今、沈むばかりの遭難船

 大人しくしたら飯を奢ってやる。
 手伝ってくれたら遊びに連れてってやる。
 そんな事をくり返していたら、すっかり子供達はきちんと言うとおりにしたらご褒美が貰えると学習してしまった。

 デメリットよりメリットが勝るから構わない。
 なんのかんの二人とも一定の金額以上となると、それはさすがに、と遠慮する。ご家族はしっかりしているのだ……どちらとも。
 一番多い飲食の支払いだって、各々が勝手に買った分は財布を開けていない。あくまで一緒に席を囲んだ時やタイミングが合った時だけだ。
 思うより金はかからない。かかったところでタカが知れている。むしろ金よりも俺自身に求められる事が多く、よっぽど金で解決させて欲しい時もあるくらいだ。

「……で、なんだったか」
「なぁに聞こえねぇフリしてんだ!」

 自宅の荷物整理に人手が欲しいが業者は嫌だ、とぼやいたら子供の片割れが手伝いに来てくれた。それはいい。ありがたい。
 問題はその後で、全部終わったら高級な焼き鳥を奢ってやると約束していた。それなのにご褒美の変更を迫られている。
 逃げるな、と責めるのはよく暴れる方だ。放置しても勝手によろしくやってくれるので手はかからない――いや、嘘だ。かかる。
 今は不在のもう片割れは暴れないがすぐにべしょべしょと泣く。こちらは大人しいがどちらかと言えば甘えたで、ようするにそれぞれ違う形で手がかかる。

「だぁから、飯はいいんだって」
「そういう問題じゃなかった気がするんだが……」
「そーいう問題だったろ」
「いや、だがな」
「飯の代わりにキスの何がそんなダメなんだよ」
「ダメだろ!?」

 ケチだのなんだと吠えられたがやはりおかしいだろう。
 俺とのキスで腹は膨れないし、俺とのキスは肉の味がするわけでもない。
 財布が痛まないだろう、と得意気にされても健啖家の子供一人奢ったところでビクともしない財布だ。
 変な気遣いも思いつきもいらない。粛々と俺に焼き鳥を奢られていてほしい。

「ガキがつまんねえこと考えるな」
「……獄のキス、つまんねぇの?」

 へぇ、無敗の弁護士先生のキスってそーなんだ。
 わざとらしい挑発にカチンと来たのをこらえて、車のキーを見せつける。
 『この話は終わり』『飯を食いに行くぞ』と示してやっているのに、子供はなんでか納得しない。俺とのキスより焼き鳥の方が絶対に美味いし面白いのに、だ。

「退屈なキス。どんなんか知りてぇから、シテくれよ」
「タイパもコスパも悪いぞガキンチョ。なんでそんなムキになってんだ?」

 誰かキスする相手か、したい相手か、した相手でも出来たのか――匂わせる問いかけは、さっと差した朱色が答えだった。
 初々しい恋の気配が甘酸っぱい。余計な口を挟みたくてたまらないが、それこそ余計なお世話だろう。
 だから一言だけ。お節介をさせてもらった。

「事情はわからんが、最初っから上手いキスしようなんざ考えなくていいんだよ」

 嫌がる相手に無理矢理ならともかく、多少なりとも情がある相手なら派手な見かけに反して硬派な仕草はギャップがいいともなるはずだ。
 見栄を張るより素直になった方がいい。良くも悪くも自分を偽らない自然体が魅力なのだから。

「わかったなら、俺で練習しようとするな」

 一回目か二回目かは知らないが、三十路男との練習に捧げるものではない。
 なにより不慣れそうにとがるくちびるの無垢な桃色に、自分のそれを重ねるなんておっかなくてしたくないのだ。

「……練習じゃなくて、本番で……本命だって言ったら……?」

 我ながら綺麗に締められたと思ったのに子供がまたどでかい嵐を起こした。
 つやつやとしたくちびるが紡いだとんでもない暴露は前提からひっくり返し、凪いだと思った水面を一瞬で荒れ狂わせる。
 どっ、どっ、と耳にうるさく響くのが心の中で吹き荒ぶ風の音ならよかったのに。
 どうしたってそれは俺自身の心臓が歓喜に脈打つ音だった。

2024/6/8


BACK
作文TOP/総合TOP