諸共、誰そ彼に沈む
一番初めにそうしようと決めたのは、逃げる子供をふん捕まえたと思った瞬間、トカゲの尻尾切りよりももっとなめらかに蛇の脱皮――見たことはないけれど――のようにするりとスカジャンを脱ぎ捨て、走り出された時だった。
申し訳ない獄くん、と頭を抱えながらも愚息を追いかけるための準備運動をはじめた住職に、いえいえこちらこそ……と頭を下げつつ、まばゆく光る首元をじっと見ていた。
うららかな日差しが心地よい小春日和。まだ眠ったままの梅の横で大ぶりの薔薇が咲き誇る寺の庭を、見慣れた赤毛が弾丸のスピードで駆けていた。遠くから響く聞き慣れた声の叱責を尻目に、うるせークソ親父! と坊主とは思えぬ台詞を吐く。
人の都合を一切考えずに即座に実行に移される気まぐれな思いつきでの呼び出しは、巻き込まれたくないが不参加をしすぎると強制連行される。事務所も自宅もいりびたるどころか我が物顔で闊歩され、今日はいらっしゃらないんですね、と言われた日に、このままでは不味いと痛感した。
自宅は幸いに鍵までは許していないが、キーケースの在処は知られている――というかケースと置き場を変えようが『なんとなく』で探り当てる。このままでは『家族』を大義名分に合鍵を握られ、自宅まで侵食される日も近い。
言って聞かない子供をつけ上がらせてはいけないが、ほどほどに付き合わなければ爆発する。仕事の真っ最中の襲撃拉致誘拐という名の強制連行はもう御免こうむりたい。だから都合がつきそうな時は渋々ながら参上仕るのだが……今度は何をやらかしたのやらこのバカは。
「ぐぇっ」
「……っし、やっぱこれだな」
「何すんだよ獄! つぅか最近なんでネックレス引っ張んだよ! 銭ゲバ弁護士から暴力弁護士に宗旨替えか?!」
「何って……そりゃお前が逃げるからだろ」
呆れている間にちょうど横をよ、など軽口をたたいてすり抜けようとするから、ため息ついでに確保した。先日の逃走劇以降、御父上直々にあの愚か者に容赦も遠慮もしなくていいとお墨付きをいただいて、少々手荒いが確実性の高いものに切り替える事にしはじめたのだ。
服――上半身は躊躇いなく脱いで逃げるのは実証済み。下半身ならばさすがに止まるとは思うが、いかに獣じみたクソガキとはいえ外聞が悪すぎる。髪は短く、穴だらけの耳を掴む勇気はない。となると自然と選択肢は限られていた。
「だからって毎回毎回気軽に引っ張りすぎだろ! けっこう痛ぇんだぞ!?」
「そうでもしなきゃどこまででも逃げんだろうが」
一回り小さな体を怒りだけで数倍に膨れ上がらせて見せる子供は獣じみた、ではなく獣だ。掴んだのは首根っこなのに尾を踏んだかのような有様は、こちらからすれば自業自得なのだが、わずかに残る良心がまばらに赤い痕のついた首元の白さにゾッとする。
「十四ならぴぃぴぃ泣いてんぞ」
「十四なら髪か服掴んだら一発だ。そもそもお前みたいに逃げないんだよ」
「……ああ、自分なんかしちゃったっすか〜!? って怒られることしたってわかってねぇとこがあるもんな……」
「そうなんだよなあ……いや待て、怒られる事した自覚があって逃げるのも問題あるんだからな」
「チッ……」
失敗したという態度を隠しもせず、舌打ちをして目をそらす。掴んだままの鎖そのもののようなネックレスをぐ、と引いた。
「だから……っ、引っぱんな……っ!」
「態度が悪いんだよ」
ぎ、と睨みつける金の目はネックレスを掴む手とこちらの目を行ったり来たりして、ばちりと合った瞬間に目に落ち着いた。
「……逃げねぇから、手、離せよ」
降参したとは認めない眼差しは、けれどもしおらしく伏せられる。諦めは悪いが引き際を心得ていないわけではないから、この様子ならば逃げないだろうと思う、が――
「今までの行いを振り返ってみな」
「信用できねぇ……ってコトかよ」
返事の代わりにぐん、とネックレスを引いて住職の声がする方へと向かう。自分から言った手前、逃げ出せなくなった子供は引きずられるままに着いてきた。
「痛……っ、だぁから擦れるんだよ!」
「擦れないように踏ん張りな」
普段ならば一回り分の身長差などあってないようなものなのだが、首を引かれて勝手が違うからか足取りがよたよたと危なっかしい。もう少し気を使えと吠えるのが頭に響いてかなわず、さらにぐん、と引いてやる。
「っは、ぁ」
運動神経がいいなんてものではない、野生の生き物と同じしなやかさとしたたかさを持つ子供だ。だから大丈夫だとたかをくくって、許可をもらったからと調子に乗って――結果、子供が後ろから倒れ込んできた。
強く引かれすぎて息が詰まり、ギリギリ保っていた足ももつれた子供がそのままこちらの腰へとぶつかって、ごろん。転げた拍子にぐるりと回って、地に着いた一回り小さな体を押し倒してしまった。
上手に片手で受け身を取って、クソ、と呻く子供に目立った傷は見当たらない。身を起こし、空却、と呼びかけようとした時だ。片手に絡まったままの鎖も引き上げてしまった。
「ぁ、ぐ」
苦しげに息を吐き、痛みと苦しさでにじんだ目が信じられないくらい強く睨みつけてくる。先ほどまでのしおらしさの失せた反抗的な上目遣いは、バトルや喧嘩の時に見せる獰猛さと同じ色をしていた。
仰向けに倒れ、急所を掴まれ、なお牙を剥く。不撓不屈、不退転、三人で掲げた信念が揺るぎなく宿る瞳は、生半可な覚悟の者をそれだけで追い払う。力強く輝く金色は、目を合わせることすら出来ない光そのものへと変わっていた。
いつしか地に落ち、捕えられた太陽の目の子供を縫い止めている事へ言い知れぬ高揚を感じている自分がいた。今だけではない、ぬくいままのスカジャンだけを残して走り去る背中を見送った日から抱いていた願望が手の内におさまっている。
「ひと、ゃ……っ」
泣かない子供の目が濡れて、苦悶に歪んだ。離さなければと思うのに、それを惜しむ自分に逆らえない。ひゅう、と嫌な呼吸音が鼓膜に届くまでずっと、金色の水面を見つめていた。
庭から戻ると見慣れた客間に通された。子供と向かい合って座った間の卓上には、いつもより少し良い茶と茶請けの横に、おしぼりとおしぼりというには大きなタオルが添えられている。風呂とクリーニングの申し出を断ったからだろう。
重ね重ね愚息が申し訳ないとぶぅたれた子供に鋭い視線をやる住職に、獄も悪ぃかんなと諸悪の根源が吐き捨てる。はたいたもののいくらか泥に汚れ、髪も服も乱れたままの身なりは一悶着あったことの証明で、その原因は大半こちらにあった。あの鎖を掴まなければこんな格好でこの場にはいない。お互いに綺麗なまま別々の場所にいたはずだ。
容赦も遠慮もしなくていいと言った住職も何が『悪い』かはわかっているのだろう。その上でそこまでさせてしまった自分自身の行いをよく考えろと告げ、重々しい音の拳を我が子の頭上に放つと去って行った。
「いってぇ……」
「いいザマだ。反省しなクソガキ」
「親父も獄も人のコトなんだと思ってんだよ!」
「人語を解する躾の出来てない獣」
「失礼すぎんだろ」
拳骨の落ちた場所をさする子供が恨めしげに父親の消えた方を見つめながら、はた、と目をしばたたかせ、に、と笑う。何か――この悪童にとってだけ――――ひどく愉しいことをひらめいた時の角度に上がる口の端と目尻に、つい住職が閉めた襖を見てしまった。もう一度、今すぐに開きはしないか、と。
「ケダモノって言うけどよ、獄。じゃあ今日まで拙僧の首根っこ掴んで引っ張ってたのは躾ってヤツかぁ?」
当然、開くわけもなく。にまにま、にやにや、と真珠色の犬歯をちらつかせながら子供が笑う。ああおっかない、こりゃホントの暴力弁護士だ、週刊誌もネットも大喜び。赤々とした舌が踊り紡ぐ煽り文句は聞き飽きたつまらないものしかない。その程度の挑発は眠たいだけだ。
ところが効果が薄いと知るや、おもむろに身を乗り出して片耳を手のひらで囲われた。逃げてもいいが寺の中――まずは卓上――が荒れる。せっかくの厚意を子供の悪だくみで無碍にしたくない。観念して耳を構えると、わざとらしく息をひそめ、可愛らしく声を装った。
「……なぁ、獄……」
囁くような第一声に子守唄でも奏でてくれるのかと思った子供はしかし、すぅ、とたっぷり息を吸って、はぁ……と熱い吐息をこぼすと、目も覚めるような恐ろしい話を語り出した。
「……さっき拙僧のコト、押し倒して、引っ張んの……すっげぇ愉しそうにやってたぜ……?」
「首引っ張られて転げて、腹見せたまま上に乗られて、イイコになるまでのお仕置きに息も出来なくされた拙僧見て……獄、やぁらしぃ顔してたの気づいてねぇだろ……?」
「今日だけじゃなくて、今までもずぅっと……そういう、ひでーことして興奮する奴のこと、サドって言うんだろ……? ……なぁ、サド弁護士の獄センセ?」
幼子が内緒話をする仕草でおぞましい告発を流し込まれ、暑くもないのに汗がぶわりと吹き出した。身に覚えがない冤罪と断じるには、後ろめたい記憶がある。冷や汗は、幸いなのか感情と同じに顔には出ていないらしい。ち、と粗野な舌打ちを鳴らした子供は、す、と元の位置へと戻っていた。
「つまんねぇの」
「つまるつまらんで人の名誉を毀損しないでもらえるか?」
「獄にしか話してねーし、獄しか聞いてねーだろ」
「俺が俺の存在しない特殊嗜好を聞かされて不快な思いをしてるだろうが」
「いちいちややこしいんだよ……でも」
『存在しない』は嘘だろう?
じぃ、と細めた金眼でこちらを見つめる子供に射抜かれて退路を絶たれた。嘘を許さないというよりも、何故嘘をつくのかという疑問に満ちた眼差しにどう答えたらいいのか自分でもわからない。
他人に負けるのが嫌いだ。負けたら悔しい、苛ついてたまらず、恥ずかしいし虚しい。胸いっぱいに広がる苦い感情がやがて全身を埋め尽くし、どうしようもなくむしゃくしゃする。
勝つのはその反対だ。どこまでも晴れ晴れとして清々しく、気持ちがいい。日々積み重ねた全てが報われ讃えられる。そのためならば寸暇を惜しみ、手段を選ばず、なんだって出来るししてきた。
あの時に感じた興奮は、強いて言えば勝利の快感に近い。それはそうだろう。出会ってからこっち、人の話を聞かないクソガキに振り回され続けているのだ。やられっぱなしのつもりはないが、どうしても大人としての対応を考えて御しきれない事が多い。稀代の暴れ馬の手綱をようやく握れたのだ。達成感がないわけがないだろう。
認めよう。頭抜けた身体能力で口の減らないクソガキを一時的とはいえ屈服させて黙らせられたのは非常にスカッとした。決して弱った姿を見せない図々しく太々しい子供が息の詰まった反射反応でも涙で目を潤ませるのに溜飲が下がった。思ったよりもおとなげない鬱憤がたまっていて、ここぞとばかりに解消したのは認めよう。
だが、愉しそう? やらしい? サド?
――そんなわけないだろう。
「……あのな空却」
「自分のことって自分じゃわかんねぇし、認めらんねぇモンだよなぁ」
近しく感じる、よく似た感覚なのは同意しても、嗜虐趣味との決めつけは納得がいかない言いがかりだ、と伝えようとした刹那、よっぽど他人を玩弄するのが上手そうな金色が微笑みの形に歪んだ。庭で見せたのとは違う、自らの優位を確信した上目遣いのまま傾げ、晒された首が追い打ちをかける。
まだ乱れたままの襟元はそうでなくとも大きく開いていて、無防備に日に当たっているはずなのにいつ見ても雪原のような首に痛々しい吉川線がまばらに散る。細くまっすぐなチェーンと違い、ごつごつとした無骨な鎖の痕は濃淡の差があり、絞め痕というよりも、むしろもっと卑猥なものに見えた。
純粋な勝利の証と言うには邪悪で、情や色と言うには一歩足らず、単純な暴力と言うには加減されている、何もかも中途半端なその痕跡は仕分け損ねた曖昧な全てを含んでいて、認めたらきっと毒になる。自分も、目の前の子供も侵して、殺して、違うものに変えてしまう。
「いい加減にしろ……人を変態扱いするな」
はぁ、とため息をついて目の前できらめく黄金から目をそらす。敵前逃亡と取られていい。もともと負け戦はしない主義だ。勝利条件が見えないが勝っても負けてもロクなことにならないのはわかる。ならば戦わないことこそが最適解であり最終的な勝利だ。
「ヘンタイとは言ってねぇだろ」
「俺を他人をいたぶって興奮するサディストだって言ったろうが」
せっかくこちらが白旗を上げ、降参だと両手も上げたのに、子供はそんなものいらないとつっぱねる。しかも視界に入ろうとちょこまかと動くから、そのたびに白い首元に不釣り合いな艶めかしくも見える痕跡が嫌でも目に入った。
茶も、茶請けも隅へと移動させ、万が一にも庭での二の舞になるまいとする。中身はともかく住職が息子とその客人に振る舞う時の器は、商店街でまとめ売りされているのと同じものだが、ほいほい割っていいわけではない。痺れを切らした子供が、ついに真正面から卓上に乗り上げて躙り寄ってきたのだから。
「そこが違ぇんだよ。いいか獄、獄は――」
上目遣いで見上げられた時とは違う、尊大な子供がお得意の我流説法で説き伏せる時の目をしている。長い睫毛が深く濃い黄金に影を落とし、さらに暗く重い色に見せた。光を背にしてなお白い肌に、より克明に浮き上がるこの問答の原因、その根までもが逃げも隠れも出来ないままに突きつけられる。
「獄は、拙僧にだけ『そう』なんだよ」
判決を言い渡される罪人はこんな気持ちなのか。すんなりとした首からぶら垂れる凶器が、子供が身動ぎに合わせて擦れ、ちゃり、と鳴る。
愉しいたくらみに道連れに出来た悦びに酔った声で、見なくとも妖しく歪みとける黄金が目に浮かんだ。不自然でないていどを装って、逆に自然に見えない揺れ方をするネックレスが、ときおりかち、ちゃり、と音を立てて、誘う。
悠然と構える不遜な悪童を伏せる手段を知っているだろう、と。猛々しく吠え軽やかに歌い惑わし囁く声音を静かにする術を得たのだろう、と。腹の内どころか心の奥底まで見透かすような金の双眸を塞ぐ方法は理解しているはずだ、と。
果たしてその声は、子供のものだったのか、自分自身のものだったのか。
気づけば手が、首へと――
2024/1/29
一周年のくわだて
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