好きって言うまで居座ってやる

 波羅夷空却は困っていた。
 ほとんど読まない少女マンガのような有様に。幸運にもそんなみっともない空却と同じような有様の思い人に。それなのにたった二文字も言葉に出来ない空却自身に。
 たまたま道端で出会った思い人と歩いていたら、どこぞの馬鹿にデキているのかと囃されて、カッとなって睨みつけた。手が出なかったのは思い人と揃ってデキてないと叫んでしまった八つ当たりで、決して慈悲ではない。
 デキていたらどれだけ良いか。色良い答えが貰えるのなんてわかりきっているのに動き出せない現実との齟齬と、秘めた恋心なんて小っ恥ずかしいものを見抜かれたような恥ずかしさで苛立っていると、思い人にまで煽られた。
 素直になれ、と。
 ふざけるな。ならばお前こそ素直になれ。
 そうこうするうちに普段通らぬ裏道に連れ込まれ、さらにその中の路地に引っ張り込まれた。挙げ句の果てのくちづけに半分意識が吹っ飛んで、思わず歯を立てたのは致し方ないと思って欲しい。今もその時の空却の記憶は曖昧なのだ。
 そんなんではない。まだ、そんなことをする関係ではないのに――と叫んだら、わけがわからないという顔をされたが、わけがわからないのはこっちだ。
 ついでにどこぞの馬鹿にも再会したが、不幸な事故でゴミの中に消えた。仏罰だろう。

 波羅夷空却はまた困っていた。
 噛んでしまったくちびるの痕が意外と目立つからだ。
 今もすれ違う人の目線はそこへ向かっているし、一緒にいたらきっと理由を聞かれるだろう。考えすぎだとしても一度気になったらもうダメだ。
 予想だにしないファーストキスは触れるだけで済まず、あっという間に口内に入り込んで傍若無人にふるまった。そんなんじゃないのに。まだ、そんな関係ではないのに。
 初めてのくちづけなのに当たり前に舌をねじ込まれた衝撃は、二人の歳の差――経験の違いを感じさせた。思い人は空却以外にもあんな風にしたことがある。
 嫉妬や怒り、悔しさでもない、ただどうしよう、という戸惑いがあった。空却の知らない経験豊富な大人の顔を見せる思い人に、くちづけ一つで振り回されてしまっている。
 もし、そういう関係になったら空却はどうなってしまうのか。
 まだ思い人の残滓でうるむくちびるのまま馴染みの薬屋に乗り込むと、何もかも見抜いた目で微笑まれた。それは薬屋の後に行った思い人の職場も同じだ。
 子供の頃からの知り合いや年上の相手はみんな同じ目で空却を見る。歳の離れた子供を慈しむ、優しくあたたかい目だ。思い人だって最初はそんな目をしていたのに、いつしかそれだけじゃなくなった。
 気づかないわけがない。薬屋の出入り口でしきりに空却と店員を伺う姿も、詫びの薬を塗るという口実でのしかかる空却に生唾を飲み下したのも。
 事務員の言葉を否定したのは勢いと、負けず嫌いな思い人に負けじとした結果だ。仲が良いなんて言葉ではすませられないことをしてしまったのに、往生際の悪い思い人より先に決定的な言葉を口にするのが癪だった。

 波羅夷空却はまだ困っていた。
 今日片付ける仕事はないからと事務所を出たと思ったら、急にコンビニに入って爆買いをし出したのだ。
 薬の礼に奢ってやると言われたものの、空却が何か入れる前にカゴをいっぱいにしてレジに行ってしまった。わけがわからずマンガ雑誌の最新号でも奢らせるかと思い人の方を見ると、ちょうど同じものがカゴから覗いていた。
 もしやと思ってレジへ向かえば、カゴの中身は空却がいつも買っているものや、少し前に食べてみたいと言ったものしか入っていない。思い人の買い物は店員に促された煙草だけ。
 その後だってすごかった。袋いっぱいの礼を持ち帰るのに思い人の愛車に乗せられ、到着してからはドアを開け、買い物袋も持たれた。薬一つの礼に大袈裟だと言うには突然のくちづけが立ちはだかる。
 慣れない考え事で頭を使って腹が減り、足が早い唐揚げだのと小さめのポテトチップスをつまんだ。いつもの唐揚げも期間限定味のポテトチップスも美味しい。美味しいけれど、空却が好むものを事細かに把握して覚えているのが嬉しいやら恥ずかしいやらでこそばゆい。
 くすぐったいのはそれだけではない。思い人の視線がうるさいくらい空却を見つめるのだ。特に、奪われたばかりのくちびるを。
 脂でぬめる指先を、同じようにぬめるくちびるで拭っても変わらない。今までならティッシュを差し出してきた思い人は、明確な意志でもって、そこをじぃ、と見つめ続けていた。
 茶を持ってきてくれた生真面目な兄弟子が、遠回しに注意をするほど熱烈に。

 波羅夷空却は困り果て、開き直っていた。
 意気地なしで根性なしの思い人はきっと空却が口火を切るまで動かない。日持ちする菓子を自室にしまった空却が見送りに来たのを、これから家に来ないか、と、もはや立前すらなしに誘ってきたのだ。
 今日一日、偶然出会ってからずっと、互いに無理のある理由をつけて一緒にい続けた。今もゴミに埋もれているかもしれない阿呆のおかげと言いたくないけれど、うやむやにしてきた答えを出さざるを得なくなったのは間違いなく阿呆がきっかけだ。
 この誘いに乗ったら、もう今までどおりではいられない。
 ……なんだ、望むところではないか。
 つまらない意地や照れ隠しなぞ馬鹿らしい。空却も思い人も、互いの事を憎からず思っているのだ。
 着いて行けばいい。どこにたどり着いたってかまわない。いつだってどこだって、思い人が――獄がいる。
 それ以上なんてないのだから。
 そう腹を括ったものの、車に乗り込み、言葉少なに過ごす内に不安になってきた。
 空却がそうだと思っているだけで、違っていたら。すっかり居心地の良くなった獄の部屋が、これきり二度と入れなくなるような話が待っているとしたら。
 二人きりの静かなエレベーターホールを待つ間、試すように吐いた言葉に獄がおとなげなく噛みついた。剣呑な空気で有無を言わさぬ様子は珍しい。顔見知りの住人と会釈をする時だけ猫を被ったものの、すぐに厳しい顔に戻ってしまった。
 でもこの反応なら安心だ。
 獄は絶対、空却の事を好いていて、欲しくてたまらないという顔をしている。頼まれたって、帰るものか。
 ようやく到着したエレベーターが開き、乗り込もうとすると手を掴まれた。
 熱く、大きく、強い。痛いほどの力で中へと引きずり込まれ、確信した。
 今夜はもう、泣いて頼んだって帰してもらえない。

 波羅夷空却は――も、恋に狂い、愛に囚われていた。
 僧侶としてはよろしくないが、三千世界にただ一人の愛する男の名前と同じ場所だ。
 後悔は、ない。

2024/5/26


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