五十六億七千万顧の礼
うららかな春のろくでもない出来事――肉体と精神が入れ替わるというとんだ珍事――から少しして、じっとりと湿り空が曇る梅雨時。寺という静謐で厳かな印象を与える場所の一角では不釣り合いな喧騒が今日も響いていた。
「コ〜ンコンコン。やはりこの男の体は居心地が良い」
「はぁ……しつけぇなぁ……」
曇り空のせいで薄暗い昼間。年配の多い地域だから降り出しそうな天気ではめっきり訪問者が減るのだが、珍しく玄関ベルを鳴らすものがいた。
もっとも最近は珍しくなくなってしまったのだが、ともかく、戸を開けた先には招かれざる客が家族の顔と体で立っていた。
あの日、空却が獄に降ろしてしまった『なんか適当な霊』こと『九尾』を名乗る狐の霊はすぐに祓ってお帰りいただいたはず、なのだが……。
「どうした愚かな人間。我に会えて嬉しかろ」
どうもこうもないし嬉しくもない。毎回毎回、言葉も態度も一切取り繕わずにそう伝えているのに、大口の仕事やら厄介な案件で心身の消耗した獄を狙って入り込むのだ。
いつまでも玄関で問答しているわけにはいかないからどうにか客間に押し込んだが、畳の上、気取ったポーズをとりながらコンコン鳴く姿は数日前にも見ている。
特別に霊媒体質ではないようだから、たまたま狐と波長が合うのだろう、と父親が困った顔をしていた。しつこくて面倒くさいところは似ていなくもない。すぐ祓ってしまうから知らない――知りたくもない――が、もしかしてもっと似たところもあるのだろうか。
「人間、殊勝にも我の事を考えているな」
「ん? あぁ、獄がカワイソウだからテメェをさっさと追い出さねぇとと思ってな」
「可哀想なものか。この男が我が簡単に入り込めるほど疲弊しているのは自業自得ぞ」
金儲けだけすればいいものを脆弱な者どもを無償で助けてやるなぞ馬鹿らしい、とため息と共に吐き捨てる顔は見慣れた獄のものなのに、その表情が唾棄すべきほどに違う。声だって聞き慣れた獄と同じものなのに発する一音一音が癇に障る。
「とっとと出てきな」
「おお怖い。この男がずいぶんお気に入りか」
「拙僧の大事な『家族』だ。そいつやそいつの体でなんか変な事してみろ――祓う以外も出来ねぇわけじゃねぇんだからな」
暗に封印も消滅もさせられるのだと示してやれば、コンコン、と愉快そうに喉を鳴らす。ただし眼光はす、と鋭く細められ、ぎらぎらと警戒心をあらわにきらめいた。
「『家族』、ねえ」
「お前だってこんなになる前にゃ親兄弟がいたろ。大事かどうかは知らんが」
「いたにはいたが。なにぶん、遠い遠い昔のことでなあ……」
過去を振り返り言葉をにごすしぐさは少しだけ獄に似ていた。にごされた過去の話はもう聞かせてもらって知っているが、思い出せなくなることを恐れるように怒っていた顔は今も鮮明に焼き付いている。この霊にもそういう過去があるのだろうか。ならばさぞかし居心地がいい事だろう。獄は傷ついたものを見捨てられず、懐におさめたものにはひどく優しく、甘い。
「そろそろ祓う――」
「まあ待て、この男は『家族』だけではないようだぞ?」
「は?」
「お前の事だ。『家族』以外にも思うところがあるようだぞ」
獄の中に入り込んだ狐の眼光はいくらかやわらいだものの、化かし合いでの語りぐさがいくつもある種族の霊だ。果たしてどこまで信用なるものか。なにより――
「バァカ、本人以外の口から聞いた話なんざ真実だろうと意味ねーよ」
「我がこの男の魂から読み取った記憶が真実ではないと?」
「あんなぁ……拙僧は魂から感情だの記憶だのを読めねぇから、獄に取り憑いたお前から聞かされても嘘か本当かわかんねぇの。それに、だ。たとえ本当でもお前の話は信じらんねーし、たとえ嘘でも獄の話は信じる。おわかり?」
「当人ならば嘘でも信じるとなあ!」
さすが人間、愚か、腹が痛い、と獄の体を乗っ取った狐が笑い転げる。髪も服も乱れ、子供のように畳の上を跳ねる姿は当人が見たなら憤死しかねない。
「信じるよ。いつか本当の事を話すかもしんねーし、嘘が本当になるかもしんねーし。……ま、悪い嘘なら信じねぇけど」
「いやはやなんとも慈悲深い。かぶいた見目でも坊主よなあ。ならば、たくさん『嘘』を並べてやろう」
微笑みに擬態した狡猾で悪辣な口角の上がり方もよく似ている。目の酷薄な細め方も、内緒話を囁くような声音も。ただ悪意、時には殺意すら宿るそれを獄に向けられたことはない。罠にかかった獲物をどういたぶるか決めあぐねるような顔は『家族』に向けるものではないからだ。
なんとでも言うがいい、と真正面に胡座をかいて腕を組む。狐が立ち上がるそぶりを見せずにだらしなく――図々しくも涅槃図に似た体勢で――寝そべりながら、何を言うかと聞き届けようとしていた。
「この男、お前に惚れておる」
「はぁ?」
「言葉のとおりよ。出会った頃からとは……まぁずいぶんと稚児趣味な……」
「こンのクソ狐! 言うに事欠いてソレかぁっ!?」
「なんだなんだ、『当人の言葉でないなら信じない』のだろ? 一つ目の『嘘』でその様ではどうなってしまうのやら」
大成功とばかりに細く深く弧を描く目と口は、わずかな隙間から覗く眼球や口内が真っ黒にぬめって光る。
悪いものを垂れ流すためだけに働く装置があったなら、きっとこんな風に動き出すのだろう。悲しいかな、動力と材料を与えてしまったのは自分自身で、効果的な『嘘』とわかったならば生産は加速しても停止はしない。
「可哀想になぁ……お前を大切にしたいから、と乙女のように繊細な恋心を胸に秘めているのに『嘘』と決めつけられて……」
はぁ、と湿っぽいため息をつきながら、心臓のあたりにそっと手のひらを当てる仕草が癪に障る。俯き加減に寝そべっているのも相まって、本当に苦しげに見えるのも気に障る。
「黙れよクソ狐、『嘘』ならブジョクザイ、『本当』ならコジンジョーホーローエイって犯罪だかんな」
「コン、コン、人の尺度で我々を裁けたか?」
死を願って夜な夜な釘打ちしても、生死の問いに紙の上で小銭を滑らせても、その行為によって生じた損害は裁けても『霊』の証明には至らない。故に存在の曖昧なものを裁く法は未だない。
だから今、狐は人間の男――獄――の体を乗っ取って遊んでいる。
「それとも、この男の『恋心』を裁くのか? 親子ほどにも歳の離れた相手に懸想するのはほとんど罪科なんであろう?」
「お前の『嘘』で獄に罪を被せる……そういうの、エンザイって言うんだぜ?」
胡座をかいたまま、よよ、と身を捩る――狐に肉体を不法占拠された――獄の顔をそれとなく覗き込む。
楽しげに歪んだ目元口元からは真贋はわからない。確実なのは狐が空却も獄も玩具としか思っていないことで、取れる解決策は『狐の言葉を信じない』しかなかった。
「毎晩、お前の名を呼びながら自身を慰めていてもか?」
「ジジイはすぅぐ下ネタに走ってよくねぇな」
「『家族』と信じる男の頭の中で、毎晩犯されていて良い、と?」
「テメェが人間だったら身ぐるみ剥がれて豚箱行きだぜ? 良かったなぁ、オバケで」
シナを作っていた狐が今度は股座へと手を伸ばし、しゅ、しゅ、と下から上へ、陰茎を扱く素振りをして見せる。
わざとらしくはぁはぁと息を切らし、小刻みに腰を揺らすのに思わず眉根が寄った。本当に、股間が窮屈そうに膨れて見えたのを気のせいだと言い聞かせる。
「面白いぞぉ……? 格好つけた男が小娘のような初々しい恋に振り回されて。そのくせ、やれ笑った顔が可愛いだ、服が乱れて無防備だと、毎夜獣じみた欲望にも振り回されて……まったく、罪作りなお坊様よ」
熱い吐息をたっぷりと乗せて妄言を吐き出すと、同時にかくかくと不自然な動きも止まった。
「この場で一番罪深いのはテメェだよ、クソ狐」
「僧侶の身の上で迷える衆生をさらに惑わす方が何をおっしゃいますやら」
コンコン、と都合よく鳴き声を上げ、指先で影絵の狐を作ってぱくぱくと口を動かすそぶりを見せる。自分のものとは違う、長く大きく、硬く筋張った狐は、すぐにまた引っ込んでいった。
「獄どころか拙僧にまでてめぇのやらかし擦りつけやがるたぁいい度胸だよ」
「……本当に」
「あ?」
「本当に、何の意識もしていない、と?」
徹底的な拒絶を崩さずにいると、狐はぼそりと一言つぶやいたのち、寝そべっていた身を起こして向き合うように胡座をかいた。
先までのあからさまに揶揄おうとする表情と声はどこへやら。狐でございと主張する細められた目口の奥からも遊びが消え、乗っ取られた男が真面目な話をする時と同じ神妙さだけがあった。
話の流れは続いている、つまりまだ狐はいる。驚きに跳ねた心臓を抑えつけ、距離を取ろうと僅かに退く。
「何の意識だよ。好いた惚れたならなんも意識してねーよ」
「コンコンコン! 本当に?」
真っ黒な腹に一物どころではないたくらみを抱え、コンコンと狐が笑う。今度はこちらへと矛先を向けた。不在の獄の真偽不明の情報で揺さぶりをかけても『嘘』と断じて信じないならば、ということだろう。馬鹿な狐だ。
「拙僧と獄は『家族』だ。それ以上も以下もねぇ」
「……言葉を変えよう。この男が『家族』以外の関係をも求めてきたらどうする?」
「コイビトとかそういうことか?」
「そうそう、お前を恋しい、愛しいと乞い焦がれ、口を吸い、抱きたい――と求めてきたら?」
気づけば見慣れた男の知らない顔が目の前にあった。
狐そのものの四足獣の格好で顔を覗き込まれ、鼻先に鼻先をすりつけられる。まつ毛が、くちびるが――触れ合いそうな距離に再び退こうとするも、素早く伸ばされた腕に後ろを塞がれた。
「答えは?」
「だから……」
「今、このままくちづけたら」
お前は嫌なのか、嬉しいのか、なんとも思わないのか、わからないのか。
続けられなかった言葉はおそらくそんなことを問うている。
どんな答えでも正解も不正解もなく、ただ真実を求められている。
でも、そんなの――
「何度も同じ事言わせんな! 拙僧は『獄』が口にした事以外は信じねぇし! 『獄』に聞かれた事以外は答えねえ! クソ狐の暇潰しに付き合う義理はねぇんだよ!」
「おお怖い」
ほとんど触れかけたくちびるを追い払うように、ことさら大きな声を出して拒絶する。睨めつけながらの絶叫は威嚇として機能したのか、頑なと諦められたのか。つまらなそうに退かれ、目も剣呑な色を引っ込めた。
「ったく……獄と拙僧をオモチャにして何が楽しんだか……」
「だから言っておろ、格好つけた男が生娘みたいな恋にじたばたして、経験だけはいっぱしだから夜な夜な肉欲にじたばたして……。それだけでも滑稽だというのに、肝心の相手にはなんとも思われていないようなのが可笑しくて可笑しくて……」
「ホンットに下世話で悪趣味だなクソ狐」
「で、実際どうなんだ?」
「だぁから信じねぇし答えねぇ! 『家族』だっつってんだろ!」
いい加減、煩わしくなり祓う準備をはじめる。
そもそもここまで付き合ったのが間違いだったのだが、変な事を言うものだから引きずられてしまった。あぁ、修行不足の未熟者と叱られる。
短期間に憑かれすぎて、考え事をしながらでも出来るようになってしまった祓いの締めの文言を唱えた直後、コンコン、という断末魔が耳をくすぐった。
さて、どこまでが『嘘』だったろうね――
不穏な捨て台詞はそのまま狐の気配ごと霧散してしまった。
「つーわけで、今回も祓ってやったぞ」
「……恩に着る。言い訳にしかならんが最近仕事が詰まっててな……」
「まさにそこにつけ入ったってクソ狐本人から申告があったぜ。いつも言ってんだろ? 仕事ばっかしてねぇで休め! んで早寝早起きして朝昼晩ちゃんと食え!」
胡座をかいたまま頭を抱える獄を叱る。祓った後は少しぼんやりするらしく、眉間にシワを寄せて唸っていた。
ここ最近の三日と置かずに祓っているような状況はさすがにあまりよろしくない。獄の事務所の職員にも協力して貰わなければ、この憑いた祓ったの負の連鎖は終わらないだろう。
「しかし毎回毎回、憑かれるたびにウチに来んのは根性あるよなぁ。体の自由、きかねぇんだろ?」
憑かれている最中、肉体の主導権は狐に奪われているし記憶もほとんどないらしい。祓うたび、今みたく目元を押さえながら何をやらかしたかを詳細に尋ねられ、覚えている限りは答えてやっている。
最初は面白がってもいた。けれども度重なる憑き物落としの中で、あることないこと言いやがって、と沈痛な面持ちで獄がつぶやくのを聞いてから考えを改めた。
突然に体の自由を失い、その間の意識も記憶もない――普通の人間ならおかしくなりそうな状況を、プライドが服を着て愛車を乗りまわしているような男は我慢ならぬと吠えながらも耐え忍んでいる。
ましてや多忙を極めて疲労困憊した体を乗っ取られてなお、無意識に祓ってもらおうと寺に来ている意地は『家族』として誇らしい。
「……? いや、俺はお前に……」
「ん? 拙僧に用があったのか?」
まだ霧が晴れないままの頭をどうにか回している獄が、覇気のない声で賛辞に否と告げる。
無意識ではなく用事があって来ていたらしいのだが、獄の仕事を増やす事はあっても手伝う事はほとんどない。チームとしての集まりも、仕事を理由に断られる事が重なって最近は声をかけていなかった。一体、自分に何用があるのか。
加えて言えば、無意識の抵抗でないのならば獄は寺に来たところを狐に狙われて取り憑かれていることになる。ここ最近の頻繁な珍事はよもや自分由来ではないか。
「獄」
「……すまん、まだ……頭が、混乱してるらしい」
「ヘッタクソな嘘つくんじゃねーよ。拙僧に用があんだろ? そんで寺に来ちゃあクソ狐に取り憑かれてたんだろ?」
どうやら言いにくい用事らしい。隠すように項垂れた獄の顔が、下を向く寸前まで失言した、と自白していた。
祓った直後は術者がそばにいるから、またすぐに取り憑こうというヤツはほとんどいない。どんな用事かは知らないが、ここで済ませなければ延々と終わらない用事のために寺に通い詰めて狐に憑かれる、現代の怪談じみた男が生まれてしまう。
「今ならクソ狐も近寄ってこねーから。とっとと用事すましちまえよ」
「……その前に、今日は何を言ってた……?」
「あぁ? 今はそんなんどーだっていいだろ」
「俺には我慢ならんもんが二つある……一つは人の体を乗っ取って好き放題するヤツ、もう一つは質問に対する答えをどうだっていいと言うヤツだ……」
「面倒くささのキレが悪ィ。獄、弱ってんな」
「失礼な事言ってねえで答えろ!」
果たして狐の嘘ばかりの言葉にどれほどの意味と価値があるのか。思えばこれまでは居心地のいい体を得た狐がやりたい放題しようとするのを止めたり、今日のように魂の記憶とかいうのを勝手に暴露されたりしてきたが、こちらまで巻き込んで揺さぶりをかけられたのは初めてだった。
あんまりにも祓いすぎて辟易されたのか。ならば寺に常駐などせず、獄の職場だの自宅だので取り憑けば良い。そうすれば自分や父親が到着するまでの間は好き放題出来るものを。
「獄が拙僧の事、好きだって言ってた」
「……それで?」
「初々しい恋してんのに夜な夜なマスかいててウケるって」
「……空却、お前はそれ……」
「いつも言ってんだろ、『獄』が言ったこと以外は信じねぇって」
隠れたままの顔は見えないけれど、最初の一言目で凍りつき、緊張して低く地を這う声で続きを促された。
だからなるだけ重たくなりすぎないよう、素早く軽く、一気にまくしたてた。こちらとて頼まれたとはいえ、あまり口にして面白い言葉ではない。
そうまでしても存外に繊細な性格だから傷ついたのだろう。恥辱に震え、掠れた低音が慚愧の念をもらすのにも慣れてしまったが、何度聞いても痛ましい。
そんな『家族』として見ていられない姿を励まそうと、毎回必ず言っているのが、狐にも言った言葉だ。姿形に惑わされない、絆と縁を結んだ魂を信じる、と。
毎回のごとく言っているそれが、安く薄いものになっていないかと思いもする。突き詰めれば伝えたい事はほとんど同じで、信じているというのもそういった言葉の一つだ。信じていると言いながら、信じてほしい、と言っている。
幸いにも今日も獄は信じてくれたらしい。
いつもと同じ、安堵と共に吐き出された深い吐息と、消えたはずの恐ろしいものの余韻に震えるため息。そして最後、自嘲するように鼻を鳴らす。
いつもどおり、つつがなく全てがいつもどおりに終わった。だが今日は続きがある。
狐が隙だらけの取り憑き放題と喜ぶほど、疲弊した状態の体に鞭打って寺に通った『用事』を済ませなければならない。
さぁ吐け、と無言のまま目で訴える。いまだ畳を数える姿勢の獄と目が合う事はないが、視線だけで十分に伝わっているだろう。
間も無く、のろのろと持ち上げられた顔は中身も含めて『家族』と呼ぶ男のものだった。
「……俺が、お前を好きだって言ったら、どうする?」
その口が狐と同じことを問う以外は。
「……すき」
「すき焼きとかじゃないからな。ふざけるなよ」
「んなつまんねーこと言わねぇけどよぉ……」
すき。スキ。好き……。
当然、『家族』としてではない、という意味だろう。
目の前の男が清水の舞台から飛び降り続けている顔をしてこちらを見ているから間違いない。
「……マジで?」
「この状況で嘘ついてどうする」
「たしかに嘘ならクソ狐に負けず劣らずの悪趣味だけどよ……」
藪から出た瓢箪から飛び出た駒に当たったような気持ちが拭えないまま、自ら口にした信じるという言葉を反芻する。
信じ難い事でも『家族』が、獄が真実だと言うならそうなのだろう。茶化していい空気ではない。正面で思い詰めてじわじわ青くなりつつある顔は至極真面目だ。
好きだという言葉は嘘ではない。では――
「空却、俺には俺の言葉を信じてもらうよりも大事な事がある……わかるな?」
わからない、などとは言えない。思い返せば狐だってずっと同じ事を言っていた。
『獄がお前を好きなら、お前はなんと答えるのか?』と。
口よりも雄弁な、嘘のない目が突き刺さる。
どんな答えでも受け止めるという覚悟のうかがえる眼差しに果たして自分は答えられるのか。
獄が好きか? くちづけをしたいか? 肌を合わせたいか? ――答えは否だ。
だって、ずっと『家族』だった。その前だって、腐れ縁なんて言い合って。名前が変わっても、一緒にいる時間が増えても、ほとんど変わらない関係のまま、今日までいたのに。
好きではある。大事で、大切な。でもそれは『家族』としてで、今問われているのとは違う。
「……いい。はじめからわかってたことだ」
そんなに困った顔をするな、と普段なら軽く頭でも叩きそうな手は一瞬伸び、そのまま落ちた。
自分を懸想している人間に触れられるのは嫌だろう、とばかりにぎこちなく引っ込められ手が、畳の上で寄るべなく握られる。
でもそれを止める事は出来ない。だって、気にせず触ってほしいなんて、そんなのは期待をさせるだけだろう。
「獄が、嫌いとかじゃねぇ」
「わかってるよ」
すきで、スキで、好きだけれど、同じ『好き』じゃない。獄がなりたい関係にも、したい事にもピンとこない。
考えている事は全部バレているんだろう。笑いながらも寂しそうな、傷ついた顔をしているのを隠せないほど、自分は『好き』だと思われている。
だからこそ答えられない。嘘をついたところでボロが出て、余計に獄を傷つける。
「……なぁ、獄……」
「なんだ」
「いなくなったり、しねぇよな」
昔あったのだ。告白をされて、今日のように断って、それからぱったりと関係が途切れてしまったことが。
恋人にはなれなくても友達ではいられないのか。周りからは期待してしまうんだ、気まずくなってしまったんだ、とも言われたけれど、じゃあ恋人になれなければもう二度と会う事も話す事も出来なくなるのか。
恋人になれないなら、それまでの全部、なかったことになってしまうのか。
そんなのは、イヤだ。ワガママだとしても、傷つけてしまうのだとしても、離れていってしまうとしても、せめて、何も言わずにいなくならないで欲しい――
「なんて顔してんだ……」
自分がどんな顔をしているかなんてわからない。ただ、今日まで、出来る事なら明日からも、死ぬまで、死んでも苦楽を共にする『家族』を失いたくない。
そういう必死さが露骨に出ていたのだろう。憂いを帯びていた笑みにいくらか明るさが宿る。仕方ない、と口だけの文句を垂れながらも満更ではなさそうに手を貸してくれる、いつもの仕草だった。
「一度や二度とフラれたくらいでいなくなるわけないだろ」
「拙僧まだ一回しかフッてねぇけど」
「二回もフレると思うなよ。……だいたい、何があっても俺たちは『家族』だろ。お前が俺を選ばなくったって、それは変わらない、だろ?」
そう言う獄の顔は寂しさも憂いもきれいさっぱり流した破顔で、思い詰めたように好きだと言ったのが嘘のように明るい。
「何があっても変わんねぇ。ずっと『家族』だ」
「それでいい」
満足そうに頷かれた後、小さく何かつぶやいたのは聞こえなかった。目だけでうながしたけれど、なんでもない、とやはり目で答えられて、そのままにする。
そうして生まれてしまった微妙な間を埋めるように、狐がどういう状況を狙うのかをあらためて説明した。
最初に取り憑かれた時点で相性がいいのだろうとは思っていたから、とにかく隙を作らない、を一番に。普通の獄ならば狐の入り込む余地はないから規則正しい生活で健康な肉体を作れば間違いない、と。
「あとは狐は寺のあたりをうろちょろしてるみてぇだから、どーしてもって時以外は無理して来ない方がいいと思うぜ」
「……あの狐、完全に排除は出来ないのか?」
「うちの親父の方針だと、獄の体を乗っ取って暴れるとかでもしねぇ限りは出来ねぇなぁ……」
いたずらものの霊とてそこにある生命、決定的な悪さをするまでは言って聞かせるにとどまる――と連日の騒動がはじまったばかりの頃に相談して言われていた。
たしかに狐のやった事といえば獄の体を乗っ取って寺で遊ぼうとしたり空却にちょっかいを出したりするていどなのだ。当事者としてはたまったものではないが、犯罪や災害を起こしたものどもと同じに扱うにはしょぼくれたいたずらにとどまる。
「ま、だから健康になって狐がおいそれと取り憑けなくなるまではうちに来ねぇ方が安全ってこった」
「そうか……」
眉間にシワを寄せながら相槌を打った獄の、ちっ、という舌打ちが虚空に放たれたのは聞かなかった事にした。
そういえば用事はどうなったのか。狐に憑かれても通い詰めたのは、よもやまさか、先ほどの告白をするためだったのか。ならば用事は済んだのではないか。その割にはまだ通うようなそぶりをしていて腑に落ちない。
「用事、まだ済んでねぇのか?」
さすがにもう告白しただろうと言う気にはなれず、持って回った言い方になった。たぶん、目の前の男は正しく受け取ってくれる、はずだ。
光が当たると緑色にも見える鋼色の目の中に、おかしな顔の自分が映る。聞いているはずなのに答えを聞くのが怖いと言うような、おかしな顔だ。そんな顔じゃはぐらかされると思うのに、む、と閉じていた口は腹を括る前に答えを出してしまう。
「おっ前なあ……。『家族』なのは変わらないって言ったけど……いっくらなんでも鈍すぎるだろうが……!」
「は?」
「いつ飯食って寝たかも覚えてないほど忙しい中! 風呂だけは毎日入って最低限の体裁整えて! 悪霊クソ狐に取り憑かれるリスク度外視して! 無理矢理でも時間作って寺に来てる『用事』……まだわかんねえか?」
くわ、と目も口もいっぱいに開かれて、真っ先に深く長いため息を吐き出された。助走がついたのか一気に捲し立てられた言葉に頭がてんで追いつかない。
ついさっき、ほんの少し前まではわからなかったけれど、今はもうわかってしまう。そんなたわけた『用事』に良い事なんてないだろうに。
「バッ……カじゃねぇの」
「なんとでも言え」
俺は負ける勝負はしない、と、うそぶく目は、狐に取り憑かれたでもなければ、見慣れた男のものでもない、そんな色をしていた。
2024/6/29
一周年のくわだて
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