第八官界略取

 元旦。の、夜。
 恋人の実家はどえらい寺で、自身も問題児かつ後継者でもある。なのでまあ、忙しいのだ。
 こちらはようやくの休みだが、あちらは今がまさに稼ぎ時。よくある職業上の都合によるすれ違いというやつである。
 お互いいまさらそんなことで駄々をこねるような付き合いではない。休みが合わないていどで"自分と仕事どっちが大事なのか"なんて言ったりしない。ただ少し、むしょうに恋しくなる瞬間があるだけだ。
 遠くからいつになく大人しく、真面目にお坊さんをしている姿を眺めに行ったってよかった。けれどももしよそいきの顔で挨拶なんてされたら。あるいは自分にだけ見せる顔なんかされたら。なんにも我慢なんてできそうになかった。
 だから心置きなく会えるまでーおそらく時間が出来たら連絡をくれるだろうー面白くもない特番を流したり、たまっていた家事をこなしたり、気もそぞろにすごしていた。



 連絡があったのはとっぷり日が暮れてからだった。
 "今から行く"
 メッセージアプリが色気も素っ気もない通知を出してから十分もしないでチャイムが鳴って、そして。
「あけましておめでとうございます」
 ドアを開けた先には待ちに待った恋人が立っていた。
 よほど急いできたのか真冬にも関わらず汗ばんだ様子で、耳、頬と鼻は真っ赤にそまり、額に乱れた前髪が張りついている。はっ、はっ、と断続的に吐く息は白く、荒い。
 それでも新年の挨拶は経を読み上げるときのようによどみなく、冷たい空気を切り裂いて響いた。
 今日何度も口にしたであろう音を乗せたくちびるは寒風にさらされて青白く、わずかに覗いた歯もいつもより鋭利に見える。常ならば感情豊かな金色の瞳は凪いだ海のように静謐で、怖いくらい澄んで見えた。
 よそいきの顔が外れていない。
 あんなにうるさくてむちゃくちゃなクソガキがなんでそれを許されているかといえば『ちゃんとやればできるから』に他ならない。
 同じものを見ているはずなのに、ずっと遠くが観えていて、それが何かを識っているような顔をする。ちょうど今みたいに。
 綺麗な目だ。何もかも受け入れて許すような、救けを求めて縋れば包み込んでくれるような、深く落ち着いた輝きを放つ。汗ばんでさえいなければ、作り物めいてすらいただろう。
 獄は神も仏も信じない。そんなものよりもっと確実なものを信じているからだ。それでもときおり恋人が見せる違う顔に、何も感じないと言ったら嘘になる。
 なにより、この無垢で明哲な顔が嫌いだった。



 びゅう、と一際冷たい風が吹いて、まだ玄関先なのを思い出す。あわてて部屋に引っぱりこんで、ドアを閉めた。
 時間にして一分ほどとはいえ、最後の寒風の余韻が残る。引き込む際に掴んだスカジャンが凍てついているのに、ゾッとして無防備にさらされた穴だらけの耳に触れた。
 無遠慮にまさぐられ、ぴくり、とふるえたものの、肌と同じにかたく凍った表情は変わらない。
 熱をわけてくれるとき、春の陽のようにやわらかであたたかな顔をしてくれるのに。
 こんなふうに飾りもなく、剥き出しの耳に触れようものなら、真っ赤になってぴくぴくとふるえながらとろけてしまうのに。
 何もかも観えているから何も観ていない、綺麗なばかりでうつろな金色の瞳がうらめしい。
 じわじわとあたたまってきた耳からなぞるように頬に触れる。離れる刹那、名残惜しげに手のひらに耳を寄せられたが、恋人は戻ってこない。
 汗のひいた顔は冷たくて、いよいよ人形か彫像かのようだった。血の気も失せてますます白い顔の鼻頭がわずかに赤い。頬をとらえたまま、自らのそこを寄せると、キスをするときによく似ていた。
 きらきらと光る金色に獄の顔が映る。なんとも情けない、弱りはてた顔をしている。だって目の前にいるはずの恋人が、どこにもいない。いつもは少し触れたりしてやれば、やかましい表情が還ってくるのに。
 ぐりぐりと鼻をすり合わせていると"救けてあげる"と言わんばかりに青白いくちびるだけが少し微笑んだ。
 ああ、違うんだよ。
 両手を軽く振りほどくように放して、ぐらりとよろめいた体を抱きとめる。胸元あたりに寄りかからせると、そうなるとわかっていたのか、金色には焦りも驚愕もない。
 猫の子みたいにしなやかに受け身をとって、何をするんだとがなって、仕返しをたくらんだ悪い顔をしてほしかった。
 冬の静かで澄んだ空気が、百八つの鐘の音が、生まれ直した世界が、いつもより深く恋人を攫って離さない。
 すり、と愛おしげに獄の胸元に身を寄せてきても、顔が、表情が、目が、焦がれた色と違うのだ。
「俺を見ろ」
 少し乱暴に顎を掴み上げ、射抜くように見つめて呼びかける。
 金の水面は揺らがない。
 涅槃に至ってなお、獄を好いてくれるのは嬉しい。
 間違いなく僧として大成し、波羅夷の家に新たな金字塔を打ち建てるーそんな恋人が、全き心に唯一許した瑕疵が自分なのだ。
「俺は、お前に救われる衆生じゃない」
 鏡面のような金色に、ほんの少しヒビが生じた。
 ぱちくりとしばたたかせて"じゃあなんなんだ"と問う澄んだそこにほんとわずかな迷いが混ざる。
「お前を地獄に堕とす男だよ」
 そう告げて、微笑みの形を描いたままのくちびるにくちづけた。
 とたん、綺麗なだけの金色がぐにゃんと乱れる。
 凍りついた青白いくちびるに熱を与えるように吸って、噛んで、舐めれば、うっすらとももいろに色付いた。
 いつもならばとっくに閉じている目は、きょとんとしたまま、むしろますます大きく開き、深くなるくちづけを受け止めている。
 何をされているのかもわからない無垢な舌を引きずり出し、強引にからめて吸い上げる。すぐ大口を開けるやかましいクソガキはこうしてやれば簡単に黙ったが、それはこっちでも同じらしい。
 唾液でぬめるくちびると舌をどうすることも出来ないまま、ぼんやりと縋りついている。まだ軽くくちづけただけなのに、寄せられた体は熱を帯びていた。
 今の恋人は、いつもよりずっと僧としての真理に近いはずなのだ。そのはずなのに、獄のくちづけ一つでこの有り様なのだ。なんと愛されたことだろう。
 はじめて心から五百年続く由緒ある寺とその血統、檀家へ懺悔の念を抱いた。
 聖職者なら誰もが求める高みに若くしてたどり着いた傑物は、おそらく自分が死ぬまでその真価を発揮しない。
 この天上の蓮が咲き誇るのは獄が『空却』と地獄に堕ちたときだ。
 きっと自分を弔う瞬間が一番美しい。
 それを見ることは絶対にかなわないが、かまわない。
 獄の恋人はこの世にたった一人なのだから。





 『それ』はいつだって突然だ。
 たとえば修行中、たとえば瞑想中、そういうときにフッと意識が遠くなる。断じて寝落ちでも気絶でもない。
 遥か彼方にいるのに、全てが自分の掌にあるような感覚で、宇宙から見ればどうでもいいしとはこういうことかとひとりごちる。
 そんなぼやきも異常に遅く進む時の中では意味をなす音にならず、やがて自分を取り巻く全てが遅くなり、なにもないいつかのどこかにひとりになる。
 怖くも寂しくもない。辛くも苦しくも。むしろ過不足ない充足感に満ちていて、この上なく穏やかで、安らかですらある。
 まどろんでいるようでもあり、まざまざとしているようでもあり、このままとけてきえるのかもしれない、それもいい、それがいいー
 あけているかとじているかもわからないめがとじていく。このままなにかがおわる。いしきかいのちかせかいかそのすべてか。
 とじていく。しずかな、ふかい、うみのそこにしずむように。





 こえがした。
 じぶんしかいない、すべてがある、いつでもどこでもないいつかのどこかに、なつかしくてあたらしい、ちかくてとおい、あまくてにがい、いとおしくてにくらしい、

三千世界にただ一人の男の声がした。

『お前を地獄に堕とす男だよ』

 ああ、ひとや。
 俺の、俺だけの地獄が、呼んでる。





「口ン中も外もべっちゃべちゃなんだが?」
「お前がいつまでも寝汚いねむり姫してるのが悪い」
 ねむりひめ!!腹を抱えて笑い出したクソガキは、つい先ほどまでの神々しさも消え失せ、マジで全然かわいくない。
 床に転がりながら半ベソかいてひぃひぃ言ってる顔もムカつくし、思い出しては吹き出してるのもきたなくて嫌だ。
 それでも意志をもった金色の美しさはなにものにも変えがたい。
 恋焦がれたやわくあまい、ぬくい金色。
 たとえ幾千幾億の衆生を救うのがあの華だとしても、あとたった数十年の辛抱だ。五十六億七千万年よりはずっと早い。
 せいぜい仲良く十万億土を踏んでくれ。
 俺は愛する馬鹿と地獄を征く。

2021/01/08


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