たえなる光の果ての、頂の

 茹だるを超えて蒸発しそうな夏日。寺の居住区内の縁側で、綺麗に生え揃ったグリーンカーテンを眺めながら恋人と麦茶を啜っていた。
 かつての気温ならば十分な納涼効果のあったはずだが、ちりーん、と軽やかな音を鳴らす風すら熱い。薄いガラスなぞ溶けてしまうのではないかと思っていると、吹き出した汗がぼたぼたと落ちる。なおこの暑さだから恋人との間には人一人収まりそうなスペースがあった。
 我慢ならぬ気温、我慢ならぬ湿度、我慢ならぬ日差し――その他溢れ出る諸々の我慢ならぬものどもに辟易としていたら、隣であぁとか、へぇとか、ほぉとか、まるで気のない相槌を打っていた恋人の堪忍袋が爆発した。
「『心頭滅却すれば火もまた涼し』っつうだろうが! 獄は我慢弱すぎんだよ」
「あのなあ……この暑さで我慢したら死ぬぞ!? 心頭滅却の意味が御陀仏に変わるぞ!?」
「ここ最近馬鹿みてぇに暑いのなんてわかりきってんのに、それをぐちぐちぼやいてんの聞かされる方のことを考えろって言ってんだよ」
 根性だけで乗り切れるものではないにしても、お前の文句は聞き飽きた、と恋人に切り捨てられた。
 このとき、もう少しだけ気温が低ければお互いもう少しだけ冷静だったと思う。悲しいかな異常な暑さの前に人間は冷静ではいられない。
「……じゃあ手本を見せてみな」
「おぉおぉ、我慢弱くて酷暑に惨敗してるヒトヤクンにお手本見せてやンよ」
 惨敗、という言葉にこめかみがひくりと疼いたが、それこそ我慢をして恋人を舐めつける。
 お手本とやらを見せてもらおう、と。

 睨み合いからすぐにそれははじまった。
 目ン玉かっぽじってよぉっく見とけ、と喧嘩の口上もかくやの表情と声音で宣言した恋人は、その場で胡座をかき、背筋を伸ばして目を閉じた。
 綺麗な姿勢に乱れはなく、両膝の上にそれぞれ乗せられた手のひらも貼りついたように動かない。塞がれたまぶたはぴくりともせず、つんと伸びたまつ毛の作る影は風以外でそよぎもしないでいる。
 隙だらけに見えるのに付け入れるようには思えず、かといって威圧的でもない。完全にリラックスしているけれど、舐めて手を出そうとすれば命はないと思わせる。
 何よりも目を引いたのは、日も空気も全てが灼熱の中で涼やかに佇むその姿だ。
 グリーンカーテンがあるとはいえ、強烈な日差しと熱風は変わらない。風鈴すら煩わしく感じる空間で、綺麗な額に汗の一つもにじませていないのだ。真っ黒の作務衣を纏っているから熱を吸ってさぞ熱いだろうに、いつもは寄った眉間に皺一つない。
 まるでそこだけ十数度ばかし温度が下がり、冷たい風が吹いているかと錯覚してしまう光景はこれ以上ない『お手本』だ。
 今年はあまりの暑さに虫すら大人しく、人の出も少ない。去年の今頃ならばじいじいみんみんとうるさかった鳴き声や、観光客の話し声もまばらで、ちりん、ちりり、とガラスが擦れる音がひどく目立つ。
 温度も音もなくなったような場所に一瞬で作り変えた恋人はしかし、今も身じろぎひとつせずに瞑想を続けていた。
 風に揺れ、伏せられたままの長く尖ったまつ毛を一本一本数えながら、俺はいつまで待てばいいのだろう、と頭の中でひとりごちる。
 大人しくなると端正な横顔はいまだに汗のひとしずくも浮かばず、ほんのわずかな呼吸の気配がなければ作り物めいた静けさをたたえていた。数分前まで自分よりも大きな声でぎゃんぎゃん吠えていたなんて誰も信じやしない。
 遠くで響く虫の鳴き声を聞きながら涼しげな顔を眺めていると、不思議と暑さがやわらぐ気がした。

 時間は計っていなかったが、グリーンカーテンの影や隙間から覗く景色の変化がいくらか経ったことを教えてくれる。
 さすがに丸い額やこめかみ、頬、首筋に汗がつたい落ち、ぽた、と落下するものも出てきた。それでも姿勢は緩まず、表情の変化もない。
 むらっけさえなければ、とため息をつく住職の気持ちはこちらも理解している。聡い恋人は馬鹿をしても愚かではない。この場で披露されている瞑想にしたって、気候以外ならばよほど過酷なDRBという舞台でもやってのけるのだ。もちろん自分と十四も協力しているとはいえ、目を見張る肝の据わり方と集中力をしている。
 待つのが嫌いだと言い、先頭を切って歩き出す。思い立ったら即行動に移す恋人は、なるほどたしかに我慢をしない。我慢ならぬと言う前に不平不満を言うか、その解消に動き出す。我慢ならぬものがあるのが我慢ならぬと言うべきか。
 ならばこの恋人にとって我慢するとはなんだ――?
 微動だにせぬかんばせは大輪の花が日を求めるように真っ直ぐ前を向き、さりとて花ではないから目が焼けると黄金色を封じたまま。茨のごとく鋭利なまつ毛がふちを飾る。
 己とは何もかも違う恋人のあり方に、だからこそ眩しさを感じるのかと思った矢先――ぷぅん、と不快な羽音がした。
 細い糸か針金で出来たような生き物がのろのろと不規則に飛び回り、捕まえられそうなのに近づけば急に素早く逃げる。忌々しい風物詩はあまりの猛暑でとんと見かけないがいるはいる。
 風鈴以外は音の無い縁側に特徴的な羽音は耳障りに響くのに、やはり恋人は乱れない。同じ空間にいるのにそこだけ切り離されているような佇まいで、たらたらとしたたる汗だけが同じ空気を吸って生きていると教えてくれる。
 たかだか虫一匹に騒ぎたくないが放置して吸われたくもない。寄ってくるのを手で追い払うと、今度は恋人の方へと向かっていった。案の定、と小さく舌打ちをして追い払う。ぷぅん、ぷぅぅん……と小癪に逃げまどう羽虫が鬱陶しい。
 微動だにしない、それこそ仏像のように固まった恋人の、若く健康な血はさぞや魅力的な据膳だろう。こちらからは一払いで退散したくせに、恋人にはいたくご執心だ。特に作務衣から覗くしなやかな首筋は虫ふぜいにも美味そうに見えるのか、どうにかもぐり込もうと煩わしい羽音を鳴らす。
 全くふざけないでほしい。このさらっぴんの真っ白な首は、俺とてめったに吸うことが出来ないのだ。見える場所に痕を残すなど分別がなくみっともないと思っても、未踏の雪原に走る足を止められないのと同じで、誰にも譲りたくないと腸が煮えくりかえる。
 最後の手段、ばちん! と両手のひらで挟んで潰した。どうして最後かと言えば、弱々しい羽虫を無惨なデカルコマニーにするには、恋人の近くでおそろしく大きな音を出すからだ。あと単純に手のひらに広がる感触と後始末をするのが我慢ならない。けれども最大の理由は違う。
 手と手の間のあってないような遺骸から漏れ出た体液が汗と混ざる、暑さ以外でこんなに眉をひそめたのはいつぶりか。仕留められた喜びよりも手に残る不快感が上回る。
 はからずも合掌と同じ手をしていることに気づくと、恋人が叩き殺した虫に手を合わせているのを思い出した。見た目からは想像出来ない、あまりに些細な仕草の端々に僧として生きているのだと突きつけられる。
 現に顔の近くで大きな音を立て、風圧もあったろうに、恋人は山の如く動じていない。一瞬寝ているんじゃないかと疑ったものの、そういうときの方がよほど音には敏感に反応する生き物だ。
 手を塞いだまま、同じ場所にいるはずなのに遠い、見たくなかった姿の恋人を見つめる。極限の集中と自制は喧しい子供を深淵の渦に飲み込んで、ちょっとやそっとでは帰してくれない。これは我慢とは違うだろうとレギュレーション違反を訴えたくとも、天上の蓮と化した恋人はいつ戻ってくるか見当もつかない。
 仕方なく手を開き、凄惨な殺虫現場の証拠隠滅をはかる。すでに血を吸っていた虫の破れた腹からこぼれた血と、糸くずのような死体にため息が隠せない。普段ならば恋人に見咎められる状況だが、下りたまぶたは凍りついたまま、青い血管が透けるだけだった。
 鞄から取り出したティッシュで手を拭うと、全身を強くぶつけられた虫は跡形もなく消え失せる。先ほどまでそこに在ったという記憶だけが残っていて、気づけば恋人に倣うように自然と手を合わせていた。
 悼むというよりも反射でした行為は、無意識に染みついた慣習が自分の中で生きている証明でしかなく、恋人の祈りには遠く及ばない。あのときも恋人はまぶたを閉じていて、白絹の肌の下から透ける血管ばかり見ていた。

 隣が静かだととりとめのないことばかり考えてしまう。せっかくの逢瀬だというのにつまらないことを言ってしまったと悔やんでも、恋人はいよいよ呼吸すら平坦になってきた。何度となく頭をよぎった無理矢理に起こすというアイデアは、また我慢弱いと勝利宣言をされそうですんでのところで手が止まる。
 最初は我慢なのかと首を傾げていたが、なるほど確かに我慢だ。我慢しているのが恋人ではないだけで。
 種目指定をしなかったこちらに不備があるが、考えなくとも瞑想は恋人の専門分野で得意分野なのだ。そこで挑まれたのを止められなかった時点で勝敗は決していたのだが、いかんせん、暑さでカッとなっていた。
 どこまでが未来の仏様の掌の上なのか。そうしようと思うことすら業になるから計算尽くですらない。
「空却……」
 無意識に口が恋人の名前を呼んでいた。わずかに涼しさを感じはじめ、汗が引き、人形と言っても通じそうな有様の恋人は、白皙の美貌をたたえたまま動じない。
「俺の負けでいい……いや、負けだ……」
 特別大きくはないが、隣ならば聞こえないわけがない声量で敗北を宣言する。その場しのぎではない、本心だ。
 後を考えれば負けるのは癪で、嫌でしょうがない。絶対にそれ見たことかとばかりにベンゴシセンセは我慢弱いと喧伝して回るだろうが、今よりマシだ。
「なぁ空却……空却の、声が聞きたい……」
 小一時間以上、売り言葉に買い言葉で逢瀬を無駄にした。いつだって多忙だが夏と冬は特に忙殺される。その合間の時間を我慢比べなど馬鹿らしい。けれども完璧な横顔に許しを乞うも返事はなく、気障とも甘えともつかない声が虚しく空気にとけた。
 最終手段は馬鹿みたいだがキスしかない。呼びかけながら直接身体に触れて、さらに粘膜へと接触し、無私無我の頭に卑猥な欲望を植え付ける。瞑想する僧侶への冒涜に等しいそれは、恥知らずな俗物だからこそ取れる手段だ。
 問題は寺でのいかにも恋人っぽい行為をしないと誓っていることだが、思わぬ我慢を強いられた上に真横で破裂音をさせても名前を呼んでも無反応の方が悪い。



 我慢、というのはしたことがない。
 はじめたところですぐ飽きて、やってられるかと放り出したら親父に捕まり、それでも抵抗すれば簀巻きにされる。
 その時点で我慢したくないという感情が満たされて、渋々ながらやるか、という具合になる。
 逃げおおせたところでも結果は同じだ。我慢せず、やりたくないことをやらなかったという目標が達成される。
 それだけに恋人――天国獄という男はまるで意味がわからなかった。
 わざわざ我慢ならないものを並べ立て、滔々と語り、面倒くさい三十路の主張をくり広げる。
 そンなことを言う暇があったらとっとと放棄すればよいものを、なんのかんのと付き合ってやるのだ。
 面倒見のいい男の短所が面倒くさいところなのはこれ如何にと言うべきか。
 獄のそういうところをわけがわからん、と思いつつも、決して嫌いではなく、むしろ好ましく思っていた。
 やれ暑いだなんだとわかりきったことをうるさくがなる獄を黙らそうと瞑想をしたのは、当然、我慢ではないからだ。
 いまさら気温程度で削がれる精神力はしていない。春夏秋冬、朝昼晩、寺、山、街、あらゆる場所で修行を重ねた成果がDRBで活かされる。あの大舞台と比べれば、たかだか暑いだけなど屁でもない。
 背筋を伸ばし、目を閉じて、手を所定の位置に置けば終わりだ。あとはもう、獄が音をあげるまで続ければいい。
 そうすればとうぶんは黙らせられる。そう、思っていた。

「なぁ空却……空却の、声が聞きたい……」
 だから甘ったれた甘ったるい声に名前を呼ばれ、身も世もなくすがりつかれるなんて、完全に想定外だった。
 決して触れてはいない。声だって人一人分離れたくらいの距離を守ったままなのに、綺麗に鼓膜を撃ち抜いてくる。
 瞑想中は外部の音はほぼ聞こえない。聞こえても無視できる。人混みの中の他人の声か、野山の動物か虫の鳴き声のように、騒めきの一つとしか感じなくなる。さっきまで恋人の声だってそうやって片付けられたのに、急に無視ができなくなった。
 たっぷりと切なげな息を含んだ低くて甘い声は耳から入って脳を侵す。真剣に口説くときに出す声で、仕方ないと甘やかさずにはいられない声で、自分の名前を呼んで求められるのは猛毒だ。
 ぐらつく頭を叱咤して、負けてなるものかと鼓舞をする。ここがもしもDRBという戦場で、聞こえてきたのが愛する家族の呻めきや嗚咽でも、瞑想を解いたことで二人を余計に傷つけ追い詰めるかもしれない。それは生命を賭けられるという信頼への裏切りだ。
 たとえここが見知った者しか入れぬ場所で、甘い、甘い、逆らい難い甘えたな声を上げても小っ恥ずかしい思いをするだけで、信頼なんてなんにも関係なくったって、負けるわけにはいかないという一点はおんなじだ。

 やがて心が落ち着き凪いだ頃、今度はちゅ、ちゅ、とくちづけが降ってきた。
 決定的なくちびるだけは避けて、額、まぶた、頬、鼻先に顎、耳に輪郭と顔中を愛撫され、もはや触れていない場所がなくなってしまう。
「空却、怒ってるのか……? もう暑いなんて言わない……だから――」
 甘えでは落とせぬと判断したのか、今度はしょんぼりと萎れた声で反省を示された。いかにも哀れっぽく、己の不徳を悔いて見せ、慈悲を乞う。
 跪いて足を舐めんばかりの謝罪のはずなのに、どこか鼻につくのは許してもらえるという確信が透けるからか。耳たぶを啄みながらの懺悔は、言葉を選ぶ惑いや言い淀んでこぼした息づかいまで克明に伝えてくるから始末が悪い。
 間違いない、こいつはこれまでもこうやってご機嫌ナナメの恋人に許さざるを得ないような状況を作ってきたのだ。今までの相手なら情けなく項垂れる様子にぐらついて、今回だけとつけいらせたかもしれないがそうはいかない。
 こいつは一度効くとわかったら、以降は抜群のタイミングで使ってくる。ロッポウゼンショ暗記だかシホーシケン一発合格だかの賢い頭の無駄遣いに付き合ってはいられない。
 しつこいくちづけのこそばゆさにほんの少しだけ体が動いたけれど、それだけだ。

 触れるだけのくちづけの嵐を耐えていると、ふい、と気配が遠ざかった。
 諦めたのかはたまた次の手に出るのか。どちらにしろここでキス以上のことはするまい、とたかを括っていたのがよくなかった。
 先までは隣に感じていた獄が立ち上がり、背後へと回ってきたのだ。
「頼む空却……俺は我慢弱いって知ってるんだろ……?」
 無防備な脇の下から腕が入り込み、臍のあたりでぎゅ、と押さえつけられる。背中に胸がくっついて、とく、とく、と脈打つのがわかるほど密着してしまった。
 逃げられない。そもそも動けないのだけれども、動揺したらバレてしまう。
 よもやここまですると思っていなかったのは、共同生活の場である寺や、人目の多いところでの『そういうこと』はしないと言い出したのが獄だからだ。さっきのくちづけだって、だいぶギリギリだと思ったのに、今はもう完全に言い訳ができない。
 否、否――。こいつが、獄が、勝手にやっていることだ。我慢弱いと挑発されて、我慢弱いから音を上げて、我慢弱いからこちらを道連れにしようとしている悪い男の口車に乗ったら負けだ。
 腹を撫でさすりながら、うなじを甘噛みされようと、空却、空却、と寂しそうな声で呼ばれても。ぢゅ、と一際強く吸われた首根っこに、我慢弱く、甘えたで、さみしがりな恋人に、言い訳のしようのないマーキングをされたとしても――



「完敗だ」
「あったりまえだろバァァァッカッ!」
 あれから汗みどろになるのも厭わずに、というかすっかりそんなことも忘れて頑なな恋人の瞑想を妨害しようとしたのだが、ついぞ折れることがなかった。
 途中、ぴく、びく、と誤差のような身じろぎはあったもののそれだけだ。放っておけば身体の限界まで続けていただろう。今回は灼空さんが空却の名を呼びながら縁側に向かってきたから、うなじ周辺のキスマークを虫刺されと言い張るだけですんだ。
 二人で瞑想するのに夢中になった――という嘘ではないが真実でもない話は、汗だくでのぼせたような有様に存外説得力があったらしい。獄くんまで、と頭を抱えながらも放置していた麦茶を飲むように促され、蚊取り線香を焚かれたときの罪悪感は、恋人を撫でるだけで快感を訴えて跳ねる腹にしてしまった時に勝るとも劣らない。
 グラスに残っていた麦茶を一気に飲み下し、じろりと睨みつける目は、見慣れ、ついさっきまで焦がれ続けた色をしている。それに押されて自然と口から出た敗北宣言に幼く口汚い勝利宣言が返ってきたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「……俺が本当に呼んだら、わかってくれるよな」
「我慢弱くて甘えたで、寂しがりなヒトヤクンが本当にダメって時が、拙僧にわかんねぇわけねぇだろ」
 舐めるのは拙僧の首だけにしとけ、と鼻で笑う。
 煽り、挑みかかる仕草の奥、凪いでぴくりともしない白いまぶたが蘇った。

2024/10/18


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