夜をなぞれば日がおちる
年々悪化する暑さの中、資料集めだ聞き取りだと走り回った恋人が汗みどろで帰ってきた。
暑さでヤケクソになったのか全部持ってけ! 全部ぶちまけます! と予想以上の収穫があったと口だけで笑う恋人は、ぼたぼたと汗を垂らしながら水を飲み干す。
着くなり事務所備え付けのウォーターサーバーを陣取って何杯かを続け様に飲んだ後、最後になみなみと注いだ一杯を持って所長室に来たのだと言う恋人は、エンジンがかかるとそのまま走り出して止まらない。
倒れんなよ、と寺を出る前に持たされた塩タブレットを投げつけると、危なげなく受け取られた。今回は移動中にも水分・塩分の補給が出来たようだ。
「びしょ濡れじゃねぇか、ごくろーさん」
「俺だって好きで汗だくになってねえ」
鉄壁の髪のセットすらうっすら崩れ、シャツが肌に張りついている。
苛立たしげに寄った眉間のあわいにも汗がつたい落ち、よく冷えた所長室と外部の温度差を感じた。
体温が上がっているせいだろう。ふわ、とマナーていどにつけているという嗅ぎ慣れた香水の匂いが広がる。
「そういえばなんでお前いるんだ?」
「オツカイの帰り」
「俺の事務所は休憩所じゃないんだが」
「カワイイコイビトにお出迎えされて何が不満だよ」
「ソファで寝っ転がってるだけだろ……」
ハンカチと汗ふきシートを使って汗を拭う恋人は、それでもなおほてった顔で暑い暑いと呻いている。
濡れて張りついた半袖から覗く腕を、拭いても拭いても吹き出す汗が浮いた筋や血管を綺麗になぞって落ちた。
クソ、と小さく悪態をついて目を細める顔に、む、と熱気が湧き上がったように感じる。
香水の香りもまた、広がった。
「……?」
「どうした?」
「……いや、なんでもねぇ」
ふぅ、と大きく深呼吸をした恋人の胸が隆起して、沈む。ひそめられていた目や眉もゆるんで、いくらか穏やかな、いつもの表情に戻っていた。
――ここまでの流れをどこかで見た、と思うのに思い出せない。
毎年の酷暑だ。似たように外回りに出て、タイミング悪く水分と塩分をとり損なった恋人が熱中症寸前で帰ってきたのを看護した覚えもある。
今年も何度となく似たシチュエーションに居合わせ、似た様子の恋人に出くわすのだろう。
けれども、何かが引っ掛かる。
「空却?」
いつの間にか黙ってしまっていたらしい。
上から覗き込む顔の近さにびく、と肩をふるわすと、く、と喉奥で噛み殺すように笑う。
ふ、と熱い息をおおめに含んだ声は馬鹿な子供ほど可愛いと言いたげで、道化た自分を責めても男を責める気になれない。
それよりも、気づいてしまった。
この体勢と距離感と、熱で。
知っている。つい最近、同じような状況で過ごした夜を知っている。
エアコンがついているのに二人とも汗だくで、ぬめって滑るからとかたく手を握られて、離れぬよう足を腰に絡めるように言われて、体の外も中も、ぜんぶあつくてあつくて目を閉じたら、獄の、匂いが――
「帰る!」
繋がった記憶と現実に耐えかねて恋人を避けて立ちあがろうとするも、覚えのある重みがのしかかってきた。
肌に馴染む熱っぽい手のひらがエアコンで冷たくなった頬を撫でる。
思い切り暴れるまでもない、嫌だと言えば解放されるはずだ。
それなのに、ぜんぶがついこの間の夜に重なりそうなのにぐらりとして、近づくくちびるに自分のものを重ねてしまう。
目を閉じればおんなじ夜の匂いがした。
2024/7/26
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