それでは百年後

 嵐のような中坊に突然、ツラを貸せと事務所に押しかけられて、ラップ——食品保存に使う箱入りのもの——を突きつけられた。
 刃のごとく構えられたそれに騒然とする職員を宥め、所長室に子供を誘導してドアに鍵をかける。
 部屋の中、果たし合いのように向かい合うと、あらためて喉笛を狙うように伸ばされたラップを指先で退け、人の急所に得物を向けるな、と軽く叱った。存外にあっさりと下げられたのは、ラップでちゃんばらをしに来たわけでないことの証左になるが、それ以上ではない。
「今日はなんだってんだ?」
「キスさせろ。魚じゃなくて接吻の方の」
「接吻……」
 派手派手しい見た目の子供が口にするには、なんとも古めかしい響きの言葉が意味するところは一つ。くちびるとくちびるを重ねる、アレだ。
「直接だと獄が犯罪だ社会的殺人だってうるせぇからコイツを使う」
「なるほど」
 くるくるしたり美味しさを包んだりしてくれるそれをどう使うかはわかる。わかったからと言ってじゃあやりましょうとなるわけがない。
「誰がやるかバカ。こんなん使った方がよっぽど犯罪だろ」
「間一枚挟むんだから大丈夫だろ?」
 首を傾げる子供は本気で名案だと思っていたのか、ラップをぶらぶらと振りながら不満気にしている。固い芯が箱の中で揺さぶられる音がだんだん激しくなるのを無視出来たらよかった。
「あのなあ……そもそもなんで俺なんだよ。もっといるだろ? 他に。学校とかで可愛い〜とか、かっこいい〜とか……」
「拙僧が一番、可愛〜くてかっこいい〜キスして〜と思うヤツのとこに来たんだが?」
 ぱん! と気が短いバカガキの苛立ちが頂点で弾ける音がして、ラップの箱がひしゃげた。プリントされたマスコットキャラの顔が無惨に歪み、隙間からラップの端っこが光るのが見える。
「だあから……お前みたいな中学生のガキンチョとラップ越しキスなんざ喜んでする大人はヤバいんだって……」
「なら直接すっか?」
「直接はもっとヤバいんだよ……つうか今のお前とキスしたがる大人は全員ヤバいんだって……」
「拙僧がイイって言ってんのに?」
「お前がイイって言ったってキスするのは一番ヤベエやつだよ……」
 この話を、これに近い話をするのは何度目だろう。
 折れず曲がらず退かない子供が手を替え品を替え猛烈なアタックをするのを、折って曲げて退かせてなんとかかわし続けている。
 堂々巡りをしすぎて、どうしてわかってくれないんだという嘆きと疲労でヤバいしか言えなくなってしまった。
 ほとんど完成した美貌を台無しにするクソガキそのものの表情がなければ、一回くらいとやけくそを起こしたかもしれない。
 はあああ、と腹の底からため息を吐き出して、きつく寄った眉間をほぐすついでに目を閉じる。
 ラップを握ったまま、じぃ、とこちらを見つめる金の目と交わるのを避けたかった。
 否として告げ続けた『ヤバい』は、お前の心とは違うだろう、と見透かしているからだ。
 それでも、俺は——

「……わかったよ。意気地がねぇんじゃなくて、それが意地だっつうなら退いてやる」
 気持ちは永遠のような数分間の後、すっかりぼろぼろほになったラップで見事なスイングを描く音と共に子供が撤退を宣言した。
 たかが数分、されど数分。こわごわ開いた目の先の子供はこちらではなくラップを見ていて、がたがたになった蓋を持ち上げると、ぴぃぃ、とCMでやるように透明なフィルムを引きずり出していた。
「手、出せ」
 人一人分の顔を覆えそうなサイズのラップを切り出した子供はなんもしねぇ、と言うが、さっきまでその薄いフィルム越しでのキスを迫られていたのだ。どうしたって隠せぬ疑いの眼差しを向ければ、なんもはしなくねぇか、と即前言撤回をされた。
「何するつもりだよ……」
「生娘みてぇに怯えんじゃねえよ。オトナだろ」
「だから怯えてんだよ」
 子供のお前にはわからない、と言外に含ませたのが正しく伝わったらしい。
「獄が死ぬこともなきゃ罪に問われることもねぇし、ヤバくもない。ガキのふざけたお遊びにしか見えねぇコトだよ」
 だから安心して手を出せ、と笑う声はいつもの調子だったがどこか自嘲を含んだ響きを纏う。
 俺が怯えたせいか、と罪悪感がわいたものの、油断すればこの子供に容易く飲み込まれてしまう未来が見える。
 ただ全てを突っぱねるのも悪手だろうと、そこまで言うならば、と左手を差し出せば、上からふんわりと切り出したラップをかけられた。
 手の甲から指先への筋張ったラインをなぞってかぶさっていくフィルムをなんとなく目で追っていると、ふと、子供の頭が近づいた。
 しまった、と焦るものの、いつもの飢えた肉食獣に似た鋭さはなく、するん、と水か空気が流れるように距離を詰められる。
 そうしてそのまま、微風が撫でたていどの、ほんのかすかなくちづけが手の甲のど真ん中に落とされた。
「……誓ってやる。獄が、拙僧とキスしても死ななくて、罪にもなんなくて、ヤバくなくなるまで、こういうことしねぇ、って」
 だから待ってろ、と言い方ばかりが尊大な、ひどく小さく消え入りそうな、けれども怖じけづいて震えることのない懇願が、もはやどこにも触れていないくちびるから紡がれる。俯いた小作りな頭も微動だにせず、こたえを待っていた。
「……三十男をどこぞの姫みたいに口説くんじゃねえよ」
「ばぁか。今どきのお姫さんはテメェで好いたヤツを捕まえにいくんだよ」
「おっかねえなあ……俺のお姫様は」
 観念して目の前の薔薇のような赤毛をくすぐると、子供が勢いよく頭を上げる。
 危ない、と叱れば、ひゃは、と聞いているんだかいないんだか、ともかく満面の笑みを浮かべていて、そのきらきらと輝く目に映る自分の顔も、どうしようもなく浮かれていた。

2025/5/23


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