こんばんは
近所付き合いというのは面倒でも多少はした方がいい。マンションやアパートといった集合住宅では特に。
何があるかわからないご時世、隣近所や生活時間があう人とは挨拶くらいは普通にしたい。地震や火事……大きなトラブルがあったら一蓮托生なのだ。
そんなわけで挨拶だけはする住人がけっこういる。その中でも唯一名前を知っているのが弁護士でディビジョンラップバトル参加者の天国獄だ。
まさかと思いながらも、話しかけたら名刺をくれた。慣れた仕草と人当たりのいい笑顔に自分と同じ円滑な近所付き合いを望む様子が伺えて、言いふらしたりはしていない。それからもたまに会うと挨拶だけしていた。
「やっぱ帰る」
「なんでだよ」
「なんでもクソもねえ」
「……逃げるのか」
こんばんは、と言いかけた口を閉じたのは、その天国獄と同じチームのリーダー・波羅夷空却がただならぬ雰囲気でエレベーターを待っていたからだ。
ネットで天国獄の自宅がたまり場になっているというタレコミ記事は見たけれど、実際に目の当たりにするとは思っていなかった。有名人二人にミーハー心が騒いだものの、険悪とはまた違う様子に息を殺す。
「逃げねぇ」
「帰るんだろ?」
「帰んねぇよ」
何かひどく揉めている。並んで目を合わせずにピリピリと言葉を交わす姿にこちらがヒヤヒヤしてしまう。同じエレベーターに乗る気になれず、階段へと歩き出す。
必死で息を殺したのに足音でバレたのか、天国獄と目が合った。お互いに気不味さを滲ませた顔で会釈をして、そのまま背を向ける。
重苦しい空気に耐えかねた焦りでか、こんな時に限ってパスケースを落としてしまった。慌てて拾おうと屈んだ瞬間、見てしまったのだ。
エレベーターが到着し、ドアが開く。誰も降りて来ないのを確認した手が、隣にあった手を握って、引いた。
そうして音も無く閉まるドアを見届けて、小さな子でもないのにそうする意味と理由がいくつか浮かんでは消えて、考えるのをやめる。
良い顔見知りでいたいのだ。
2024/5/24
BACK
作文TOP/総合TOP