喪失ワンナイト
目覚めてすぐに違和感があった。
見慣れた天井、見慣れた壁、見慣れた部屋とその中にしかし、一つ見慣れぬものがある。
「よーやっと起きたかよ……」
「……空却……?」
なんで、と問う前に唇の前に指を突きつけて、みなまで言うなと止められる。
顰めた顔の目尻はひどく赤く、よく見れば目蓋も少し腫れぼったい。くちびるだっていつもより濃いピンク色をしていて——
「思い出してはなさそうだけど、思い至ったって感じかァ?」
鼻で笑いながら吐き捨てられた言葉に、どうやら想像通りらしいとずきん、と頭と胃が痛む。
この痛みは果たして、罪悪感なのか酒の名残なのか。
生まれたままの姿で二人。ベッドに並んで転がっていても状況は改善されないが、少しだけ呆然とするのを許してほしい。
「拙僧が介抱してここまで運んでやったのは」
「覚えていない……」
「帰ろうとする拙僧を引き止めて引きずりこんだのは」
「……全く記憶にない」
「逃げ出そうとする拙僧を手籠にしたのは」
曰く、誰と間違えている、やめろ、と口も手も足も出して抵抗したのに強行突破された——らしい。
目の前に差し出された手首には、自分の手がぴったり重なるであろう青痣がくっきりとついている。その痛々しさに息をのみ、胸を抉られる暇もなく、身体を覆っているブランケットを覗きこむと、似たようなのが足首と腰、太ももとふくらはぎにもついている、と言われた。
音を立てて血の気が引くのを感じながら、いっそうずきずきと頭と胃が痛む。全身にだるさが残るのに下腹部だけはスッキリとしていて気が重くなった。
「その……空却……」
「拙僧のヴァージン、ヨカッたか?」
手首をさすりながら問われたことに答える術がない。何せ昨夜の記憶はしたたか酒を飲みすぎたかな、と思った所で途切れているのだから。
冷や汗が吹き出して止まらない。喉もカラカラで声が出ないのに頭と胃がガンガンキリキリと悲鳴を上げる。
「すまん……。本当に、何も……覚えていないんだ……」
痛む頭をどれだけ鞭打っても目の前の大事な『家族』に無体を強いて暴行をした罪禍が蘇らない。あまりのおぞましさに無意識に記憶を無くしたのか。そんな無責任、あってはならないというのに。
起き上がって謝罪をしようにも割れんばかりの頭痛で起き上がれない。どれだけ飲んだのか。自制も出来ず、あげくまだ成人したての子供を抱いて——
「別に怒っちゃいねぇし、訴えもしねぇよ」
「でも空却……」
「あ、でも酒だけはやめろよ。せめて今日から一ヵ月くらいは」
だからそんなこの世の終わりみたいな顔をするな、と笑う顔に真実、怒りはなかった。
酔っ払いなどいなしなれているし、素面よりもよほどやりやすい。襲いかかられたとしても拳一つで簡単に沈めることが出来る。
行くな、帰るな、まだいてくれ、と縋りつかれても容赦なく殴るなり蹴るなりすればよかった。
ベッドの中で服を乱暴に剥ぎ取られたなら、間近に迫った顔面に頭突きをするなり無防備な股間を蹴り上げるなりすればよかった。
両手をひとまとめにして掴まれて強引にくちびるを奪われても、あらわになった肌を手慣れた様子で愛撫されても、強引に足を開かれて見たことも触ったこともない場所を暴かれても、いくらでも、簡単に逃げおおせることが出来たのに。
「空却……好きだ……好きなんだ……」
誰かと間違えているわけではない。他の誰でもないお前だとわかっている。そのお前を帰したくない、離したくない、抱きたいのだと身も世もなく縋りつかれた。
「だァから拙僧のヴァージンくれてやったってのに」
「空却さん……声、声……」
寺の居住区内とはいえおかんむりの師匠はいつにも増して声が大きくなる。原因は数日前の事故だ。
いつもバカだガキだと言う男がいたく可愛らしく求愛するから不覚にも『きゅん』として、それで欲しい欲しいと強請ったものをやったのに覚えちゃいねぇどころか謝りやがる、とずっと怒り続けている。
そうなのだ。この鬼のように自他に厳しい師匠は『家族』といえど、否、『家族』だからこそいっそうのこと高みを求める。もちろん厳しいばかりではないのだけれど、気まぐれだけで体を許すようなことはしない。本気で抵抗したならばマイクも持てぬ酔っ払いなどひとたまりもないのだから。
簡単にわかりそうなことなのに、とひとりごちるも、酔っ払って記憶をなくした翌朝のやらかしに冷静に対応出来る自信は自分にもない。その上、やらかしの理由は一生黙っているつもりだったに違いないから同情を禁じ得ない。
勢い事故で肉体だけ成立してしまった両片思いは、もしかしなくとも自分がとりもたねばいけないのではないか?
このままでは『家族』としてもぎくしゃくしたままになってしまうだろうし、二人がどんな関係に落ち着くとしてもせめてきちんと話し合ってほしい。
それはきっと自分にしか出来ない——芽生えた使命感に導かれるにまかせ、すっかり音信不通気味の恩人を呼び出すべく、スマホへと指を滑らせる。
一番よく使うメッセージアプリに、そろそろベッドの中での詳細な話をされそうだ、と打ち込んですぐ、けたたましく電話が鳴り響き、これから行くから耳を塞げと叫んで切られた。
かくして酔っ払い事故は使命感に燃える弟子の手によって一気に正式交際へとまとめあげられた。
獄さんがやらかした日って禁酒の日だったみたいっすね、という一言が深く深く刺さったと、毎年一月半ばが近くなるたび恋人となった男がぼやいている。
2025/1/16
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