猫にくくった鈴が鳴る

 蒸し暑い、絶対に外に出たくない初夏の昼日中。大人の都合を考えないクソガキに電話一本で呼び出され、馬鹿騒ぎの後始末頼まァとされるのに我慢ならなくなった。
「いいか空却、俺には我慢ならないモンが二つある。一つ、出前みたいに電話一本で多忙な売れっ子弁護士を呼び出すクソガキ、二つ、何度言ってもそれをやめねえバカガキだ……!」
「今どき路地裏まで引きずり込んでカツアゲとかダッセェことしてるヤツがワリィだろ」
「そりゃお前が正しいけどな、自分でとっちめんなって言ってんだよ!通報しろ!警察に!」
「アイツら遅ェんだわ」
「俺だってたいして早かねえだろ!」
「話は早くなる」
「……坊主のトンチってのはこんなムカつくモンなんだなぁ?」
「ほぉ〜、弁護士ってのはそんな沸点低くても常勝無敗できンだなァ?」
 すみません、ちょっといいですか?ーおずおずと精一杯張り上げてひっくり返った声に割り込まれ、同時にあ?とメンチを切る。ひぃ、と情けない悲鳴を出した相手はクソガキに遅いと指名除外された善良な国家の犬で、かわいそうにすっかり腰がひけていた。

 運が良かった、と言うべきだろう。被害者がせめてもの抵抗にと録音していたデータと一部始終の目撃証言、騒ぎに駆けつけた近隣住民からの話もあって、とりあえず、とりあえず厳重注意になった。一部では『また』呼ばわりもされていて、手が出なければいいんですが……とこぼす警察に、足ならいいんか?と屁理屈をこねるガキをはっ倒したのは記憶に新しい。口だけにして防御と逃走に徹しろと言っても、馬鹿は死ななきゃ治らないって言うだろと返してくる。お前の場合は比喩じゃなくて本当に殺しかねないから言ってんだよ。
 とにもかくにも頭と胃が痛い。人間の健康の大半を害するのはストレスで、その原因を取り除くのが健全な肉体と精神への第一歩なのだが、何の因果かストレスの源は同時に至上の癒しでもある。もう少し話を聞いて良い子にしてくれれば我慢ならんものとして可愛い恋人を並べなくて済むのだが、まるで改善の余地がない。世界に誇るTPSが泣くぞ。
 警察からの帰り道を普段の行いがいいからなとすっとぼけたことを言うクソガキと歩く。近場だからと走ったせいで汗だくで、それすら乾くほどに付き合わされ、すっかり日も暮れた。疲労で重い足取りで、げんなりしながら響かぬ説教をするのにも飽きてきて、前々から考えていたことを実行するかと鞄を漁る。今日はたまたま本人がいるが、すたこら逃げているときもあるから機を逃していたのだ。
「これをやる」
 ロクに見もせず隣へ放ると、こともなげに受け取った恋人がなんだァ?といじり出す。どんな馬鹿タレでもカードケースなのはわかるはずだが、問題は中身だ。
「お前、これ名刺入ってんぞ。やるじゃねえだろ」
 怪訝な顔をしながら突っ返そうとするのをぐ、と押し返す。仕事で使うモンだろ、とさらに押し返すのをさらにさらに押し返しながら、そういうことに回せる気がなぜ呼び出ししたら不味いという方に向かないのかが疑問だった。
「いいかクソガキ、俺は電話一本で即駆けつけるなんちゃらの救急隊じゃあねえんだ。これからはめんどくせえことになったらそれを出せ」
「あ?じゃあ結局呼び出されんじゃねえの?」
「少なくともどっかの目の前のクソ坊主みてぇに状況の説明もしないでワリィ、ちょっと来てくんね?なんて呼び出しはしないだろうよ」
「ヒャハ!それはそーだな!」
 納得したのか押し返すのをやめ、電話してグチグチ言われんのもかったりぃと思ってたわ、と懐にカードケースをしまい込む。ほいほい脱げる上着とガバガバの法衣で暴れ回る割に無くし物をしないのが不思議だが、これで多少は無遠慮な呼び出しは減るだろう。
 頼られるのは嫌ではない。一人で勝手に突っ走る恋人がこいつならなんとかしてくれる、と誰よりも先に連絡を寄越すのが自分なのだという優越感がないとは言わない。たとえそんな気持ちを見透かして利用されているとしても、手を貸そうとして断られた過去との変化にやにさがってしまう。嫌ではないがもう少し遠慮とか配慮というものが欲しいだけなのだ。
「ところでさっきのやつって特注かなんかか?」
「いや、たまたま見かけて買ったモンだが」
「マジかよ!白黒ちょうど半分だからわざわざ頼んだのかと思ったぜ」
 恋人に渡したのは革製の白と黒のバイカラーのカードケースで、たまたま覗いたセレクトショップにぽつんと一個だけ残っていた。海外の工房の若手が作ったもので次があるかはわからない、と言われてつい、というやつだ。タグも何もないノンブランド品だが丈夫で使いやすく、なにより一目で天国さんのだとわかります、と言われて愛用してきたものだった。けれども名刺だけ持たせたら粗野なクソガキのポケットの中でぐちゃぐちゃになるのが見えるようだし、一目で『誰かを連想できるようなもの』ならば忘れることもないだろう。新しいのは最近、同じく革の深いボルドーのものを買った。使っていくとだんだん鮮やかな真紅に変わっていく、と言われて即決してしまったのだが、それはまあ、胸に閉まっておく。
 日が長くなってからは珍しく、真っ暗闇になった頃に寺にたどり着くと、真っ青になった住職に頭を下げられた。直後、真っ赤になって馬鹿息子をしばき倒すいつもの光景がはじまる。いいかげん獄くんに甘えるんじゃない、という言葉にもっと言ってやって下さい、と加勢したものの、これを機にぱたりと連絡がなくなるのも寂しい、なんて馬鹿なことを考えてしまった。どう転がるかはこれからだ。
 そうして見事な簀巻にされた恋人を尻目にお茶をいただいていたときは、渡したカードケースとその中身が思いもよらない効果を発揮するとは思ってはいなかった。自分自身も、恋人も。

 件のカードケースを渡して数週間。呼び出しの頻度はさして変わらないが、名刺によってだいぶ楽になったと言える。クソガキからの意味不明な呼び出しが、しかるべき機関からおたくのバカを回収してくれという連絡に変わったのはだいぶというかもはや革命だろう。悠々と愛車で向かえるだけで気分がいい。ついこの間、汗だくでわけもわからないまま走らされたのが嘘のようだった。パンパンに詰めたはずの名刺があっという間になくなっても、腐るほど刷ってあるから痛くも痒くもない。さっさとこうすればよかった、と夕暮れときを狙ったひったくり犯をのした恋人を迎えに来てつぶやくと、拙僧もセンセのご機嫌が麗しくて嬉しいぜ、と笑う。
 よくあるやりとりだ。ベンゴシセンセ、とわざとらしい調子ハズレの舌足らずな言い方は生臭坊主の得意技で、揶揄いと皮肉、嫌味そのものでもあれば、それらを装っただけのときもある。引っかかるところなどないはずなのに、妙に胸が騒ついた。
「……お前なんかあったろ」
「ここで聞きてえ?」
 センセにも関係あるオハナシなんだけど、と騒つきを証明するように口角が蠱惑的な弧を描く。日の落ちた警察の待合所なんてロクな場所じゃあない。ただでさえ外が暗いのに、だいたいが困った顔や憂鬱そうな顔をしていて、この世の終わりみたいに泣いている人間までいる。そこでこんな綺麗に笑うのはロクなヤツじゃあない。
「家で聞く」
「了解」
 にんまりとしたまま出口へと歩き出す恋人は、こちらをご機嫌と称したが、自分だって相当なものだ。家に着いてから何を話されるのかまるで想像もつかない。新たな厄介ごとでないことを祈りつつ、愛車に恋人を乗せて夜道を走らせた。
 幸いにも道は空いていて、車の中ではひったくりとの詳細な顛末を話される。見様見真似のパルクールで犯人の自転車に追いついたくだりは、恋人でなかったらおおよそ信じられなかっただろう。あとパルクールという名前が後からついただけで、お前はずっととんでもねえ場所を飛んだり跳ねたりしているからな、とは言わずにいた。
 常ならば回収したら速やかに寺に配送している恋人は、お持ち帰りして定位置のソファに座らせると、警察で見せた企みを孕んだ顔でニヤニヤとしている。どんな話をどれくらいされるかもわからず、少し前に訪ねてきたときに勝手に作られて、気づいたら習慣になっていた水出しの麦茶を出した。エアコンの効きはじめた部屋は少し肌寒いくらいで、隣り合って腰掛けたソファの距離が自然と縮まる。
「で?」
「拙僧、またナンパされてなァ」
 うるさいそいつを追い払ったらひったくりを見つけたのだと愉快そうに語り、グラスの水滴を片手間に指でなぞった。ニィ、と細められた目の隙間、らんらんと光る金色がこちらの反応を伺っている。
 空却はモテる。整った顔やスタイルはもちろんのこと性格だってクセはあるが親しみやすく気持ちのいいところもあって、老若男女問わず接する仕事柄か見た目に反して人当たりもよく対応も上手い。下は幼児の初恋、上は老いらくの恋。最も多いのは同年代らしいが、たぶん気づいていないだけでもっとコナだのモーションだのをかけられているはずだ。腕と口がたつせいか、自分が男で恋人がいるという意識からか、無防備で無警戒なフシがある。
 正直、よっぽどそういうときに呼び出してほしい。そうしたら二度と声をかけようだなんて気にならなくしてやるのに、拙僧一人でどうとでもなる、とバッサリ切り捨てられた。恋人がいると断れ、と言ったものの効果が薄いらしいが、そればっかりは外見のせいだろう。不良僧侶呼ばわりも納得のファッションだからだ。一晩だけ、一回だけ、なんて言うのを男は金的で、女はどうにか引き剥がして追い払ったと報告されたのは両手両足の指で足りない。
 弁護士として信頼されるのは心地よい充足感があるが、恋人としても同じようにされたいのは我儘なのか。しょげてみせると存外甘い恋人は、つまんねぇナンパ追い払うていどで忙しい弁護士先生は呼べねェよ、と笑った。違うそうじゃない、逆だ、と喉元まで出かかった言葉はしかし、獄は拙僧が成人するまでは付き合ってるってバレたらまずいだろ?と言われて黙らざるを得なくなる。関係者のほとんどには暗黙の了解になっているとはいえ、中学生のときに出会ったという馴れ初めと、たった一歳でも未成年というのはメディアに面白おかしく取り上げられたら互いの活動の足枷になりかねない。
 ぐ、と息を飲むと、心配するな、とけたけた笑われた。その色気も素っ気もない声で、心配の本質が全く伝わっていないのがわかってしまって悲しくなる。見せられぬ話せられぬ恋人など断り文句だとしか思わぬ者、何度断れども執念深く付き纏う者、妄想と思い込みを拗らせる者、ありとあらゆる歪んだ恋慕に日常を狂わされた人々が助けを求めてやってくるのを見てきた。いつだって最悪を想定してしまうのは、自分を信頼するからこそ飛び出してしまう恋人をどうにか縛りつけず、されど傷つけられないようにしたいと愚かなことを考えるからだ。
「へぇ」
「興味ねぇの?」
「俺よりイイ男がそうそういるわけないからな」
「自分で言って恥ずかしく……ねぇか」
 拙僧のダーリンは三千世界一のイケメンだからな、と続けられてどちらが恥ずかしいのかわからない。はぁ、とため息をついて白旗を上げる。興味がないなんてものじゃない。場合によってはひったくりよりよほど重要だ。隠せぬ凛気を向ければ、してやったり、とばかりにくちびるが三日月型に歪む。
「そう悪い話じゃねえよ。名刺、コッチにも効いたんだわ」

 十六年上の恋人は空却がモテると言ってきかないが、当事者からすればそれはちょっと違う。空却はモテるのではなく、ヤレそうだと思われている。もちろんそうでないこともあるが、少なくとも恋人が厭うのはそういうモテだ。
 今日だって近道に人気のない通りを歩いていたら、よく泣く弟子とおんなじくらいの大柄な男に声をかけられた。スタイル抜群の弟子に比べると横にもだいぶ大きかったが、見るからに筋肉質でいかつい。ファッションセンスも弟子とは違ってストリート系というか。ともかく筋肉質な巨体に道を塞がれた。
 ごく稀にこういうタイプにもモテるのだが、だいたいは大立ち回りをした後で、ボディラインの出ないいつもの服装でぶらつくの捕まえて、すごく鍛えているね、なんて言ってきたのは数人しかいない。そうでなければあとは小柄な空却を舐めている馬鹿しかいなかった。さて今回はどっちか。
 相手から嫌な気配はないものの、ぎ、と強めに睨めつけると、ああ違う、そうじゃない、とおどおどされる。そうもこうもない。呼び止めておいてさらに用件を言うまでに待たされるのにイライラする。特に予定も用事もない、たんなるサボりだけれど、ハッキリしないまま待たされるのは好きじゃない。
 苛立ちをそのままにさっさとしろ、と怒鳴りつけると、君、たまにこの道を通るから、それで、としどろもどろに話が続いた。口ぶりからするにまだ本題ではないらしい。あの、その、とウザったく言い淀むのに、続き、と叱咤して、ようやくワッ、と吐き出した。
 まとめると近隣住民でたまに近道として利用する空却に惚れた。恋人がいるらしいと風の噂で聞いたがせめて告白だけでもしたかった、らしい。そんなのは当然、恋人がいるからで即お断りだったのだが、その後が悪かった。
 女でも男でもそうなのだが、空却と『ヤレそう』と思った人間は、空却の言う『恋人』をたまたまその時期お気に入りのセフレかなんかだと勘違いするし、一回ヤッてみようと言ってくる。ヤレば『恋人』より自分がいいと思う、楽しめる友達もたくさん呼ぶよ、もっとヨクなるモノもいっぱいあるよ、と話がどんどんきな臭くなっていく。
 これまでのパターンに違わず、男も吐き出した勢いのまま、オレは背が高くて鍛えてるからアッチもデカイし強いよ、と聞いていない主張をする。そもそも恋人がいるとしか言っていないのにどうして、と思っていると、たまにすごくエッチだからわかっちゃうんだよ、と声をひそめられてゾワゾワとした。あまりの気色悪さに退いているのに、じろじろと露骨に品定めをする目が尻のあたりを舐め回すのに怖気が止まらない。
 派手に装った外見と僧侶らしからぬと言われる性質が誤解させるのだとしても、そのために己のスタイルを変える気はない。表面的な、見えるものだけで空却の全てをわかったように接するものに使う時間など一秒たりともないのだ。
 ついにはすぅ、と手が伸ばされて、下劣な声と視線で積み重なった苛立ちと不快感が爆発した。てめぇはヤリてぇだけだろ!と顔面を張り倒すと、油断していた男は存外簡単に転がって、何かをぎゃあぎゃあわめいていたが、一方的に面識があるだけの相手にエッチだの一発ヤろうだのとセクハラをして無事ですむと思わないでほしい。
 道もあいたし付き合ってられん、と歩き出そうとすると、訴えてやる、と叫ばれた。もとより人気がない通りは日の落ちかけた時分は余計に誰も寄りつかない。明らかに顔を殴られた男と無傷の空却ならば加害者は一目瞭然。他に目撃者もいなければ空却が不利ーなわけがない。
 男の方を振り返り、スマホをタップすると先程までの会話が流れ出す。恥ずかしげもなく肉体関係を迫り、乱暴に断られる一部始終に、赤かった男の顔は青く変わった。先日のカツアゲでの被害者を見習って、男から異様な雰囲気を感じた時点で録音をしていたのだ。過剰防衛と言われそうだが録音でもなお鳥肌の立つ気色悪さに情状酌量が適応されてほしい。
 しかしこの近道はこれからも使うのだ。男の言葉を信じるならば近隣に住んでいるらしい。逆恨みをされても面倒だからトドメをさしたい。二度と不埒な欲望を抱いて近づくことのないように、中途半端に賢しい小心な男の心を折れるようなー

「んで、コイツが拙僧のカレシだから、もしホントに訴えるなら法廷で会おうなって言ったらスミマセンッシタァ!って。獄のこと知ってたのか、弁護士ってのにビビったのか知らねぇけど、ダッセェの」
 名刺をぴらぴらと振りながらニマァ、と微笑む恋人の背後にありとあらゆる恐ろしいものが見えた。鬼とか羅刹とか呼ばれそうなものが。表情だけならば小悪魔のようにかわいらしいが、肝心要の目に殺意しかない。
 可哀想に、恋人はこんな派手派手しく粗野でどっからどう見ても遊んでいそうなチンピラだけれども、酒も煙草も薬も賭博も女も男もやっていないのだ。清く正しい暴力韻踏み装置でしかなかった子供を『たまにすごくエッチ』に変えたのが悪い大人との初々しい恋だなんて誰が信じよう。
「……多分、カレシっつうか半グレ組織の専属弁護士かなんかだと思われてんぞ」
「ヒャハッ!ワンチャンでヤクザ弁護士のイロだな!」
 間違ってなくもねぇなぁ、とそれはそれは綺麗に破顔した恋人は、凶暴で、凶悪で、たまらなくキュートでセクシーだった。自分で情夫なんて言ってうっとりとする金色に、ずたずたにされそうな鋭さはもうない。恋人である自分にだけ向けられる色艶をふくんだ瞳と仕草がもれ出て当てられてしまったのならば、本当に、心から可哀想だと思う。
「ま、獄の名前でも肩書でもビビって退いてくれんならバカ共に付き合わなくていいから助かるぜ。これからはコッチにも名刺バンバン使ってくわ」
 ぷらぷらと弄んでいた名刺にちゅ、とくちづけて、ケースにしまおうとするのを引き止める。勢い余って強く掴んでしまった手首がびく、とふるえた。
「ンだよ……あ、アレか拙僧まだハタチじゃねえからカレシって名刺配ったら不味いのか?でもさっきテメェで言ってたろ、チンピラ専属弁護士としか思われてないって」
 その後に続きそうな言葉を聞きたくなくて、掴んだ手首を強引に引き寄せる。胸元に倒れてきた恋人が目を白黒させる隙をついて名刺を奪い取った。
「なにすんだよ!」
 服越しとはいえぴたりと触れ合った恋人の心臓がどくどくと跳ねる。動揺とかすかな期待にゆれる金色に上目遣いで見つめられると、こたえてやりたくなるのをぐっとこらえた。
「……キスした名刺を配るんじゃねぇ」
「ソッチか?!」
 アッチもコッチもソッチもない。虫除けで、名札で、御守りで、最後通告であるものに、どうして残り香とはいえ恋人をくれてやらねばならぬのか。くちづけしたなんて一見してもわからない小さな紙に自分のくちびるも重ねて、離す。わざとらしくちゅ、と音を立てたのを真似して恋人に視線を流せば、口元がきゅ、と結び直された。
「わかったか?」
「イヤってほどな!」
 隣でゆっくりと増していたはずの熱がぐんぐん急上昇してエアコンが間に合わない。一呼吸ごとに鼓動も体温も速く高くなり、触れた肌が汗ばみ、ぶわりと赤く染まった。
 熱でとろけて艶めく瞳がくちづけをねだる。口も頭もよく回る恋人は、時折その金の眼が言葉よりよほど雄弁で、自分がからむとそれはより顕著になった。
 待つのが嫌いだと言ってどこまでも自由に飛び出していく子供は、恋でも愛でも同じことをする。決して抑制を知らないわけではない恋人に、抑制を放り投げるほど、抑制してもはみ出るほどに思われていると感じるたび、ほのぐらく甘いものが心を満たす。
 くちづけを待つくちびると、くちづけをねだる目がどすどすと心臓に刺さって悩ましい。一度重ねたら最後、こんな風におしゃべりなんてできないくらいめちゃくちゃに貪ってしまう。だからその前に確認したいことがあった。
「お前、その危ない近道でどこ行くつもりだったんだ?」
「わかってること聞くのは野暮だぜ?」
 言外に正解だと答えて、とがったくちびると閉じられたまぶたが話を終わらせる。これ以上の野暮はすまい。摘んだ名刺をテーブルに置いて、封じられてなお雄弁な目とくちびるに食らいついた。

2022/7/23


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