雨降って、ぬかるんで、踏み躙って

 真っ黒な空に舞う桜が雪か星のような夜だった。
 早寝早起きを言いつけられるのに嫌気がさし、布団から抜け出して、一番に目に入ったその光景は夜半の冷えを打ち消すほど鮮烈に焼きついた。
 ほぉ、と感嘆を漏らし、寺を囲うように等間隔に植った桜が街頭に照らされるのを見渡して慌てて門から離れる。
 父親の勘の良さは異常だから脱走はすぐにバレるだろう。
 だから出来るだけ移動して距離を取りたい。たとえいくらもせず光と見まごう速度で父親が迫ってきて、とっ捕まる未来が見えていても。

 しかし見事な桜だ。早く離れなければと思うのに、風に揺さぶられ、ざぁ、としなる枝からほろほろと落ちる花びらを目で追ってしまう。
 何の気なしに胸元で掲げた手のひらにも降り注ぐ小さな花弁を、どうにか何かに使えないかと考えながら桜の周りをぐるぐると回る。そんなことより早く逃げなくては。
 ざぁ、ほろほろ、ざぁ、ほろほろ……くり返し手のひらに積もった白い雪星が肌を隠してしまう頃、ぐ、と何かを踏んづけた。
 桜の木の根っこよりやわく、桜の木よりもあたたかい。ぐぅ、と呻いた声が酒臭いから獣でもない。
 こんな夜中に野晒しになっているなんて、すわ酔っ払いか、と足元を見れば、なんの偶然か運命か、少し前まで嫌というほど顔を合わせていた男が転がっていた。
 顔が赤いしこの臭いだ。間違いなく酔っ払いだろう。桜の下、ぐでんと脱力し、のびのびと伸ばされた手足は思うままの方向を向いている。
 手ぶらに見えるのは置き引きされたからなのか持ってきていないのか。後者であることを祈らずにはおられない。どれほどこうしていたのか、ご自慢の髪にうすら積もった花びらは真実、雪のようだった。
 やっぱり酒なんてロクなもんじゃない。作りたてほやほやの貸しがあるから返済として起こしてやろう。ただ寺からそう離れていないから大声は出したくない。けれどもこの酔っ払いが普通のやり方で起きるとも思えない。
「おーい」
 とりあえず正面を陣取って屈み、ほどほどの音量で声をかけてみる。案の定、ひとっこひとりいない静かな空間では響くし目立つ。
 ち、と小さく舌打ちして、片手に花びらをまとめると空いた片手で肩を掴んで揺さぶった。意識がない人間はあんまり揺すらない方がいいとか教わった気がしたが、寝ている人間を揺さぶって起こすのはままあることだから大丈夫だろう。
 ぶんぶんと遠慮なく揺さぶり続け、ときどきおーい、こらー、銭ゲバー、酔っ払いー、と小声で声をかける。つどつどにうなされた様に唸ったり、う、と嘔吐くから、吐いたら面倒だなと思いながら揺さぶった。
 幸いにも一分もせずに眉を顰めながら嫌そうに目を開いた。吐かなかったし万々歳。後は家まで帰れるか確認して、ダメなら付き添ってやろう。
「よぉ銭ゲバ弁護士。酔っ払いの野晒し法廷バトルにゃ勝てたか?」
「……俺が負けるわけねえだろ……」
 具合悪そうにしながらそれだけ吠えられれば上等だ。少なくとも酒には負けてるのは指摘しないでおこう。
「なんかなくなってるモンとかねぇか」
「……スマホしか持ってきてねえ……」
「じゃ、他の荷物は家か?」
「事務所……」
「大丈夫ってこったな」
 寝ている間に多少アルコールが飛んだのか、思ったよりもすらすらと受け応える。事務所だから仕事の最中か終わりに呼び出されたのか。なんであれ放置して帰ったなら最悪だ。
「酒飲む相手は選べよなぁ……。立って歩けっか?」
「大人はしたくもねえ酒盛りをしなきゃいけねえこともあんだよ……」
 中坊にはわからんだろうが。
 その中坊に発見されて起こされて何をぬかす、と喉から出す前に、中坊、と口の中でくり返される。桜に寄りかかったまま立ち上がらず、ちゅう、ぼう……と何度目かのくり返しでようやく満足したのか、ぴたりと止まり、直後になぁ、と初めて聞く声で囁かれた。
「……このまま、ふたりでどっか行っちまおうか……」
「はぁ? 何言ってんだ酔っ払い」
「桜が、吹雪いてんだろ……だから……」
 お前がよく見えない――と、ひときわ酒臭く、熱い吐息まじりの懇願がぶわりと耳に襲いかかる。
 小さく頼りない、舌足らずですらある声はしかし、いつもがなりたてて吠える男が出すとは思えない。深く低い、なのにひどく甘いもので、こもった響きのせいか酒精の名残か、揺らされた鼓膜がびくびくとふるえ、背も跳ねた。耳から入って脳を侵し、髄を通じて背をぞわぞわとくすぐるこの音は、自分が聞いて良いものなのか。
 本来、もっと聞かせるべき相手がいるのではないか? と思わずにはいられない声音はすさまじく、屈んだ足がくにゃんと折れて戻らない。ぺたんと男の前を陣取ったまま動けなくなった頭の中には、見知った大人の知らない姿がごうごうと吹き荒れている。
「目の前にいンだろ……っ、よく見ろよ」
「だから、桜で見えねえんだよ……」
 もっと、もっと近くに寄れ、とすっかり油断していた手首を掴まれた。酔っ払いのクセに、酔っ払いだからから、妙に素早くするん、と動いた手のひらは、いとも容易く両手首をひとまとめにしてしまう。大人の男の片手に捻られた手から、ばぁ、と花びらが散った。
 一回りと少し大きいだけという認識自体は正しかったものの、まさか酔っ払いに片手で制されるほどの差とは思ってもいなかった。振り払おうにも酔っ払って力加減をすることが出来ないのだろう、身じろぎするたびにぎゅうぎゅうと締めつけられる。あげく痛みに怯んだ隙をついて、ぐ、と体を引き寄せられてしまった。
「いてぇって! この酔っ払い……っ!」
「お前が、いなくなるからだろ」
 酒臭い吐息が耳だけでなく、頬を、顎を、額を、顔を撫ぜる。ざり、と髭が擦れるのがこそばゆくてたまらない。ぎりぎりと力が込められ続ける手は怖いくらいなのに、ぐりぐりとすり寄せられる顔は寂しがりで甘えたな子供そのものなのに絆されそうになる。
「……なぁ、逃げるなよ……逃げるんなら、俺と来いよ……」
「だぁっ! もういい加減に目ェ覚せ! 拙僧を誰と勘違いしてやがンだ!!」
 寺では困った顔で相談に来る人間に山ほど会う。檀家だとかそうじゃないだとか関係なく、話を聞いて共感したり慰めたり叱ったり励ましたり、最後は晴れやかな顔で帰ってほしいと思ってそうしている。
 だから、いい大人が酒に呑まれ、駄々をこね、縋りつくのをしょうもないと思いつつ無碍に出来ない。いつもならカッコをつけて、こちらをガキだバカだと言う大人の醜態に辟易しながら可愛らしさを感じてしまう。
 こいつは酔っ払いで、誰か良い仲の人間とバカなガキを間違えていて、理性が飛ぶと力加減も出来ずに手首を鷲掴むようなヤツだぞ、と言い聞かせても、雨に打たれる捨て犬の風情が拭えない。
「……? 空却だろ……?」
 違うのか? 違わないだろう? こんな嘘みたいに白くて、真っ赤で、金ぴかなの、お前しかいないだろ?
 体だって小さくて、だからこんなふうに簡単に捕まえちまえて、体温ばっか高くて、熱くて……。
「なぁ、空却だろ?」
 そうだ、と言うにはくちびるが近すぎて言葉に出来ない。少しでも動かしたら触れてしまいそうな場所に酔っ払いのそれがある。
 どうにか頭を動かしてくちびるを逃すと、意外にも深追いしなかった。一安心して返事をしようとした矢先、耳の裏にちゅ、とやわらかいものが触れる。わからないわけがない。今そんなふうに触れるものはたった一つしかない。
 最初の囁きと同じ、ぞわぞわとした感覚が耳の裏から全身に駆け巡る。びく、びくん、と跳ねるのを楽しむように、ちゅ、ちぅ、とくちびるがどんどん降り注がれていく。耳の裏から耳そのもの、耳から首へとたどり、首とうなじ、喉。時折ぺろ、と舌を這わされ、くすぐられる。
 どうしよう、どうしたらいい、歯を立てずにくちびるだけでうなじを食まれ、どうもこうもない、めちゃくちゃに暴れて逃げるしかないとわかっているのに、ふうふうと髪に当たる鼻息の必死さに呑まれそうになる。
「ひと、や……っ」
「なんだ空却」
「やめろ……っ」
「なんで」
 なんで。なんでって、それは。
 答えられない。明確な拒絶が出てこない。
 ぐるぐると頭の中が回って、どうして、なんで、が走り回って、最後。
「わかンねぇから、やめろ」
 意を決して顎下を狙って頭を振りかぶる。舌を噛んだり骨だの歯が砕けたら面倒くさいと気持ちゆるめに当てた頭は、上手いこと髭の端をかすめて脳を揺さぶったらしい。
 う、と呻いて倒れた男が脱力して手首が解放された。多少痛んで痕がついたものの、問題なく動く。
 それよりも桜に寄っかかって意識を失った酔っ払いを片付けなくてはならない。自分の手に余るが放置は出来ないから、仕方なく寺から人を呼んだ。
 楽しい夜更かしはこれで幕引きになる。父親にはこっぴどく叱られるだろうが、酔っ払いの保護をしたのだから多少は免除されると思いたい。



「……記憶にない」
「だろぉなァ」
 ヒャハハ、と笑うクソガキの声は真っ黒な空を切り裂くようにまばゆく響いた。
 奇しくも、その日と同じような夜だった。桜の花びらが雨霰と降り注ぎ、空は月も星も見えない真っ暗闇で、時間だけが幾分か早い。今にも降りそうな空模様に空気は湿り、どろどろとした雲が重たそうに動く。
 そんな不穏な空模様の下、お前に神宮寺寂雷の酒癖を言えたものか、と喧嘩を売られ、買った結果、記憶にない痴態を暴露されたのだ。
 俺が? 空却に? それも、出会ったばかりの頃の、中学生だった空却に?
「……作って」
「ねぇよ! だぁれがンな笑えねぇ話をわざわざ作るんだよ」
「まぁ、お前はしないな」
「わかってんなら拙僧じゃなくて、自分を疑えってんだよ」
 あの時、中坊の拙僧にあんな必死に縋りつくようなことあったのかよ。
 じとりと細めた目で問い詰める子供が腹の内を探っている。
 中学生の時にはわからなくとも、今ならきっとわかるのだろう。酔っ払いがどういった意図で言葉をかけ、触れたのか。そしてただ寂しくて甘えているだけではない酔っ払いが、明確に相手として自分を選んでいることの意味を問おうとしている。
 ざぁ、ざざぁん、ざぁぁ……嵐の海の波打ち際に似た音を立てて桜が散る。波飛沫と見紛う桜吹雪に、だから自分は中学生の子供なんぞに縋りついたのだと痛感させられた。
 桜に攫われる――なんぞ小っ恥ずかしいことを言う気はないが、黙っていれば白皙の美貌の子供は派手派手しい髪ときらきらとやかましい目がなければ溶け込んでしまうだろう。
 真白の花弁の波が海を厭う子供を攫う幻視をして、途方もない飢餓に襲われる。十九は子供と言うには大人すぎる。さりとて大人と言うには幼くて、喉が渇いて止まらない。十九でこれだ。十五など考えるまでもない。
「わかってるんだろ」
 わからないとは言わせまいと真正面から見つめた金色は警告色の輝きを放つ。耳障りなアラームの聞こえてきそうな瞳を、燃えるような髪がさらに後押しをした。
 この目、この髪に触れたなら俺もこいつも戻れない。帰る家はあっても、最期はお互いしかいなくなってしまう。
「拙僧と、どこ行きたいんだよ」
 白い花びらの海原を眼差し一つ、言葉一つで割り開いた子供が暗闇に浮かび上がった。
 見えない後光が差す立ち姿の粗野な仕草と綺麗な姿勢が噛み合わないからこそ魅入られる。
「どこだっていい、お前がいるなら」
 ぼたり、と雨粒が落ちた。
 ざぁぁぁ、と降り出した本物の嵐が桜を地に落とす。
 ずぶ濡れになって向かい合い、手を伸ばせば花のかんばせがほころんだ。

2024/9/20


一周年のくわだて
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