好きと言うまで帰さない

 天国獄は頭を抱えていた。
 どう考えても獄のことを好きな子供がいつまでたっても素直にならないのだ。
 微妙な距離感をどう縮めるか悩んでいた最中、偶然にも子供と出会い、人気もまばらでなかなか悪くない雰囲気だった。ところがちょうどいい微妙な状況を活かそうとしたら、急に湧いて出たどこぞの馬の骨にデキているのかと茶化されたのだ。
 反射的にデキてない! と叫んでしまったものの、これからデキるとこだったんだと思いながらの大声を、隣の子供も上げていた。この子供の怒りに隠された羞恥は図星を刺された時と同じ動揺があったし、怯んだ馬の骨を睨みつけ、次はないと恫喝した時にもあった。憎らしいほどかわいらしい照れ隠しと恋への戸惑いが獄の悩みを深くする。
 だから素直になれと諭したのに聞かない子供に無性にイラついて、勢いでキスをしてしまった。
 ずっと見てきた小さなくちびるは、想像以上にやわらかい。一度味わってしまったら触れるだけでは足りなくて、半開きの隙間から舌を忍び込ませる。このまま小さな舌もいただこうとした矢先、そんなんじゃないとくちびるを噛んで拒絶された。
 やわらかなキスは一瞬で血の味に変わり、お互いに頭が冷えて落ち着いてくると、もやつきが蔓延する。ついでになぜかいた馬の骨が立てた音に驚いて、粗大ゴミの山を崩したのに巻き込んでしまったが、あれは不幸な事故だった。子供は仏罰と言っていたが、坊主は仏の代理人だったのか?
 話を戻して――あの場でキスはするべきではなかった。なかったかもしれないが、そんなんじゃないわけないだろう。

 天国獄にはやはりそんなんじゃないわけないだろうとしか思えなかった。
 血が滲むほど強く噛んで拒んだのに、馬の骨をゴミ山に沈――不幸な事故の後、落ち着いたら並んで一緒に大通りに戻ってくれた。ばつが悪い空気の中、事務所に戻ると言えば馴染みの薬局で薬を買ってくると走り出し、傷をつけた詫びだと事務所で薬を塗ってくれた。
 その全てに獄への好意がある。あるとしか思えなかった。薬局で親しい檀家だという店員に何か言われたのか赤い耳をして戻って来たし、キスを拒んだクセに獄からすればよほど大胆に――騎乗……馬乗りになって――密着してきた。
 手ずからつけた乱暴なキスマークを恥じらう風情を漂わせ、気になって仕方がないから隠したいという様子で上書きをしようとする。意識していないとは到底思えない言動をしておいて、一体全体、何がそんなんじゃないのだろうか。
 頭がはてなで埋まるほど、仲が良いと言われたら先に認めるのが癪になる。子供も似たようなものだろう。負けず嫌い、言われた覚えも自覚もある言葉が頭を過ぎったが、つい一緒になって否定してしまった。周囲からしたらとんだ茶番だとしてもこちらは真剣そのものだ。

 天国獄は納得がいかなかった。
 やはりどう考えても子供は獄のことが好きだ。借りがあるとか、家族だとか、そんなんじゃなく、愛だの恋だのという甘酸っぱい感情を獄に向けている。
 その証拠に子供が獄に向けるのと同じものを子供へ返すと周りはきちんとそうだと感じ取るのだ。子供の実家の寺の修行僧はもとより、職場の近くのコンビニのよく見かける店員ですらいぶかしげにしていた。
 つい目で追って好きなものを覚えてしまうのも、何気ない仕草を勝手に意識してしまうのも、全部子供にされてきた。――でなければ、キスなんてしない。
 少し前まで獄とのキスでうるんでいたくちびるは、すっかり脂っこい菓子やホットスナックでぬめっている。下品にも感じるテカりすら様になるのは、子供の顔が端正だからだと思うのは惚れた欲目だろうか。
 出来ることならば今すぐにくちびるを奪って上書きをしたい。二人してくちびるをてらてらとさせても、今なら言い訳がいくらでも可能だ。
 こちらの視線も思惑もわからないほど子供は鈍くない。だというのに馬乗りになって薬を塗ったときのように、まるで意識してしているとは思えない反応ばかりする。
 いい加減、このままでは埒があかない。

 天国獄は焦れていた。
 どう考えても互いに同じ感情を向け合っているのになぜか拒まれ続ける状況に。いつまでたってもつれない天邪鬼な子供に。急いてキスをしてしまった獄自身に。はっきりしない関係に焦れていた。
 キスをしたのは反省していた。冷静になればあれで好意が反転して嫌悪に変わることも十分ありえたのに、ヤケクソの勢いというのは恐ろしい。
 そもそも血が出るほど噛まれていたら普通はそうなっているはずだが、想像以上に愛されていることを改めて痛感してしまった。どう考えたって嫌われていたら絶対にしないようなことしかされていない。あとはもう素直になってくれたらいいのだが、そうは問屋が卸さない。
 天邪鬼な子供は煽りと屁理屈の在庫は抱えているが、素直は万年品切れを起こしている。もう一押しか二押しで何もかもつまびらかにしてくれそうな気もするが、油断も隙もない。先の読めない子供相手に二度と衝動的に動くまいと誓ったけれど、それはすぐに破られてしまった。
 子供ときたら用件を伝えずに家に誘ったのに、一切を承知した顔でのこのこと着いてきたのだ。挙句、引き返せるギリギリになって試し行動をしやがった。
 帰る? この期に及んで帰る? 用件も聞かずに着いてきたくせに? これから起きることはぜぇんぶわかってますみたいな顔をしていたくせに? 馬鹿も休み休み言え。いや、この子供は馬鹿だから毎日が休日になってしまう。
 立てたばかりの誓いをさっそく破り、試しだろうか本気だろうが逃がすものかと喰らいついた。あまりの大人気なさにようやく観念したのか目をやわく細め、薄く口角を上げるのが見えた。良い大人ぶって帰したらきっとまたふりだしに戻っていただろう。
 何もかも矛盾して、裏腹で、そのクセ心の奥底では獄が好きで、獄を欲しくてしょうがないと訴える。
 そんな思春期にしたようなむず痒い膠着状態は酸いも甘いも噛み分けた大人の男には耐え難く、獄よりも相当に年若い相手だと理解していてもなお飢え渇く。
 だからつい、顔見知りの住人が去り、エレベーターに誰もいないのを見計らって、子供の手を掴んで引きずり込んだ。
 もう帰さない。逃がさない。先延ばしにし続けた、わかりきった返事を口にするまでは絶対に。

 天国獄は――も、とっくに甘酸っぱい恋だの愛だのに狂っていた。
 弁護士として、大人として、人間として、あやまちを犯している気がしたが、目前の勝利をどうしても逃せなかった。
 後悔は、ない。

2024/5/26


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