椿事コキュートス
十五、十九、とんで二十五。
不惑に足を突っ込んだ翌年、空却が結婚するという話が舞い込んだ。
相手は? 名前は? 出身は? 馴れ初めは?
インターネットに跋扈する小金稼ぎのゴシップブログめいた文言が頭をよぎるのを黙らせて、へえ、とだけ返事をすれば、気にならないっすか? と情報提供者に驚かれた。
呼び出されて入った駅前のカフェで、さも重大機密かのごとく声をひそめて囁かれた内容としては正直拍子抜けと言っていい。
「どんな豪胆な野郎だとは思うが、必要ならそのうち紹介なりなんなりされるだろ」
出会ってから十年。生意気で無茶苦茶をするクソガキを卒業し、立派な寺の後継者として灼空さんが名前を上げることも増えた。
良い仲の相手がいると噂されたのだって今回が初めてではない。結婚というある種のゴールでありスタートが示されたのは初めてだが、それだって空却の年齢を考えれば不思議ではない。
「自分達の中で一番に結婚するのが空却さんかぁ」
「意外——ってほどでもないだろ」
「それはそうなんすけど、自分は空却さんは獄さんと結婚すると思ってたっすから」
「はあ?」
思わず取り落としかけたカップをどうにか机に着地させると、ぱたた、と数滴のコーヒーもそれにならった。
殺し損ねた動揺を下から上へとなぞる鮮やかなエメラルドの瞳は、絶望と悲痛に満ちていた子供の頃と色だけしか同じではない。
「だって、空却さんは一度決めたことはほとんどやり遂げたじゃないっすか」
DRB優勝なんてことすら、と続けられて、優勝直後の記憶が蘇る。
ぼろぼろの格好で、ところどころ汚れてすらいる子供が、ひどく神々しく見えたこと。
ステージから降りて、偶然控え室で二人きりになった時に視線が交わったこと。
十四が他の出場者を引き連れて戻るまでの、ほんのわずかな間に、何度目かの愛を告げられたこと。
それに、否とこたえたこと。
「ほとんどってあたりが締まんねえな」
「でもそうじゃなかったら空却さんはDRBの参加を辞退して、自分達は解散して……優勝どころじゃなかったっす」
「……そうだな」
「だから、まだ間に合うっすよ」
「何がだ」
「自分が言って、いいんすか?」
意味深に細められた目に多くの含みを持たせるのは、一体全体どこの悪い師匠に似たのか。
万札を置いて席を立つと、今日はおうちデートらしいですよ、と何もかもお見通しの顔をされた。
そういう、タチの悪いところは見習わなくていいんだよ。
十五、十九、とんで二十五。
三十一、三十五、とんでも大差の無い四十一。
十六歳下の子供の持つ可能性と未来を手折りたくなかった。
自分よりも余程、相性も仲も良い相手がいるのだと突きつけられた。
最後の告白から数年、ひそやかに流し、送られる視線の熱さと憂いに、胡座をかいていた。
駅前から乗ってきた車を走らせて寺へ向かう。こんなときに限って混雑している駐車場にイラつきながら、ロスタイムを埋めるように居住区域へと走り出す。
十年で増えに増えた顔馴染みは、すれ違うたび、空ちゃんはおうちの方よ、空却くんはこっちにはいないよ、などと親切に教えてくれる。誰一人として俺がただ寺に来たとは思わない。
いつもより早くたどり着いたはずの目的地はしかし、いつもよりもずっと遠くに感じた。
見慣れた古めかしい呼び出しボタンを押しても返事がなく、別れ際の十四の言葉を思い出して、気づけば嫌がらせじみた回数と速度でボタンを鳴らしていた。
やがて、不機嫌を隠しもしない足音が呼び出し音に重なり、玄関へと近づく。こんなことをするやつはこの寺に一人しかいない。
「ンだよ、拙僧は取り込み中だ」
俺が檀家さんだったらどうするのかと思うほどのしかめつらと、盛大に胸元の開いた作務衣で戸を開けたのは、予想通りの、そして一番会いたい人だった。
わずかに残っていた幼さを削ぎ落とし、青年にふさわしい精悍さは研ぎ澄まされ、妖しい色気は熟れて香り高い。背丈と新雪もかくやという白い肌に変わりはないものの、いっそう引き締まった肉体はつたい落ちる汗すら甘露の風情を帯びる。
もはやガキとは、子供とは言えない。完成した美丈夫に息を飲む。いまさら、と勇退を促す頭の中の冷静な自分自身を黙らせてなお、警告がくり返された。
初夏の日差しの中を走ってきたから汗だくで、時間を惜しんで着たきりのジャケットをようやくくつろげると、余計に汗が吹き出した。だくだくととめどない汗が頭から滴り落ちて、セットした髪が崩れるのがわかる。
何一つ、格好がつかないまま。それでも腹を括らねばならない。
「俺も、急ぎの用がある」
「手早くしてくんねぇ?」
全速力で走った代償の荒い呼吸を気遣いもせず、尊大に顰めるかんばせすら美しい。
タイプは違うが同じくらい整った顔立ちの青年と会ってきたばかりなのに、こんなトチ狂った賛辞は頭に浮かびはしなかった。
それが、それこそが、四十を越えた男を愚行に駆り立てる理由の全てだ。
「すぐ、済む」
「とっととしろ」
拙僧は人を待たせているんだ、と苛立ちを隠さずに吐き捨てる目に、いつかの甘さはない。何もかもかなぐり捨てて抱きしめたくなるような切なさも。恥ずかしくなるほどの好意も。否としたのは自分自身だというのに。
「結婚、するんだろ」
「まさにその話の真っ最中にテメェが来た」
「相手は」
「親父のダチの寺のヤツ」
「良いヤツなのか」
「あの親父のダチが選んだ相手だぜ」
「……好き、なのか?」
「獄は、なんて言ってほしい?」
ぽつぽつと続いた応酬は、もはや恋を過去のものにした青年の引導で沈黙が訪れた。
金の目は凪いだまま、望む決着をつけさせてくれると言っている。
「俺が……俺の方が、好きだ……」
「——そう、言ってほしいのか?」
「違う、そんな……ぽっと出の、お前のことをなんにも知らねえヤツなんかより……! 俺の方が空却を好きに決まってるだろ……!」
想定外に出た大声を真っ向から浴びて、大人の落ち着きを醸し出していた青年がぱちくりと目をまたたかせた。
大きく見開かれた金色が恥じらうように閉じていく仕草は今日初めて見る幼さで、何かを言おうとして声にし損ねたくちびるがぱくぱくと空を食んでいた。
重なる騒ぎを見過ごせなくなったのか奥から人が来る気配がして、青年が背を向けるのを無理矢理に引き止める。掴んだ肩はがっしりとした大人のもので、全力で振りほどこうとされたならば逆らえない。
けれども、掴んだ肩は簡単に引き寄せられ、胸元に抱き寄せ、そのまま閉じ込めてしまえた。触れた肌はどくどくと脈打ち、雪のような白から燃えるような赤に変わる。
清楚を装ってか飾りなく、穴ぼこだらけの耳も同様で、鼓膜へ繋がるすぼまりに『言ってほしいこと』を流し込んだ。
「空却だって、まだ、俺が好きだろ……?」
この後、なんと詫びをして、どれほど償えばいいのか。
返事がなくとも雄弁なくちびるを奪った今、もう地獄以外の行き先はない。
「はぁー……悲壮なツラして親父に土下座する獄、最ッ高!」
「どいつもこいつもハメやがって……」
「共犯は十四だけ、あとは獄が勝手に騙されたんだろ」
「……このクソガキ!」
「そうやって、拙僧をガキだ子供だって諦めようとした罰だよ。向こう三年、みっともねぇプロポーズをいじられな!」
2025/5/9
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