お前の男は悪い蛇

 これまでスキンシップの多かった恋人から距離が近すぎる、と咎められるのは何度味わっても衝撃的で、わかりやすく落ち込んでいたのがわかったのだろう。
「別にいいけどよぉ……獄、約束守る気あんのか?」
 じぃ、と不思議そうにこちらを見る眼差しは心底からの疑問をたたえていて、胸を抉る罪悪感と愛おしさが募る。
 そう、約束したのだ。恋人の父親と法的効力のある正式な契約書をおこし、恋人が二十歳になるまでは――なっても心が決まるまでは――決して性的な接触はしない、と。
 性的な接触――性行為はもちろんのこと、性的な欲求を持って触れたり会話をしたりすること――をしないなんて簡単だと思っていた。恋人になる前から何かと距離が近かった子供に引きずられ、ソファかクッション代わりにされたり、ハイタッチにはじまりハグの類に事欠かない生活を送っていたのだ。そこに性愛が混じったことなどほぼなく、いざ付き合うとなっても変わらずに肩や腕が触れ合う距離を並んで歩いていたのに。
 ところが俺と恋人、恋人の父親での話し合いが円満に締結した後から様子がおかしくなった。
 今まで問題のなかった距離や接触でも恋人がNOと言う。いわゆる性行為以外の日常でのコミュニケーションも双方が『性的ではない』と認識しないと成立しないことになった。だからたとえこれまで当たり前だった『互いの腕が密着した状態でソファで並んでテレビを見る』も、恋人から「並んで座んのはいいけど、腕が擦れるのは近ぇだろ?」と言われたら離れなくてはならない。
 契約書を作るとき、途中から飽きていた恋人以外は『双方の合意』を最重要視していた。元々は恋人からの熱烈な猛アタックではじまった関係で、恋人の父親は「自分を思って守ろう、待とうとする君を押し切って行為に及ぼうとするのではないか」とひどく心配していたのだ。
 恩人でもある恋人の父親に申し訳なさそうな顔をされるたび、頭の中では何度となく恋人の服を剥ぎ、肌に触れ、胎の奥まで暴いた愚か者が自分自身への枷として用意した話し合いと契約書だとぶち撒けたくなった。
 立派な住職である御父上の杞憂の証左に、恋人は持っていたと思えなかった警戒心を発揮している。無防備に晒されていた素肌もすっかり隠されるようになって、本当に急にお坊さんとして振る舞うからタチが悪い。
「もちろんある。守らなきゃお前と一緒にいられないだろ?」
「……そーかよ」
 納得していない声音に俺は何かしただろうかとじっと手を見る。
 今日は帰宅すると出迎えてくれた恋人を抱き締めようとしてやめた。触れてはいないけれど、もう少し伸ばせば簡単に腕の中に閉じ込めてしまえる距離に金色の目が厳しく細められたからだ。手を引っ込めると、今度は詰めた距離の近さを指摘された。
 一応言っておくが性欲ではない。恋人が船を漕ぎはじめるぐらいに戻るから寝ていいと伝えたのに出迎えてくれた喜びと、眠たげにしながら玄関まで来てくれた愛おしさが溢れただけだ。決して抱き締めて退路を断ち、くちびるを奪って脱力させ、くたりとした身体を思うまま愛でようなどとは考えていなかった。
 それでも裏の裏まで見えるのか、恋人はずっと警戒をとかない。存外に聡い恋人は契約書を作ったことで抑圧された欲望が漏れ出るのを感じてしまうのか。
 玄関から居間へと移動しながら悶々と思考を巡らすも、前を歩く恋人の一回り小さな身体に触れたくてたまらない。以前は疲労困憊して戻れば、一喝するように肩を叩かれたり、甘やかすように膝枕を提案されたり、胸を揉むか? などと服をたくし上げて見せつけられたこともある。結局、頬にくちづけをしてもらい添い寝をしたのだが、ただ抱き締めるよりよっぽど破廉恥じゃないか? 特に自分から揉むか? なんて。よくもまあ距離が近いなんて言えたものだ。……もしかしなくとも今さら自分の行いの際どさに気付いたのか……?
「獄……?」
「ああ、悪い」
 考え事をしたまま歩いていたから居間に着いても恋人の後ろに着いていたようだ。前を見ているようで見ていなかったから、また距離が近い。抱き締めるよりさらに一歩近い、くちびるが重ねられそうな距離感に、恋人が小さく跳ねるのが見えた。
「……空却、俺はそんなにいやらしいか……?」
 恋人の怯えるような仕草につい決壊した感情はしかし、なんと言っていいのかがわからず、思ったままが口から出ていた。
 くちびるをは、の形にしてぽかんとした恋人は、ようやく言葉と意味が咀嚼出来たらしく、ひ、ふ、へ、ほ、の形を順繰りに作ったあとにひ、に戻ってきた。
「ひ、とやは、やらしく、ねぇ……よ?」
 しどろもどろな疑問系は検討中なのか気遣いなのか。いかにも困っていますという表情を隠したいのか、目をそらして考え込むそぶりをする。
「でも距離が近いんだろ? ……こういう風に」
「獄……っ」
 恋人の思わせぶりな様子に白黒はっきりさせないと我慢ならなくなった。横を向く顎を掴み、無理矢理に目を合わせると、ぱちくりと瞠目する金色に畏れの影が差す。
 こちらが上手いこと取り繕っているつもりでも向けられる方はわかってしまうなんてよくあることだ。そのせいで居心地が悪いなら、互いに嫌になる前に最適な距離感を測り直すべきだ。俺は別れるつもりはない。
「たしかに俺は空却とキスもセックスもしたい。だが無理強いはしたくないし、嫌なら一生しなくたってかまわない。……そう思われることさえ嫌なら、感じさせないようにしてみせる」
 まつ毛がぶつかりそうな上に顎まで掴んで言うこととしてはまるでふさわしくない言葉だが、キスが出来そうというよこしまな思考よりも信じてほしいという感情が勝っている。そう伝わってほしいという願いも含め、あえて限界まで距離を縮めれば、違う、と信じられないくらい弱々しい声がした。
「獄は、悪くねぇよ」
「どういう意味だ?」
 強くそらせない代わりに落としがちになったまぶたの下、畏れで翳っていた金色には思いもよらず羞恥が混じっている。予想だにしない展開にまじまじと見つめると、逃げ惑っていた目をついに捕まえた。
 一度合ったならばもう逃さない。恥じらいに揺れる金色を目だけで問い続ければ、ぎゅ、とまぶたを閉じて白旗を上げた。
「……親父と三人で話したとき、獄が親父とすげー盛り上がってただろ?」
「お前と付き合えるかどうかだったんだぞ? 盛り上がらなかったらおかしいだろ」
「そーいうとこなんだよ……セイコーイがどーたらこーたらってときも、真顔で拙僧とシタいとか親父に言うし……」
「灼空さんの信頼を得るための話し合いに嘘ついてどうすんだよ」
「拙僧は、獄とスルとか考えてなかったんだよ……っ」
 降参した恋人の自供は、畏れと羞恥の宿る眼差しに納得できるだけのものではあった。
 まあ、たしかに、自分の親に恋人とどこまでヤッたかなんて話を当の恋人自身から懇切丁寧に説明されることはあまりないだろう。立場を置きかえてみると居た堪れなかったが、俺も必死だったのだ。責めは甘んじて受けるが、それよりも聞き捨てならない発言があった。
「……考えてなかった?」
「獄のことは好きだけどそーいうことスるとか、親父との話し合いで言われるまで全然考えてなかったんだよ」
 そうバツが悪そうに話す恋人に逆に合点がいったことがある。思えば好きだ好きだと言いながらも色や欲の香らない接触ばかりだった。胸を揉むかと誘ったときだって、こう言うと喜ぶらしいというざっくりとした認識だけで、そういうことをする自分が欲望の対象になるのをまるで想定していなかったのだろう。
 黙っていれば見てくれはいいが、動いて喋れば凶暴凶悪な恋人だ。遠目から見るだけならオカズでもなんでも出来るだろうが、実際に相対したときの威圧感を前になおも欲を保てるかといえばマゾ以外はほぼいない。決して大柄ではなく顔も整った恋人が言葉以外で穢されたことがないのは、それだけの根拠がある。
 幼い頃は守られ、成長してからは自身の強さで。不埒な欲望を直に浴びることなく健やかに育った恋人が、初めて『性的に見られる』ことを知ったのが自分であることを果たして手放しに喜んでいいのか。もちろんどこの馬の骨ともしれない変態でなかったことは喜ばしいのだが、もの慣れぬ風情で戸惑う姿におとなげない独占欲が満たされてしまう。
「だから、ハタチになったら獄とスんのかとか考えたら、今まで獄にされたこととかシたこととか思い出して……どこまでならそうじゃねぇのかわかんなくなった」
「わからなくないだろ? 今、俺がお前にキスすると思うか?」
 無意識に逃げようとする恋人を引き止めると、長くつんとしたまつ毛にまぶたの端をくすぐられた。いっそ潔くキスをした方がいい距離で、なおも不可侵条約を守っている。これが誠意の証のつもりで、伝わっていると思っていた。
「獄がシねぇのはわかるんだって……。違うんだよ、拙僧が……獄に触ったり、触られたりすると、そーいうこと……シたくなるんだよ」
 だからちょっとでも触られたり触ったりしたくない、約束をやぶりたくない、と恥じらいと躊躇いでだんだん小さくなる告白に危うく雄叫びを上げかけた。
 契約書を作っていてよかった、恩人からの信頼を痛いほど浴びていてよかった、目の前の恋人が約束を守ろうとしてくれていてよかった――どれか一つでも欠けていたら、俺はいたいけにつやめくくちびるの味を知ってしまっていただろう。肌の白さもやわさも、未踏の胎の熱さすら、暴き立てて貪っていたかもしれない。
「わかった」
「本当にわかってんのか!?」
 感極まって自然と動いた体はぎゅうぎゅうと恋人を抱き締めていた。くちびるに触れたら小さな口の中まで蹂躙してしまいそうだから、万感を込めての抱擁に恋人が慌てふためいている。
 布越しの肌がどんどん熱くなり、胸のあたりはどくどくばくばくと忙しなく鼓動を刻む。鮮やかな赤毛から覗く耳も負けじと赤く染まっていて、あいらしい恋人の頭の中がどうなっているのか知りたくてたまらない。自分と同じようにくちびるを、肌を、合わせて重ね、離れ難いと交わりたいと思っていてくれるのだろうか。
 久方ぶりの恋人の体温と重みは途方もない充足感をもたらしてくれた。このままずっと、もっと、と願わずにはいられないが、恋人から待てと止めろがかかる。
「せっそうがいったこと、わかってんのか……?」
 腕の中から解放した恋人はつやつやぴかぴかと光り輝き、先まではなかった満ち足りた余裕を感じた。あれだけスキンシップとボディタッチが多いのだ。恋人もまた、足りていなかったのだろう。
 舌足らずなのは久々の接触で茹で上がったせいだろう。抱き締めながら、恋人の下腹部にも血が巡り熱を帯びているのは感じていた。
「わかったって言ったろ。要するに節度を保てばいいんだ。俺は絶対にお前に手を出さない。お前がわからなくても俺が止めてやる」
「……コレは、我慢ならなくねぇのかよ」
「俺はかわいいかわいい恋人と大手を振ってお付き合い出来ないことの方が我慢ならん……二十歳になったら嫌と言うほど、嫌だと言ってもかわいがって、俺が知らない場所も、触ってない場所も無くしてやるからな……」
 茹蛸と化した恋人の威嚇するように飾られた耳に、安心して我慢し合おうと囁くと、びくん、と跳ねて逃げられる。いささかへっぴり腰の理由は聞かずともわかるから、そのまま逃してやった。
「なんつうか、今まですごいことしてたんだな……」
 そうしみじみとぼやく、目覚めたばかりの恋人はまだ気づいていない。
 『節度を保ち、度が過ぎたら止める』という大義名分を、最も触れるのも触れられるのも避けたい相手に与えてしまったことを。
 復活した接触で、事あるごとにこれくらいなら大丈夫、それをいやらしいと思うのか、などと言われ、もっと意識せざるを得なくなることを。

2024/9/27


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