仕事も、乗り越えられるのだ。
「天国さん、帰ってもらって大丈夫ですから……」
「気にせず好きなだけ世話を焼いてこい、だと」
そう言って、ず、と見せられたメッセージアプリの画面には一言一句違わぬ文言がそっけなく並んでいた。
上司――というか所長。すなわち勤務先の最高権力者で雇用主みずからが手伝ってくれているのは、ぶちまけた書類の整理だ。
ペーパーレス化がうたわれても、すぐになんでもとはいかない。未だ不安定な政権と日々変わる法だの条例だのに振り回されながら、じわじわと進めていたのだ。
毎日の作業合間にすぐ取り組めるようにとゆるくまとめていた書類の詰め込まれた厚さ十センチ強のケース。そんなものをうっかりぶつかって盛大にひっくり返し、床にばら撒いた現場に運悪く居合わせたのが、退勤間際の彼の人だった。
もとより日付順にナンバリングされているものを並べ直すだけではあるけれど、量がすさまじく付記や追加資料などもある。余さず飛び散ったそれらもとなると一時間はかかってしまうだろう。
真っ青になって書類をかき集めている自分を見て見ぬふりも、お先に失礼、と切り捨てもできない上司は、やれやれとため息をつきながら一緒に拾うところから付き合ってくれている。
デスクに乗せた紙の束を前に連絡だけさせてくれ、と言われて思い出したが、上司は新婚なのだ。交際期間五年というとちょうどよく感じるが、問題は相手の年齢だ。
不惑も近い上司に対し、かつての成人年齢の二十歳である。つまり中学生の頃から……と散々に下世話な想像をされてきたのか、俺はちゃんとあいつの親に頭を下げて誓約書を書いて結婚するまで指一本触っちゃいなかったと聞いてもいないのに語られた。逆に言えば新婚の上司はようやく――やめよう、それこそ下衆の勘繰りだ。
「……やっぱり帰って下さい」
「なんだもう終わるだろ」
「目処はたちましたから」
「なら余計に二人でやった方が速いだろ」
気にするな、と作業を再開されたがそうじゃない。これまでも特別扱いが透けて見えていたお相手への対応は、結婚を経てより堂々とされるようになった。雰囲気だってまさに蜜月真っ只中の年下のパートナーが絡むとすぐわかるほど、可愛くて可愛くて仕方ない、という心の内がだだ漏れになっている。
よく事務所にも顔を出すお相手は職員みんな顔見知りで、新婚の定時退勤を邪魔しても怒りも拗ねもしないさっぱりとしたタイプなのはメッセージを見せられなくともわかっていた。絵に描いたようなやんちゃな少年だったけれど、結婚してからはずいぶんと落ち着いて、わかりやすく可愛がりたい、甘やかしたい、構いたい、という風情の上司をたしなめたり、されるがままになったりしている。
以前はお相手の方が上司に好き好き、と絡み、上司はやれやれはいはいといなしていたのに、いつからひっくり返ったのか。……いや、誓約書だ。破らないために、裏切らないために耐えていただけなのだ。抑圧の反動の大きさは耐えた分だけ跳ね上がる。これから先、恐らく上司はずっとこうだ。
直接的な現場に遭遇はしていないものの、職場という絶対避けられない場所での新婚の惚気がここまで強烈だとは思わなかった。ましてや上司。それも仕事の精度と効率ならば結婚してからの方が良いときている。抑圧の影響の大きさに、人間の病の大半はストレス要因というネット記事が頭をよぎった。
あらためて自分のミスが犯した以上にひどく、野暮で悪いことをしているようでいたたまれない。このままでは上司とお相手が許しても、自分の中の恋路に厳しい馬に蹴り殺されてしまう。何としても早く帰って貰わねば、と決意を新たにした瞬間。
「……あのバカ……!」
いつの間にかスマホを握っていた上司が吠えた。
苛立ちと怒りを帯びた声音にびくりとするも、よくよく見れば口角が隠しきれない喜びで歪んでいる。
「どう、されました?」
「いや、悪い……たいしたことじゃない……」
お前にとっては、と言外にしめされるのをきちんと感じとって、そうですか、とだけ返して作業を再開する。恐らく、たぶん、確実に、目に入れても痛くない可愛い可愛いパートナーから激励の自撮りが送られてきたのだろう。
結婚前の突発的な残業の最中に見せてもらったことがあるのは、もう一人、一緒にラップチームを組んでいる元依頼人と仲良く並んでいるものだったが、あんな和やかで微笑ましい写真ではきっとない。少なくとも目の色を変えた上司に、ここ一番の大勝負に挑む時と同じ顔をして『インスタント味噌汁の濃い薄いで離婚未遂』という相談案件の書類を真剣に見つめさせるていどには破壊力があったらしい。
最近の様子から『幼妻の新妻に骨抜きにされた』と外野から侮られることが増えたが、それが本当ならばこの事務所はとうに閉所している。無敗の冠は微動だにせず、むしろいっそうのこと盤石に我が代表を飾っているのだから。
一吠え後はまさに一気呵成。途中からは邪魔にならぬよう控えていたが止まることなく手を動かし、目を見張る集中力で書類整理を終えると、風のように去っていった。見送った背中はいつもと同じなのに、どこか浮かれて見えた。
『残業お疲れさん』
というメッセージに添えられた写真は二人分の夕飯だけを写したものが一枚と、伴侶となった恋人の自撮りが数枚。
寺でそうだったから、とときおり割烹着を着て三角巾で頭をくくる。洗濯の都合でエプロンのときもあるが、つるりとしたきれいなまるい額が強調される割烹着をより好ましく思っている。
胸の内に秘めているつもりだったのだが、どうやらしっかりバレていたらしく割烹着での自撮りが妙に色っぽい。うなじだの、手首だの、鎖骨だの――有り体に言えばついついばんで痕を残してしまう辺りが必ず写っていた。結婚するまでは、と互いに我慢し続けたせいで外れっぱなしになった箍を戻すにはまだ惜しく、昨日だって痕を残すな、と言うから歯を立てずに食んだ場所はうっすらと赤い。
酒も煙草も興味はない、と言った伴侶は、『大人になったら』と飛びつくであろう諸々への関心が凪いでいる。生意気な悪ガキを絵に描いたようなのに、ふぅん、と平坦な反応しかしない。てっきり自分ともそういうことをしたくないのかと思っていたら、獄とはシタい、と場違いにまっすぐに言われて、勢いそのまま頭のてっぺんから爪先まで、丁寧に丁寧に、大事大事にまるっといただいた。
興味がないことでも自分とならばシテみたい――そんな殺し文句があるか。ある。寝台の上とは思い難い凛とした眼差しで、くちづけすら数えるほどしかしていない淡い桃色のくちびるが放った甘い弾丸は、的確に擦れ切った三十路男を撃ち抜いた。
もちろん好いている。中学生であることが瑣末で、目の前の子供とこれから先の全てを共に歩めるなら土下座でもなんでも出来るほどに。だからこれは惚れ直すというやつだった。二度目の恋は一度目よりもより強く、苦悩すら甘美に。一度落ちて知っているはずの底よりもなお奥深く。
……正直、少しだけ諦めていた肌への触れ合いを望まれたのが嬉しかった。妙なところで僧侶らしい伴侶と違い、世俗に塗れきっているから心だけでなく肉体も求めずにはいられない。肉体接触が全てとは思わないが、どうしようもなく人肌が恋しいときに抱きしめるくらいはさせて欲しかった。それが予想に反して『自分も欲しい』と乞われたのだ。
覚えたての猿じゃあるまいしと自嘲しても、ほぼ毎日、触れられなかった年月を埋めるように愛するのを止められない。心なし抱き心地のよくなった身体が、もっと馴染んでいくのかと思うとくらくらしてしまう。
今すぐ帰りたい。噛み合わない生活リズムを精一杯合わせ合ってようやく重なる時間を堪能したい。寝ぼけてとろんとしたまぶたではなく、待ちくたびれたと噛みつきながら喜びを隠せない瞳にくちづけをしたい。きれいなまるい額にも。
最後まで面倒をみるつもりだったけれど、我慢が出来ずに仕事を奪って帰ってきてしまった。途中から手持ち無沙汰な部下に悪いことをしたと思うが、限界だったのだ。
最後の最後、割烹着を着たままベッドに転がった写真が送られていたのだ。夜を思わせる色を纏い、金の目を切なげに細め、ぽつん、と『待ってる』というメッセージまでつけて。
この自撮りだってはじめは日記か報告書のようだったのに、今ではこんな誘いまでするようになって……と、自分がもたらした変化に嬉しくなってしまう。全く、これ以上かわいくなってどうするつもりなのか。むくむくと湧き上がる喜びと不安、独占欲でいっぱいの心臓がばくばくと跳ね上がる。
毎日、毎時、毎分、毎秒、ほんの一瞬でも過去ならば、それよりもさらに一歩でも先へ。綺麗に、美しく、可愛くなる伴侶が愛おしくて恋しくてたまらない。
恋から愛へ、変わったと思っても胸の高鳴りが止まらない。ならば何度でも、何度でも恋をして、愛し合おう。心臓が止まっても、共にあると誓ったように。
そうしてたどり着いた玄関先に咲き誇る大輪の笑顔を前に『美人は三日で飽きるって言ったのはどこの馬鹿だ……!』と呻いて崩れ落ちることになるのは二人だけの内緒――のはずだったが、誰が広めたのかすぐにそこら中に知れ渡り、しばらくからかわれるハメになる。
2023/2/1
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