慈雨でくちる腹は無い
はたして自分が十九の時にはどのようであったか。
思い出そうとすると今は遠く離れた東都にいる友人との記憶ばかりが蘇る。
馬鹿な事をたくさんした。良い事も悪い事も同じくらいあって、あと一年で大人になるんだなんて話もして――
「よぉ獄、煮干し食うか?」
少なくとも、雨の中、カエルと揃いの合羽を着て、煮干しの奪い合いはしていなかった。
以前の依頼人づたいに相談を受けた相手は閑静な住宅街に住んでいて、立派な庭で凝ったガーデニングをしている。
道路に面した木製の柵にそい、色とりどりの紫陽花が綺麗な丸を描いて咲きほこる様は自然にそうなった風に見えるが、計算ずくだろう。
馴染みの寺の広大な庭――と言っていいのか――にも紫陽花は咲いているが、咲くがままにまかせているというそれはもっと野味がある。
かけられる時間の違いもあるのだろうが、どちらが良いという事もない。ただ『家族』が少なからず面倒をみている庭の方が馴染み深いだけだ。
高さも色味も計算されたあわく優しい色の花弁に、見慣れた濃い色をした花弁が恋しくなる。のびのびと育った葉茎を惜しむ大雑把な剪定から乱暴な愛情を感じたい。
そう、思っていた矢先の邂逅だった。
近くで用事を済ませた帰りだという子供と並んで歩く石畳は濡れてつるつるとしてよく滑る。傘をさしていると余計に不安定に感じる隣で、手ぶらで跳ねる緑の塊が水たまりに着地した。ぱしゃ、と車道へ向けて飛び散った雫は雨で黒々としたアスファルトへと吸い込まれて消えていく。
『あの子は傘を持ちたがらないし、持たせたら武器にして壊す、しまいには持っていた事を忘れる……ごくたまに困っている人に渡していたとも聞きましたが』
咎めたらいいのか褒めていいのかとため息をついた住職――父親――が、諦め半分で用意した合羽と長靴は存外悪くなかったらしい。
手を塞がず、武器にならず、身につけているから忘れない。自由に動ける事で数少ない善行の妨げにもならないだろう。
その慈悲がよもや蛙にまで及ぶとは思ってもいなかったが。
「そもそもなんで煮干しを持ってんだよ……」
「ウチ、猫来んだろ?」
「ポケットになんでも突っ込むなって言ってんだよ」
「んだよカリカリしやがって。やっぱ煮干し食えよ。カルシウム足りてねーぞ」
げこげこと鳴く蛙を抱えたまま、煮干しの袋を差し出された。さっきドラネコならぬドラカエルに咥えて逃げられた、と言っていた袋は、蛙のせいか雨のせいか、しっとりというかびしょりとしている。
「いらん」
「しょうがねぇなぁ」
袋の湿り気のいくらかは蛙のぬめりかもしれない、と思うと気が引けて、あえて傘で顔を隠すようにして断った。
存外に察しのいい子供は言葉と態度で否と示せば理解はしてくれる。理解だけは。
「隙あり!」
「おぐぅっ」
理解したからと言って退いてくれるわけではない。本当の本当の本当に退かねばならない時以外、子供は自由奔放で傍若無人に振る舞う。
だから傘は盾のつもりでもあった。その最低限の拒絶と警戒を正しく認識した子供は、正しくそれを無視して動いただけで。
きゅ、とゴムが軋む音がしたと思ったら、隣にいたはずの人影が目の前に移動していた。合羽と長靴が可能にした雨に負けない立ち回りでするりと懐に入り込んだ子供に、煮干しを口にねじ込まれる。
驚く間もなく上がった声はそのまま勝ち鬨に変わった。
「うぇ、ぉま、きゅうに……!」
「ワリィ、勢い余った」
幸いにも互いに怪我はない、が。唐突に口に広がった磯臭い塩気に咽せた。さきまでの訪問先で出されたコーヒーと茶菓子が残る舌には落差がキツい。
えほえほと咳が止まらずにいるのに悪びれない子供を恨めしげに睨めば、さすがに悪いと思ったのか殊勝な顔で詫びられた。
「すまん、拙僧が悪かった」
「まったくだ……っこの、くそ、ぼうず……っ」
それにしてもなんだってそこまで煮干しを食わせたいのかと子供を見れば、やはり察しの良い子供は神妙な顔を作り損ねたように笑う。
「だってよ、獄、このカエルに似てんだよ」
なんでもない風に近寄って来て、ちょっと可愛がったらもっともっとってして。
そんで気に入ったらぜんぶ全部、欲しい欲しいって。
「カエルにはやれんけど、獄になら全部やるぜ?」
「……だからいらんっていってるだろ……」
まだ咽せている体を装っておさえた口の奥、腹の底でうごめく欲望を抑え込む。
黒く、大きく、広い傘の中。人通りのない道の上。呑気に鳴く蛙がいなければ、俺は――
2024/6/21
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